写本の行方4
「どうだった?あの二人」
酒場を出るとすぐに、フランはリィに訊ねた。緊張していた心を解きほぐすようにハァと息を吐き、ニコニコと笑ってリィが答える。
「嘘は言ってないですよ、フラン姉さま。あのお二人は」
「そう」
「はい。とーっても綺麗な心でした。姫巫女様とおんなじです。真っ黒なフラン姉さまとは大違いです」
フランがリィのお尻に回し蹴りを入れる。ひゃんと、リィは飛び上がった。
「あたしのことはイチイチ言わなくていいの」
「ひどいですぅ。デアに帰ったら、絶対お母さまに言いつけて叱ってもらいますぅ」
「わざわざ言いつけなくてもお母さまは全てご存知よ。アンタが酷い人見知りだってこともね」
「しょうがないですよぉ。性格なんですからぁ」
「まぁこれで、何があったかはおおよそ判ったわね。後は、『完璧な世界』がそもそも何なのかってことかしら」
「クロウさんのお話はズイブン参考になりましたねぇ」
「ええ」
「ところでフラン姉さま。お母さまはフラン姉さまに、何を調べるようにおっしゃったんですかぁ」
「特には何にも。あたしの判断で西も東も好きなようにしていいっておっしゃったわ」
「なんとビックリ。人情の欠片もない姉さまに好きなようにさせちゃったら、西ナリス王国も東ナリス皇国も灰燼に帰すしかないじゃないですかぁ」
フランが再びリィのお尻に回し蹴りを入れる。ひゃんと、リィは再び飛び上がった。
「あたしにだって人情ってモンはあるのよ、リィ。
ま、それはそれとして、お母さまが気にされているのは、『完璧な世界』が何なのか、ってことでしょうね」
「やっぱりそうですかぁ」
フランに蹴られたお尻をさすりながらリィが言う。
「姫巫女様が言われていた通り、風神様の一部が失われたことは間違いないわ。そんな話、あたしでも聞いたことがないもの」
「フラン姉さまがご存じないなんて、スゴイですねぇ」
「この世界が破れているなんて考え方も聞いたことないしね。発想が飛躍しすぎてる。それに、大災禍の前に狂乱が戦巫女様を襲ったのも不自然だわ」
「言われてみればそうですねぇ」
「雷神の戦巫女様がお一人だったから襲ったというのは、まだ理解できないこともないけど、風神様の戦巫女様が駆けつけた時点で逃げなかったのがおかしいわ。狂乱が戦巫女様を襲ったのは、何か別の理由があったのよ」
「別の理由ですかぁ」
「ええ。多分だけど、誰かに、おそらくあの御方に命令されたんでしょうね。戦巫女様を襲うようにって……。
うーん。他にもあの御方に確認したいことがあるんだけど、流石に難しいかなぁ」
「あの御方って、誰ですかぁ」
「それはもちろん……」
ふと、リィが足を止めた。
「どうしたの、リィ」
フランも足を止めてそう訊いて、ようやく気付いた。
いつの間にか周囲が闇に包まれていた。建物だけでなく、道路さえも姿を消し、ただ彼女たちの周囲だけが淡い光に照らし出されていた。
もともと王都は静かではあったが、耳が痛くなりそうなほどの沈黙が落ちていた。
そして、彼女らの背後から、骨の髄まで凍りそうなほどの冷気が、いや、瘴気が漂って来ていた。
「フラン姉さまぁ」
声を震わせてリィが言う。
「何?」
「後ろに、誰かいますぅ」
「リィ。絶対に振り返っちゃ、ダメよ」
「足が竦んで、そんなこと出来ませんよぉ」
既にリィは涙声だった。
「わたし、チビッてしまいそうですよぉ、姉さまぁ」
「いいわよ、チビッても。着替えは宿にあるし、誰もあなたを笑えないわ」
「久しぶりだね、フラン」
中性的な声が彼女らの背後から響いた。雷にでも打たれたかのようにリィがビクリッと体を震わせ、「あっ」という小さな声が洩れる。
「お久しぶりです、閣下」
フランは静かな声で応じた。
「こちらを向いて貰えないかな、フラン。可愛い妹の顔を久しぶりに見たいのだがね」
