完璧な世界3
風神は狂乱と戦巫女との戦いに気を取られていた。
ふと、風神は未来が収束し始めていることに気付いた。不確定だった不吉が、形を成そうとしていた。思索に沈んで不吉の場所を探り、風神は驚愕した。彼の足元。神殿の端。そこの一室。
風神は思索から跳ねるように戻って、その部屋に意識を飛ばした。
その部屋には、神官が三人いた。三人とも優秀な神官だ。
西ナリス王国では、神官と魔術師を区別することは難しかった。市井には魔術師と呼ばれる者もいたが、国としては、神官が魔術研究も行っているのである。
室内には、神官補も一人いた。
やはり優秀な神官補だ。特に詠唱の才は群を抜いていた。その神官補が呪を唱え終え、それは起きた。
そこから生じたことを、かの地の言葉で説明することは出来ない。
起こったのは、次のような出来事だった。
まず、真空が相転移を起こした。
それによりヒッグス場が消失した。
ヒッグス場によって生じていたクォークの数%分の質量、電子の質量、ニュートリノの質量、WボゾンとZボゾンの質量が失われた。通常の物質だけではなく、真空中に沈殿したクォークからもだ。そのことにより、真空中に沈殿していたクォークが分離した。強い力そのもののエネルギーである質量を除いて、クォークからも質量が失われた。
質量が失われたことで電子の軌道半径が無限大となって原子はその構造を維持できなくなり、多くの物質は光の速度で飛び去って行った。
さらに、質量の一部はE=mc^2の方程式に従って熱量に変換された。
半径10mほどの範囲での出来事である。
3人の神官も、神官補も、何が起こったか知ることなく、本当の意味で消えた。彼らの魂さえも残らなかった。
風神も同様である。
不滅であるはずの彼の実体が、その空間にあっては根本から消失した。
それはある意味、時空間そのものが破壊されたのと同じことだった。からっぽになった時空間に、周囲の時空間がなだれ落ちた。
破壊された時空間の中心を、便宜上、震源地と呼ぶ。
西ナリス王国の大地は、震源地に向かって時空間ごと引き摺られた。
時空間の動きに光速の制限はなく、光速を越えてなだれ落ちる時空間の動きに、大地の方がついて行けなかった。大地は激しく揺さぶられ、引き裂かれ、跳ね返った。
王都だけではない。
大地の動きは、西ナリス王国全土に及んでいた。
もし、神々が介入しなければ、西ナリス王国全土が壊滅していただろう。
大地母神は、西ナリス王国と東ナリス皇国の境を数百キロに渡って切り離し、自国への影響を止めた。更に、西ナリス王国に介入して断層が動くのを抑え、噴き出そうとするマグマを止めた。
彼女にそれが出来たのは、風神が別のことに忙殺されていたからである。
『伏せよ!』
風神は、まず、西ナリス王国のすべての信徒に声を発した。
直接頭の中に響いた中性的なその声を、信徒の殆どは初めて聞いたが、信徒は誰もがそれを風神の声と信じて、直ちにその場に伏せた。洗濯物が投げ出され、赤ん坊は母親の腕に抱き締められた。外にいた者はその場に、屋内にいた者はテーブルの下などに逃げ込んた。
クロウはディオンの病室に、リムといた。騒ぎに気付いて外に出ようとしていたところで風神の声を聞いて、彼はベッドを振り返った。ディオンとリムがベッドの上で互いを庇い合い、そして結局はディオンがリムに覆い被さるのを見て、クロウは二人に「ベッドの下に入れ!」と叫んだ。苦悶の声を上げるディオンをリムと二人で無理矢理ベッドの下に押し込み、更にリムも押し込んで、自分はベッドの脇に頭を抱えて伏せた。
ファスは住民を避難させる風士隊と一緒にいて、自分も地面に伏せながら「風神様のご指示だ!みんな伏せろ!」と叫んだ。
狂乱と戦っていたニケは、咄嗟に狂乱と打ち合っていた槍の反動を利用して大きく後ろに跳び退ると、神槍を大地に突き立て、その場に伏せた。
ユマは風神の声を聞かなかった。
しかし、代わりにユマは、彼女の主である雷神の声を聞いた。
『姫巫女を守れ!』
躊躇うことなくユマは狂乱に背を向け、鳳雷を使って神殿へと奔った。
