写本の行方5
フランとリィが泊まっている宿は、王都の城壁の外にあった。
泊まっているのは彼女らだけである。それどころか宿には、宿の主さえ住んでいなかった。傾いて危険なので避難しているのだ。
仮に天井が落ちようが壁が崩れようがフランがいる限り何の心配もなく、無理を言って格安で泊めさせて貰ったのである。
宿の部屋の扉を開ける前に、フランは一つだけ、リィに注意をするのを忘れなかった。誰もいないはずの室内から、ランプの灯りが洩れていた。
「リィ。部屋にいるヤツの心を読んじゃ駄目よ」
「何故ですかぁ」
「しばらくお肉が食べられなくなっちゃうから」
「ああ、それは嫌ですねぇ」
フランが扉を開けると、小さなテーブルに湯呑を置いて、小柄な老人が、狂乱が座っていた。
「邪魔しておるぞ」
世間話でもするかのような気軽さで、狂乱は言った。
「聞いてはいたけど、改めて貴方を見ると、やっぱり殺したくなっちゃうわねぇ」
「無茶を言いよるの」
「貴方程じゃないでしょう?」
「それじゃあ、着替えてきますぅ」
「ええ。そのままお湯しちゃいなさい」
「はーい」
リィが部屋の隅に置いた荷物から着替えを取り出し、部屋から出て行く。
行水をする程度の浴室が別にあるのである。たらいほどの小さな湯船には、毎日、新しい水を入れて貰う約束になっていた。服を脱ぐ間にその水を精霊術で適温まで沸かすことなど、彼女らにとっては簡単なことだった。
フランは狂乱の前に座り、彼の皺だらけの顔を見た。
「頼みがあるそうね。何かしら」
狂乱はそれには答えず、リィの消えた扉を目で追っていた。
「念のために言っておくけど、あの娘に手を出しちゃ、駄目よ」
フランは狂乱を見つめたまま言った。
「手を出したら、タダでは済まさないってことかの」
「いいえ。手を出したら、貴方が逆に殺されちゃうから」
「ほう」
意外そうにそう言って、狂乱がフランに視線を戻す。
「あの御方にあなたを無事に帰すって約束しちゃったもの。とりあえず、忠告はしたわよ。それで?」
「そうじゃの。先に用事を片付けるとするかの」
狂乱がリィへの興味を振り払うかのように呟く。
「実はの、『完璧な世界』の写本についてなんじゃがの」
「もしかして、見つけたの?」
「そうじゃ。しかし、盗られてしもうた」
「誰に?」
「ネッドというコソ泥じゃ。ま、元コソ泥かの。今は復讐者たちの一人、おそらく、最後の一人と言った方がいいじゃろう」
昨夜のことである。
狂乱は、資金の流れを追って--むろんその都度に人を殺しながら--彼に辿り着いたのだ。『完璧な世界』を研究していた3人の神官のうちの一人の、あまり知られていないスポンサーだった。
王都に近い小さな街、作りが丈夫だったからか倒れずにいた屋敷の一室で、狂乱は『完璧な世界』の写本である魔術書を手にしていた。
「これじゃ、これじゃ。なんと素晴らしい」
狂乱は喜びの声を上げた。
写本には『完璧な世界』に関する詳細と数式、そして数ページに渡る呪文が書かれていた。
数式は短く簡素で、かつ美しかった。
「よう、渡してくれたの」
狂乱は床に倒れた男を見下ろした。スポンサーの男は生きていた。生きていて、かつ、死んだ方が幸せな状態だった。
狂乱は魔術書をテーブルの上に置いた。
テーブルから数歩だけ離れ、涙を流し続ける男の上に屈み込む。
「素直に渡してくれた礼じゃ。楽にしてやろうかの」
ふと、部屋の灯りが消えた。
何事かと顔を上げた狂乱に、誰かが声をかけた。
「相変わらず趣味が悪いな、狂乱」
感情の籠らぬ平板な声。
閉じていたはずの窓が開き、窓枠に男が腰かけていた。
短い赤い髪。真一文字に閉じた口。そして、彼を見つめる小さな水溜りのような目。
誰何はしなかった。狂乱は鳳雷を使い、そして、すぐに短い悲鳴を上げて壁に激突した。悪態をつきながら窓を見上げると、既に男は姿を消していた。
狂乱は立ち上がって窓に歩み寄ろうと一歩を踏み出し、再び悲鳴を上げた。
「おのれ」
足元を良く見ると、カルトロップが、判りやすく言えば、鉄製の撒菱とでも言うべきもの、つまり、鉄菱が床の上に撒かれていた。
「鉄菱?そんなもので止められちゃうの?」
「まあのう」
狂乱が茶を啜りながら頷く。
「空を飛んでおる訳ではなく、走っておるだけじゃからのう。特にな、ワシも歳じゃ。夜はまるで見えん。もっとも、あの男が初めて気づきおったんじゃが。
ワシも初めてヤラれた時はこんなものでと、かなり驚いたわ」
「何者なの、その人」
フランも湯呑を手にして訊く。ただし、中身はグレープフルーツジュースだ。お茶を楽しむにはまだ、彼女は肉体的に若すぎた。
「さっきも言ったじゃろう?コソ泥じゃ。ただ、ちっと頭が良くての。最初に会ったときには、泥棒家業のために独学で風の精霊の術を覚えておった。今は、どんな術が使えるのか、ワシにも良くは判らん」
「ちょっとどころじゃないわねぇ、それ。もしちゃんとした教育を受けていたら、相当、優秀な魔術師になってたでしょうねぇ」