「では、わたくしだけが。こちらの娘はお許し下さいませ。まだ若輩者で閣下のご尊顔を拝見致しますと、それだけで卒倒しかねませんので」
「仕方がないね。いいよフラン、君だけで」
フランは少し息を吸い込んだ。表に出していた幼さを心の奥に引き戻し、代わって、彼女の本性の方を表面に出した。
意識することなく、冷笑が口元に浮かんだ。
リィは、隣に立つ姉の雰囲気が変わるのを感じた。フランは相変わらず彼女の横に立ってはいた。しかし、フランの気配は彼女の体から溢れて、まるでリィを守ろうとでもするかのように、リィと、リィの背後に立つ存在の間に割って入った。
フランは落ち着いた動作で背後を振り返った。
そこに、惑乱の君がいた。
身長は3mほどだろう。
足元よりも長く伸びた黒髪は闇に紛れ、身に纏っているマントもまた、闇そのものでもあるかのような漆黒だった。
そのため、面長な白い顔と白い手袋だけがまるで宙に浮いているかのようであった。
眉は細く、鼻筋が通り、薄い唇は紫色に微笑んでいた。
ほとんど左右対称といってもいいほどに整った顔は見惚れるほどに美しく、かつ、作り物でもあるかのようにひと欠片ほどにも感情が存在していなかった。
そして、切れ長の、まるで底のない穴が空いているだけの様な二つの黒い目が、どこか茫洋とフランに向けられていた。
「ご無沙汰をしております、閣下」
フランは優雅に膝を折って頭を下げた。
惑乱の君に対する恐れは、微塵も感じさせなかった。
「やはり君は、赤い髪がよく似合う。前に会った時は、確か栗色だったかな。あれはあれで可愛らしかったのだがね」
微笑を浮かべた惑乱の君の唇が、申し訳程度に動く。
「君がまだ子供の体なのが残念だよ」
「わたくしはこの体で良かったと思いますわ。そうでなければ、閣下にこのまま篭絡されてしまいそうですから」
「君を本当に篭絡できるのならいいのだけれどね、フラン」
フランが艶然と微笑んで、惑乱の君の言葉を受け流す。
「閣下、わざわざお出ましいただいた理由は何でございましょう」
「つれないね、フラン。せっかく久しぶりに会ったのだから、堅苦しい態度はやめて、もう少し優しくしてくれてはどうだい?」
「では、わたくしから幾つか質問させていただいても宜しいですか?」
惑乱の君の白い顔に涼しい視線を向けて、フランは訊いた。
「君から何かを問われるなんて光栄だね。何かな、フラン」
最初からそのつもりだったのだろう、惑乱の君はまったく躊躇うことなく応じた。
では、とフランは少し考えてから口を開いた。
「選王会議の当日に、狂乱の魔術師に戦巫女様を襲わせたのは、大災禍から風神様の意識を逸らすためですか?」
「もちろんだとも。彼は面白いぐらい嵌ってくれたよ」
やはり。と、フランは心の中で頷いた。だとすれば……。フランはいささか気を引き締めた。
「もうひとつ。『完璧な世界』の基になった、神官たちのこの世界が破れているという発想が、いささか突飛すぎるように思えます。もしや『完璧な世界』も、閣下が神官たちに指示をして構築させた術なのですか?」
「それは違うよ、フラン。私は神官たちに示唆しただけだよ。この世界は破れている、とね。30年以上前に、彼らが眠っている時に、彼らの夢の中でね。たったそれだけのことで、彼らは『完璧な世界』を構築したのだよ。
人というのは、本当に素晴らしいね」
「では、閣下は、『完璧な世界』が神官たちが構築している術だとご存知だったのに、それを教えることなく、狂乱に捜させたのですね」
「理由が判るかね」
「風神様に、術の構築に閣下が関わっていることを悟らせないため、……というのが表向きの理由で、本当は、その方が面白そうだから、でしょうか」
惑乱の君が、氷のような笑いを落とす。