ユマが風神の御坐の前に姿を現したのは、姫巫女が神官や神官補に声を掛けて床に伏せるのとほとんど同時だった。ユマは神剣を床に突き立て、突き立てた神剣を背にして、驚く姫巫女が声を上げる間もなく彼女を抱え込んだ。
狂乱は、ニケが地面に伏せ、ユマが神殿へと去っていくのを見た。
彼は走り去るユマを目で追って、風神の神殿を見た。その一角が白く輝き、狂乱は慌てて目を逸らした。
「こりゃいかん」
そう呟くと、彼は神殿とは反対方向へ風を巻いて姿を消した。
次に風神が行っていたのは、西ナリス王国全土に渡って崩れ落ちた建物から、少しでも信徒を守ることだった。例えばクロウの上にも天井が落ちてきたが、不思議なことにそれは彼らを押しつぶすことなく、上手くベッドに引っ掛かって、ベッドの脇に伏せていたクロウの鼻先で辛うじて止まった。
火事はほとんどと言っていいほど起きなかった。
火があったにも関わらず、なぜか燃え上がる前に近くの水桶が割れて消し止められるといったことが、あちこちで起こっていた。
そうしたことを、風神は西ナリス王国の全土で行っていたのである。
更に、それとは別に風神には大仕事があった。
時空間が破壊された際に質量から変換された熱量は膨大な量に達していた。風神はそれを、抑え込もうとしていたのである。
戦巫女であるユマがいたことで、雷神も力を貸すべく神剣を依代として西ナリス王国に顕現することができた。
最高神二柱が、西ナリス王国に揃った。
白い光は--質量から変換された膨大な熱量は--姫巫女を抱き締めるユマのすぐ背後にまで迫っていた。
周囲に伏せていた神官や神官補は、苦しむ間もなく骨まで焼き尽くされてただの黒い影となった。
ユマが突き立てた神剣からは、幾筋もの電光がユマと姫巫女を守るかのように迸っていた。しかし、本来は目を潰さんばかりの凄まじい電光も、彼女らに迫る白い光の前では蝋燭よりもなお頼りなく見えた。
二柱の神は結界を構築し、熱量を押し留め、相殺するか、どこかに消し去ろうと努力を続けていた。しかし、雷神、風神の力を持ってしても、膨大な熱量を完全に抑えることは出来そうになかった。二柱の神の結界は白い光にじりじりと押され、今にも破れんばかりになっていた。
もし結界が破れれば、王都は跡形もなく燃やし尽くされていたであろう。
その時、ふと、二柱の神は誰かの気配を感じた。
いつの間にか結界のすぐ側に、小さな人影が、膨大な熱量を意に介する様子もなく立っていた。
人の子、老女だ。
二柱の神は彼女のことをよく知っていた。そして彼らは、王都が守られたことを、自分たちの業が無駄にならなかったことを、深い安堵とともに悟った。
老女が皺だらけの腕を上げ、掌を光に向けた。
結界を圧していた熱量が突然、消失した。
人々が見たのは、風神の神殿の3分の1を飲み込んで、更に広がろうとしている半円状の白い光である。実際に二柱の神が構築した結界は球体だったが、その半分は地中にあって半円状にしか見えなかったのだ。
まだ地面が揺れる中、ファスはなんとか立ち上がり、神殿へと向かった。
彼は、地面に伏した際に、一筋の雷光が神殿に向かうのを見た。そしてそれがユマだということを、彼は察していたのである。
揺れは次第に収まり、ファスが神殿に辿り着いた時には完全に鎮まって、白い球体も跡形もなく消えていた。
「ユマ様!」
姫巫女の叫び声が聞こえた。
ファスはその声を頼りに、まだ一度も入ったことのない神殿の奥、風神の御坐の前まで駆け込んだ。そこでファスは、彫像のように膝をついたユマの腕の中で、姫巫女がユマの腕から逃れようともがいているのを見た。
二人の背後にあったはずの壁も床も今はなく、ユマが呼んだ黒い雲が川のように流れているのが直接見えていた。
「ユマ様!」
ファスはユマに駆け寄った。
ファスの声にユマが顔を上げる。温かい笑みが、獣にも似たその顔に浮かんだ。ユマがゆっくりと腕を開く。
「よお、ファス。義務は、果たしたぜ……」
姫巫女が転げるようにユマの腕から逃れて立ち上がり、息を呑んだ。
ユマの背中が黒く炭化して燻っていた。
「ユマ様!」
「ユマ様!」
姫巫女とファスが叫ぶ下で、ユマは目を閉じて倒れ伏した。




