写本の行方2
それは、地上から見れば空に浮かぶ小さな点でしかなかった。
「姉さまぁ。このまま降りたら大騒ぎですよぉ」
「そうね。あまり得意じゃないんだけど、姿を隠す術をかけるわ。彼にそう伝えて、リィ。少しムズムズするかもって」
「はぁい」
呪文を唱える声が短く続く。小さな点が、不意に青空に溶けた。
「いいわよ。降りてって伝えて」
「はーい」
「見えないようにしてるだけだから郊外にね、リィ」
「音はどうですかぁ、姉さまぁ」
「いい、いい。このまま降りましょ」
彼はなるべく音を殺して降下してくれたが、それにも限界があった。気づいた者は少なかったものの、それでも幾人かの人々は、妙な歪みが空から降りて来るのを見た。しかし、ほとんどの者は急に吹いてきた強風に煽られて視線を外し、それっきり歪みのことは忘れて立ち去った。
しばらくして、森の奥で何かが身震いする気配があった。
それに気づいた者は更に少なかった。正確には、たまたま近くを通りかかった一人の若い女だけである。しかし彼女は、彼の姿を見て腰を抜かし、森を揺さぶるほどの悲鳴を上げて卒倒した。
彼女の上げた悲鳴が更に、目撃者を数人まで増やすこととなった。
「炎竜?」
予想外の言葉に、クロウは声を掛けて来た同期の風士候補生をまじまじと見返した。
王都を襲った災禍から3日後の昼過ぎのことである。
風士候補学校も建物の一部が崩れ、現在は無期限の休校となっていた。その間に、手が足りないということで風士候補生も一時的に風士隊に組み込まれ、王都復旧のために狩り出されていたのである。
ただし、クロウが風士候補生を集めて救出活動に取り掛かったのは先の災禍直後のことで、正式に風士隊から命令が下されたのは、既に風士候補生たちが王都のそこここで活動を始めたずっと後のことだった。
「ウソだろ?」
救出作業の手を止めて、クロウは聞き返した。
「オレもそう思うんだがな。見たってヤツが何人かいてな。全長は100mぐらいで翼長は150mぐらい。燃えるような真っ赤な身体をしていて、ツノの形や、尻尾の先が二つに分かれていたって目撃情報が全員一致している。
だから捨ておけなくて、お前に相談しに来たんだ」
クロウは考え込んだ。もし本物の炎竜だとしたら、既に王都が火の海になっていても不思議ではない。だが、被害の報はどこからも入ってはいなかった。
「判った。イルス隊長に伝えてくれ。ただし、被害は出てないってな。必要なら見張りに手を割かないといけないだろうが仕方ない。救出活動もあと少しだ。手は割けますのでご指示を請うってな」
「判った」
「下手に噂を広めたくない。見たって連中はどうしてる?」
風士候補生が苦笑する。
「残念ながらもう手遅れだよ、クロウ」
「そうか。行ってくれ」
風士候補生が手を上げて走り去って行く。
クロウは救出作業に視線を戻した。
風士候補生だけでなく、六族の軍も一緒である。六族の軍に何人か犬の獣人がいて、彼らのおかげで効率よく、まだ息がある住人は既に助け終わっていた。
残っているのは残念ながら、急ぐ必要のない人々だけだった。
「さあ、あと少しだ。頑張ろうぜ!」
クロウは炎竜の話を振り払うように、彼らに声をかけた。すぐに応ッと、たくさんの力強い声が返って来た。
クロウとファスは馴染みの酒場のテーブルについて、ビールを2杯と簡単な食事を頼んだ。
既に夜は更けて、他に客はいない。
店が閉まろうとしているところへ駆け込んだのである。
先の災禍に天井の一部が落ちて星空が覗き、壁には役に立つのか立たないのか判らない柱が、支えとして打ちつけられていた。それでも営業を続けていたのは、少しでも王都復興の一助になればという店主なりの心意気からである。
「救出活動は一段落した。後は、遺体の収容だけだ。それも明日には終わると思う。写本探しの方はどうだ?ファス」
「見つからないもんだね。魔術書なのは間違いないんだろうけど」
「内容を誰も知らないからな。無理もない」
「『完璧な世界』を研究していた3人の神官の自宅や関係先を調べてはいるんだけどね。ヒントになりそうなものさえ見つかっていないそうだよ」
「このままだと、狂乱に先を越されちまいそうだな」
既に狂乱の仕業と思われる殺人事件が3件、発生していた。いずれも3人の神官の関係先で、1件は護衛をつけるのが間に合ったものの、結局、護衛ごと皆殺しである。
「ヤツの方が一歩先を行ってる、って感じだよね」
「北の大国やいろんな国の諜報部隊も大挙してうちに入り込んでるらしいな」
「どこから洩れたのか判らないけど、神が殺せるって話がかなり広まっているみたいだからね。神が殺せる程の術なら、それはどこの国も喉から手が出るぐらい欲しいだろうね」
クロウは溜息をついた。
「まだ、大災禍から3日しか経ってないっていうのに」
先の災禍を、西ナリス王国では大災禍と呼び慣わすようになっていた。
被害が王都だけではなく、西ナリス王国全土に及んでいるらしいということも、次第に理解され始めていた。
「噂が広まるのは早いからね。ま、東以外の諜報部隊は、実際にはまだうちに到着もしていないと考えた方がいいと思うよ」
「正義派の連中も動いているらしいな」
「そうみたいだね。大災禍を東の仕業と決め付けて、断固報復すべし、と主張しているみたい。
でも、実際に何をしているかはさっぱりだよ」
「衛兵隊長が大災禍で亡くなられたのが痛かったな」
「正義派に対する監視が緩んじゃったからね」
「それを風士隊で引き継げって言われてもな」
「王都の復旧だけで手一杯だからね。今はちょっとムリだよ」
「問題ばっかだな」
「でも、救出作業が一段落したことはいい材料だよ」
「そうだな」
喉を鳴らしてクロウはビールを流し込んだ。短く息を吐いて、クロウは躊躇いがちにファスに訊いた。
「ユマ様の方はどうだ?」
「まだお眠りになったままだよ」
「……そうか」
雷神の戦巫女に何があったか、クロウが聞いたのは当日の夜のことである。冷静に振舞って見せてはいたものの、明らかに激しく動揺したファスから聞いたのだ。クロウがそんなファスの姿を見たのは、初めてのことだった。ファスと姫巫女が、辛うじて息をしているユマを安全な場所に運ぼうとしていたところにニケが駆けつけ、ユマは今、神殿の一室に寝かされて眠っていた。
「ニケ様が言うには、アレから3日経ったからね。まだ死んでいないということは、多分大丈夫だろうって。でも、ボクは炭化したユマ様の背中を実際に見たからね。やっぱり心配だよ」
「そうだな」
憂い顔のファスにかける言葉がそれ以上見つからず、クロウは黙ってジョッキを口に運んだ。
「姫巫女様。少しはお休みになられた方が」
神官補の言葉に、喉を潤していた姫巫女は、疲れの滲む微笑みを浮かべた。
「わたくしに今できることは、これだけですから」
そう言って彼女は再びユマの眠るベッドの側の椅子に座ると、両手を組み合わせ、頭を垂れて瞑目した。大災厄以降、時間が少しでもあれば彼女はこうして風神にユマへの加護を祈っていた。
姫巫女もまた、どんなに辛くとも、今、己がしなければならないこと、否、出来ることを、よく判っていたのである。