「彼奴さえおらなんだら、復讐者どもなどなんということもなかったんじゃがのう。結局、ヤツが最後まで生き残りおった。当然と言えば当然じゃがの」
「それで、写本を盗られて、どうしてあたしのところに来たの?」
「彼奴めは必ず風士隊を頼るじゃろう。彼奴一人ではワシを殺せんからの。あの場から逃げたのが良い証拠じゃ」
「で?」
「さすがにの、ワシ一人では風士隊そのものが相手ではどうにもならん。雷娘が動けんのは幸いじゃが、風神の小娘もおるでの。手を貸してくれんか?」
「あたしがうんと言わないのは判ってるでしょ?」
「お主も『完璧な世界』には興味があるじゃろう?あの数式は、思わず涙が出るほど美しかったぞ」
「そうねぇ。それは見てみたいわねえ」
「じゃろ?どうじゃ?」
「でも、ダメ」
「何故じゃ」
「知ってるでしょ?」
狂乱は溜息をついた。
「そうか。万が一にもと思うたんじゃが、昔のことと水に流してくれんか」
「あたしは忘れないもの」
「そうじゃったの。ワシはいかん。どんどん頭が惚けてきよる。術ももう、若い頃の様には使いこなせん」
フランは意外そうに狂乱を見た。
「愚痴なの?」
「そうじゃ。この歳になると膝も腰もひどく痛くての。たまにの、雷娘や風神の小娘が羨ましくなるわ。そういえば、風士候補生のあの若造も良かったの。若さと無謀さに溢れておった」
「貴方が指と脚の骨を折ったっていう彼ね。さっき話を聞いて来たわ」
「そうじゃ。是非、あやつの中身を見たかったんじゃがのう」
「変わらないわね、狂乱」
「そうでもないわ。まあよい。では、手を貸してくれとは言わん。コレを」
そう言って、狂乱は自分の影を指差した。
「使わせてくれんか?」
「何に使うの?」
「両手を空けておきたいからの。ポケット代わりじゃ。ちいと物騒なモンと、上手くいけば『完璧な世界』の写本を入れることになるじゃろう」
「いいわよ、それぐらいなら」
「それでの、もし『完璧な世界』の写本をここに落とせたら、あの御方に届けて貰いたいのじゃ。どうじゃ?」
しばらく狂乱の顔を探るように見てから、フランは言った。
「死ぬ気なの?狂乱」
「生きて戻る手立てが思いつかん」
「でも、写本を手に入れるぐらいなら出来そうだという事ね」
「そうじゃ」
フランが考え込む。
「最後に華々しくやってやろうと思うての。狂乱と呼ばれたワシの術のすべてを見せてやろうと思うての」
入浴を済ませたリィが能天気に部屋の扉を開ける。「はぁ。いいお湯でしたぁ」そう言うとリィは、黙りこくった二人をまったく気にすることなくベッドに腰を下ろし、髪を拭き始めた。
「『完璧な世界』の数式を見たいじゃろう?この機会を逃すともう見れんぞ?あの御方に届ける前に、見ても良いのじゃぞ?」
フランが顔を上げ、狂乱を見る。
「あたしのこと、良く判ってるわね、狂乱。だとしたら、あたしが何を迷っているか判る?」
「判らん。なんじゃ?」
「影に、そこにいるあたしの妖魔に、魔術書を一冊渡すだけならあまりにも簡単すぎるってこと。貴方にはもっと苦労をして貰わなくっちゃ」
「……なんというヤツじゃ」
「そうね。条件をつけるわ。風士隊の本部の敷地に入って、『完璧な世界』の写本を影に落として、敷地から出てこられたら願いを聞いてあげるわ。ただし、ホンの1mばかり入っただけじゃダメよ。どれぐらいと言っちゃうと簡単だから、あたしが納得するぐらいは入って頂戴」
「どれぐらいじゃ」
「あたしが納得するぐらい。それだけよ」
「……本当に、酷いヤツじゃのう」
「あたしを楽しませてね、狂乱」
「いい死に方をせんぞ、シャッカタカー」
「知ってるわ。そんなこと」
「そうじゃの。お主が知らんことなど、ほとんど無いんじゃったの。では、寂しく帰るとするかの」
「扉から出て行ってね。空間転移を近くで使われるのはあまり気持ち良くないから」
「承知じゃ」
魔術師の黒いローブが扉を開け、後ろを振り返ることなく出て行った。
「ホント、酷いですねぇ。姉さま」
狂乱の後姿を見送って、髪を拭きながらリィが言う。
「まだまだ甘いわね、リィ」
「なにがですかぁ、姉さま」
「アイツは最初からそのつもりよ。もう長い付き合いだもの。もし、あたしがアイツの依頼をそのまま聞いていたら、むしろ裏があるんじゃないかと疑ってきたでしょうね」
「そういうもんですかぁ。難しいですねぇ。ところで、いつから潜ませていたんですかぁ」
「あたしの妖魔を?狂乱の影に?」
「はぁい」
「初めてアイツに会った時からだから、もう40年ぐらいになるかしら。あんな危ないヤツ、野放しに出来ないでしょう?」
「……野放しに、してますよねぇ」
「お母さまが許しているもの。お母さまは、どんなヤツでもお許しになるもの。あなたたちにさえ手を出さなければ、アイツでも自由に振舞う権利はあるわ」
リィは髪を拭く手を止め、フランを見た。
そしてひょこりと頭を下げた。
「なによ」
「なんでもないですよぉ」
そう言って、リィは嬉しそうに笑った。




