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記憶の欠落と愛情の喪失

作者: 薫楓

プロローグ


記憶の辺土に埋められた季節を幾つ重ねて、ここまで来たのだろうか?

僕は少しそれについて考えてみたけれど、結局何一つ思う事が無かった。

つまり、それらはすでに通り過ぎて、そして失われてしまったという事実だけが全てで

あるという事だ。個々の性格など失われ、棚に並べられた量販店の

衣服のように無機質に並べられている。

僕にはその棚がどれだけ広いのかさえわからないという事を除けば、実際にその通りなのだろう。


記憶の障害はさして問題にはならない。

少なくとも僕自身がただ生き延びるという事に関しては。

生活はただ現在と向き合うだけならさして難しいものではない。

その時に感じる感情に任せて生きる生き方しか出来ないと割り切ってしまえば。

感情は留められなくても、流れていく物だからだ。

現在と、未来。過去は過ぎ去って、ただいつか忘れてしまう。それが人より少し早いというだけ。ねえ、君はそれを悲しいと思う?


「少し酔いすぎてしまったみたいだ。こんな下らない事を話すなんて」

僕はテーブルにグラスを置いて、ケイコの方へ向き直った。

僕の部屋の真ん中に置かれたテーブルに並んで、僕達は安物のワインを空けていた。

コンビニで買ったワインはもう1/3程しか残っていなくて、お互いに結構酔いが回っていた頃だった。

ケイコとは付き合って3ヶ月目になる。

僕にとっては本当に3ヶ月もの時間が経ったのかはわからないのだけれど。

彼女と出会った頃の記憶はもう辺土に混じり、僕の手の届かない所にある。


彼女は微笑んで僕の頬を撫でた。

「こんな風にあなたの頬を撫でる私の指の事をどう思う?」

僕はその指があまりに細く、そしてその触れ方が優しい事に瞳を細めた。

そして、ただ思ったままを口にした。

「とても素晴らしいと思う。出来るなら、ずっとこのまま触れていて欲しい」

そう言うと彼女は

「ねえ、それはきっと嘘じゃないのよ」

彼女は指を僕の頬から話すと、僕の掌に掌を重ねた。

「あなたが感じる事に嘘が無いのなら、あなたが重ねてきた時間だって、きっとあなたが

感じる事に正直に生きてきた結果なんでしょ?それをただ覚えているか、いないか。それだけなのよ」

彼女は笑っていた。それはとても素敵な笑顔で、僕は永遠にその笑顔を見つめていたいと思った。そんな記憶を失うなんて耐えられないけれど、それは叶わない。

どれだけの間留められるか。そう、それだけだ。それは誰にだって当たり前に横たわる問題なのだろうけれど、特に僕にとっては大きな問題だった。

あるいはこんな風に酔ってしまった夜の事なんて、誰だって同じように朝には忘れてしまうのかもしれない。

それでも、確率で計るのなら僕はとても不利な立場にいるのだろう。つまりは、「あの夜の事」なんて思い出して懐かしむ事や、その時に感じていた感情を後に

なって話すなんて事が出来ないのだから。現在に感じている事は現在にしか感じられない。そんな諦めと覚悟が無ければやってられないって事だ。

そう、現在感じていることは現在に伝えるしかない。そういう事だ。

「君が好きなんだ」

僕は言葉を選ぶ事も出来ず、ただそう言った。言葉を捜して、結局はそれを伝えるに足る言葉なんて僕には見つけられなかっただろう。

言葉を捜す間に、この気持ちが褪せて行くのが怖かった事もある。

現在はただ過ぎ去って、過ぎ去れば過去になってしまう。僕がどれだけの間過去を留められるのだろうか?或いは一瞬後には忘れ去ってしまっているのかもしれない。

そう思うと、躊躇う事さえ惜しいと感じる。そして、それは僕の生き方そのものでもある。


彼女はただ笑っていた。

「私もよ」

そう言ってテーブルに置いていたグラスを手に取ると、僕にもグラスを取るよう促した。

僕は氷の溶けてしまったグラスを手に取ると、彼女の瞳に見惚れた。

それはとても深い黒で、そして揺らぐことの無い静謐な湖を思わせた。

「私たちの現在に」

彼女はそう言うとグラスを合わせ、言った。

僕達はグラスを合わせて、お互いに一口分を飲み干した。グラスの中の液体が舌の上から、喉、その奥へそして胃に染みていく。

