プロローグ
深い深い歴史の層の、下の下に埋もれた、ある物語--。
新大陸の北東部に位置するベルリアーズ王国は、他を圧する広大な領土を誇り、周囲の国々からは北の大国と称され恐れられていた。夏は瞬きするほどに短く、冬は領土のほとんどが雪と氷に閉ざされる故か、ベルリアーズ王国は太陽神を国家の守護神として奉じていた。
ベルリアーズ王国の王都が冬陽宮--太陽神の冬の離宮--と呼ばれる由縁である。
ある年のこと、冬陽宮が一人の魔術師に襲撃され、焼き尽くされた。王太子をはじめとする多くの王族が殺され、王は辛うじて魔術師の魔手から逃れた。
神と人の契約に反して太陽神が介入し、王を救ったのだと歴史は語る。
だが--。
「もうそれぐらいで充分でしょう?スイフト」
燃え盛る王宮で王太子の首を手に哄笑していた魔術師に、呼び掛けた者があった。スイフトと呼ばれた小柄な魔術師は声を振り返り、忌々し気に顔を歪めた。
「お主かよ」
スイフトの声が、何重にも重なって血に塗れた王宮に響く。
スイフトの視線の先には、一人の女がいた。
彼女自身もまた魔術師であることを示す床まで届く黒いローブを纏い、フードの陰に顔を隠して、スイフトに冷ややかな視線を向けていた。
「お主には関係なかろう?シャッカタカー。ワシは今、お楽しみの最中じゃ。邪魔をせんでくれるか?」
「少し殺し過ぎよ、スイフト。人々の怨嗟の声が地に満ちて、ショナにまで届いているわ。
あまり下らない事であたしを煩わさないで貰えるかしら」
スイフトの薄い唇から地を這うような笑いが洩れる。
「ほう。それは嬉しいのお。では、もう少し、かの人に心を痛めて貰うとするかの」
女の口角が、フードの下で僅かに上がる。
嗤ったのである。
「つまり、貴方を殺してもいいということよね?スイフト」
息を吸うようにスイフトもまた、くつくつと嗤った。
「冗談じゃ、冗談じゃ。もう止めようと思っていたところじゃ。ほれ、この通り」
スイフトはおどけた様にそう言って手にした王太子の首を捨てた。王太子の首はころころと転がって、大理石の床に積み上げられた無数の死体の山に当たって止まった。
「止めなくてもいいのに。残念だわ」
「ワシはまだ、やりたいことがあるでの。お主にここで殺されたくなぞないわ。
それではの。
千の妖魔の女王よ」
スイフトの姿が消え、雷光が王宮の外へと走った。
女の冷ややかな視線が追う。
スイフトの気配が、正しくは彼の影に潜ませた彼女の妖魔の気配が、王宮から、更には冬陽宮から離れていく。
女は室内を振り返り、無数の死体の中から知り人の顔を探した。女の顔に残念そうな表情がちらりと浮かぶ。しかし、女はそのまま口を開くことなく死体の山から視線を逸らすと、王宮の出口へと足を向けた。女の影が大きく伸び上がって彼女自身を包み、水面で跳ねるように床と一体化して、消えた。
冬陽宮を灰燼に帰せしめた魔術師は、以来、狂乱の魔術師として人々に怖れられる存在となった。
狂乱の魔術師は、冬陽宮を壊滅させただけではなかった。
彼はベルリアーズ王国の南の小都市から出発し、冬陽宮に至る道々でも破壊と虐殺の限りを尽くしていた。
彼にそれが可能だったのは、雷神と風神、二柱の神の力を使えたからである。
ベルリアーズ王国の近衛隊は全滅し、冬陽宮に居を構えていた近衛隊員の家族もほとんどが死んだ。しかし、名も無き近衛兵の5歳の娘は生き残り、長じて彼女の一族の守護神である風神の戦巫女となった。
同じ頃、ベルリアーズ王国の南方に広がる小さな内海を囲むように連なった列島では、ベルリアーズ王国の虐殺に比べればはるかにささやかな規模の戦争が行われていた。列島はひときわ大きな中央の島の中程で2つの国に別れており、西の国は西ナリス王国、東の国は東ナリス皇国を名乗っていた。
そのうちの西ナリス王国で深刻な内乱が発生し、そこに、東ナリス皇国が攻め込んだのである。
東ナリス皇国が攻め込んだことで、逆に西ナリス王国は幾つかの血生臭い出来事を経て内乱を終結させ、半年ほどで東ナリス皇国を押し返した。
後に、愚帝戦争と呼ばれる争いである。
この時、ベルリアーズ王国は愚帝戦争にまで至る列島内の一連の争いを好機と捉え、列島に侵攻すべく、軍を密かに自国と東ナリス皇国を隔てた海峡に集結させているところだった。
その最中に、冬陽宮が灰にされたのである。
ある意味、東ナリス皇国、及び西ナリス王国は狂乱の魔術師によって救われたようなものであった。
しかし、3つの国のいずれの歴史にも、「狂乱の魔術師により列島がベルリアーズ王国の侵略から救われた」とは、記されていない。
狂乱の魔術師の名が3国の歴史に再び現れるのは、20年後のことである。
西ナリス王国で5年毎に開かれる選王会議の年、次の短い一文が、西ナリス王国の歴史に記されることになる。
狂乱の魔術師が王都に現れ、大災禍起こる、と。