「流石だね。可愛い妹よ」
フランも同じ薄い笑みで応じた。
「わたくしでも、そういたしますから。でも」
フランはそこで一旦言葉を切った。
ここからが本筋だった。そして、それはいささか危険な、下手をすれば惑乱の君の不興を買いかねない質問になるはずだった。
「なんだね」
「失礼ながら閣下も、『完璧な世界』の術を行使すると何が起こるかご存知なかった、そういうことでしょうか」
「そうだよ。だからこそ、それを知りたくて狂乱に、風神の気を逸らさせたのだよ。君の想像通りね。でもまさか、風神の一部まで失われるとは、予想外だったね」
「予想外だったということは、つまり、閣下ご自身も『完璧な世界』がどういった術なのか本質をご存知ない、ということですね」
フランはそれまでと口調を変えることなく一息に訊いた。
「残念ながらね。だから私は、それを知りたいと望んでいるよ」
そう答えた惑乱の君の口調も、フランと同様、それまでと変わることはなかった。仮面のような彼の表情もだ。
しかし、力の弱いフランにも、惑乱の君の不快の念が冷たく感じられた。
惑乱の君の足元で、何かがざわざわと蠢いていた。フランは、まるで姿の見えない無数の蟲が彼女の肌の上を這い回るようなおぞましさを感じて、肌を粟立たせた。
「……!」
フランよりも遥かに力の強いリィが、声にならない悲鳴を上げる。
リィの華奢な体が小刻みに震え始め、歯がカチカチと鳴る音がフランにも聞こえた。フランは、これ以上踏み込むのは危険と判断した。周囲の時空間の一部が歪み始めているのが、フランにさえ感じられた。
惑乱の君の業ではない。
リィが、暴走しかけているのである。
「お答えいただき、感謝申し上げます、閣下。大変参考になりました。
申し訳ありませんが、こちらの妹が閣下の御前にあって緊張のあまり倒れてしまいそうですので、宜しければ解放していただければ助かるのですが」
フフフと惑乱の君が笑う。
「そうだね。あまり君たちを困らせて、後で母上に叱られるのも嫌だしね。残念だけど、用件に入るとしようか。
実は、私の使徒が君に会いたがっていてね。何か頼みがあるそうだよ。出来れば聞いてやってくれないかな」
フランは狂乱のことと察した。だとしたら、難しい依頼になる可能性が高かった。それに、あまり素直に狂乱の依頼を聞くのも、これまでの関わりからして癪であった。
「聞くだけで宜しければ」
フランはそう答えておいた。
「それで十分だよ、フラン。君は母上から西と東、両方の国を好きにしていいと言われているのだろう?そうだとしたら、彼の頼みに応じるかどうかは君次第で、私にも無理は言えないよ。
ただ、彼を殺さずに返して貰えれば、私としては文句はないよ」
「承知いたしました、閣下」
「ありがとう、フラン。ところで、そちらの妹の名前を教えてくれないかな」
ビクリッとリィが体を震わせる。
「リィ、と申します」
「歳は幾つだい?」
「16です。優秀な子ですよ。閣下」
「そうみたいだね。力の程が私にも判るよ。彼女にも、くれぐれも私の使徒を殺さないよう、フランから注意してやってくれるかい?」
「はい」
「では、時間を取らせたね。妹たち」
惑乱の君の顔と手が小さく離れて行き、闇に溶ける。そして闇そのものも、夜と一体化するかのように消えた。
建物と道路が姿を現し、微かなざわめきが戻って来た。
フランは大きく息を吐いた。
「あー。疲れたぁ」
リィがへなへなと足元から崩れ落ちる。
「怖かったですぅ、フラン姉さまぁ」
「よしよし。よく頑張ったわね、リィ。宿に帰ってすぐに着替えなさい」
「……誰にも、言わないでくださいね、フラン姉さま」
「そんな約束は、出来ないわねぇ」
すっかり泣き顔になったリィを見下ろして、フランは悪戯っぽく笑った。




