完璧な世界2
「聞いている方が恥ずかしくなるのお。もう少し、言い方があるじゃろう、雷娘」
声が何重にも重なって聞こえた。ファスは息を呑んだ。フードを被った小柄な男--いや、老人が、彼らから5mほど離れて、石段の下から二人を見上げていた。
皺だらけの顔。穴のような小さな目。
狂乱である。
ユマがファスを庇う様に一歩前に出る。その口元に、獣にも似た笑みが薄く浮かんでいた。
「神殿にいるニケを呼んで来な、ファス」
囁くようにユマが言う。
「はい。ユマ様も無理をなさらないように。すぐに戻って来ます」
ファスもそう囁き返して、後ろを振り返ることなく走り去った。
自分ではユマの邪魔にしかならないということを、彼はよく判っていた。それが悔しかったが、彼には彼でやれることが、やらなければならないことがあるのである。
「よお、ジジィ。こうして顔を合わすのは、久しぶりだな」
走り去るファスを目で追う狂乱に、ユマは声をかけた。狂乱はユマに視線を戻すと、ほうほうと笑った。
「愛しい男を巻き込みたくないのかえ、雷娘。健気なことじゃの」
「そんなんじゃねぇ。お前を殺るのに足手纏いになるから行かせただけさ。お前が出て来るのを待ってたぜ。ジジィ」
「一人で、しかも剣もなしにどうしようと言うのじゃ?」
「剣なら、あるぜ」
二人の真上から、線を引くように一振りの剣が落ちてきた。石畳を打ち砕き、ユマの前に突き刺さる。飛び散った欠片がまだ宙を飛んでいる中、ユマは突き刺さった剣を、雷神から授けられた神剣を、鞘はそのままに抜き放った。
まるで雷でも落ちたかのような轟音が周囲に響き、神殿前の広場にいた人々をビクリッと振り返らせた。
「ニケもすぐに、コイツを追って飛んでくるぜ」
「罠、ということかの?」
驚いた様子もなく、狂乱が訊く。
ユマはその問いに応えることなく身を屈めた。
何が起ころうとしているのか悟った人々が、悲鳴を上げながら神殿前の広場から逃げ始めていた。
「オレが一人でうろついてたら、きっと出て来ると思ったぜ。ジジィ」
「では、風神の小娘が来る前に終わらせるとするかの」
被っていたフードを背中に落とし、皺だらけの顔を歪ませて狂乱はそう言った。
ファスは神殿に向かう途中で、神槍を手にしたニケが神殿の窓から飛び出して行くのを見た。ニケはそのまま空中で姿を消し、更に彼の背後で落雷の音が轟いた。ファスは足を止めることなく、行き先を神殿から風士隊の本部に変えた。
異変に気付いた風士隊員が駆けて来るのが、すぐに見えた。
「狂乱です!」
走りながらファスは叫んだ。
「何処だ!」
風士隊員も足を止めることなく叫び返す。
「神殿前広場の大通りからの入口の階段、すでに戦巫女様が戦われています!」
すれ違う風士隊員たちにそう叫び、更に風士隊本部にまで足を飛ばして駆け込んで、ファスは同じことを声の限りに叫んだ。
ユマが撃ち込んだ神剣は易々と躱され、石段を打ち砕いた。
ユマはそのまま体を回し、勘に任せて自分の背後を薙いだ。微かに手応えがあったが、薄い。いつの間にか空は黒雲が覆い、雨が降り出していた。ユマが神剣の力で呼んだのである。
雨の中を、目に見えない何かが走っていた。
狂乱だ。
「見えて、るぜ!」
ユマの体が電光を引いて消える。
雨を散らして何かがぶつかり合う音が響き、それに女の低い苦悶の声が続いた。
「ぐっ!」
ユマの体が石畳に投げ出される。その腹に、穴が開いていた。
狂乱がユマから5mほど先にゆらゆらと姿を現した。何かを手にしている様子はない。しかし、確かに何かで刺された感覚があった。
「見えるだけでは、どうにもならんの」
「何をしやがった」
立ち上がりながらユマが問う。腹に開いた穴は、既に塞がり始めている。
「さての。言うハズがなかろう?」
「そうか、よ!」
ユマが神剣を石畳に突き立て、激しい電光が狂乱へと走った。狂乱が姿を消す。疾風で後方へと飛んだのである。そこに、雨を裂くようにニケが頭上から襲い掛かった。
「ひょっ!」
珍しく慌てて狂乱が手を上げ、ニケの神槍と何かがぶつかり合った。狂乱は疾風を鳳雷に切り替え、光の筋を引きながら更に後方へと逃げた。
「槍……か?」
ユマの隣に風を纏って姿を現したニケが問う。
彼女らから10mほど離れた場所に姿を現した狂乱は、ニタリと笑った。
「そうじゃ。しかし、見えんじゃろう?」
「どうなってやがる」
神剣を引き抜き、ユマも問うた。腹の穴は既に塞がっている。
「お前らも復讐者どもも、いろいろ工夫をしてくれるでの。こちらも対抗せねばなるまい?ま、風神の小娘も来たことだし教えてやるとな、これは、ちょっと光を屈折させて見えないようにしておるのじゃ。雨の中じゃから、いささか難しいのじゃがな。
風神の力の応用じゃよ」
「これだから頭のいいヤツは……。ニケ。お前もできねぇのかよ、アレ」
「あんたほど馬鹿じゃないけどあたしにも無理だよ、あんなこと。知ってるだろ?」
「まぁな」
「とりあえず、槍があることは判った」
神槍を構えながらニケが言う。
「槍だけとは限らねぇがな」
ユマもそう言って、神剣を構えた。
「そういうことだ」
「じゃあ、そのつもりで」
「おう」
神剣と神槍を手に、息を揃えて二人は狂乱に躍りかかった。