それは現在であり、そして一瞬後には過去になってしまう。繰り返す事など出来ない。飲み干した分の液体は僕の中に染みて、そしてもう戻らない。

乾杯も、もう過去の事になってしまったのだろうか。現在の幸せな気持ちは?過去から連綿と連なった事象の結果だとすれば、いつかこの感情に繋がる種々の

出来事さえ忘れてしまった時、一体この感情の帰結はどこへ向かうのというのだろうか?どこへも繋がらない現在。皮肉な話だ、と思う。

それでも僕はただ現在感じている気持ちに殉じるしかないのだ。彼女が好きだという気持ちが一体過去の何に繋がって、そして育てられてきたかなど問題ではない。

ただ、僕は素直にそう感じているという事を疑わなければ。

彼女は僕の瞳の奥に僕の感じている戸惑いを感じたのだろうか、もう一度グラスを上げて言った。

「そしてこれは私達の未来の為に」

もう一度グラスを合わせると僕達は笑って口付けを交わした。

とても柔らかい唇。甘い匂いとアルコールの酔いに溺れるように僕は瞳を閉じた。

柔らかい肌に触れて、僕はただそれを失いたくないと思った。永遠と遠い所にいても永遠に焦がれる。そしてそれはとても残酷な感情だと思う。

けれど、求めるのならそれは避けられない矛盾でもある。僕はそれを受け入れて、そして現在側に居てくれる彼女の全てを欲しいと思った。

繋がっていたい。

いつか離れてしまう事があったとしても、せめて現在だけは。


僕が22歳だった頃の話だ。


1章


現在僕は26歳になり、幾つかの雑誌で署名記事を持たせてもらえるフリーのライターとして何とか生き延びている。

皮肉な事に、記憶障害の為に長けたメモの技術が今では僕の身を立てる手段として役に立っているのだった。

例えばケイコとの事なんてもうそんな事があったっけ?って位に記憶から抜け落ちてしまっているのだけれど、その当時僕が付けていた日記を読み返して、

きっとそういう事があったんだろうな、なんて思う事が出来る。

まるで他人事のように感じるけれど、それはきっと確かにその当時僕が感じていた真実なのだろう。

残念ながら、僕と彼女との未来はどうやら繋がる事が無かったようだけれど。

誰にでも良くある話なのだろう。

僕にはそんな日記を読み返しても実感なんてものが伴わないという事を除けば。


ヒロは僕の話を聞いて、「勿体無い」と言ってグラスに残ったビールを飲み干した。

居酒屋の喧騒の中でぼんやりと届いたその言葉は不思議と胸に刺さった。

勿体無い、か。

「そういうものだって割り切ってしまえていたと思ったのにな」

僕はそう言って、枝豆を一つ取った。少し塩が効きすぎていて高血圧の人には薦められる味では無かったけれど、それを口に放り込む。

ヒロは僕に署名記事を持たせてくれる雑誌社所属のカメラマンだ。

特別いい写真は取れないけれど、どんな写真を撮ってもそこそこ平均的な写真を撮れる小器用なカメラマン、というのが周りの彼に対する評価だった。

特別良い写真というのがどんなものかは僕にはわからないから、そこのところは置いておいても僕にとっては信頼出来る仕事をしてくれるカメラマンでもある。

年も近く、仕事以外でも結構馬が合うのでこうやってお互いの近況や、どうでも良い話を肴に飲む機会が多い。

今日は、今度の仕事−詰まらない旅行雑誌に載せる記事の為の打ち合わせ−と称してはいるけれど、結局はいつも通りどうでも良い話に雪崩込んでいたところだった。


ヒロは先日に彼女と別れたばっかりで、僕はそれを励ますという役目を果たそうとしていた。

つまり「お前の良さを判らない女と付き合っても良い事なんてなかった」であるとか、「次の出会いなんてそこらじゅうに転がっている」だとか。

思っていることやいない事、励ましになる言葉を端から並べていく作業をこなしていた所だった。

「お前はそんなに簡単に立ち直れるのか?」

と、ヒロが聞いたところから日記に話に繋がった訳だ。

僕は直ぐに忘れてしまえるという事を、記憶障害の部分を除いて話したのだった。そして日記をつける事で、過去を留めようと努力しているという事も。

まあ、ヒロは僕がそんなに長く記憶を留められないという事はいやというほど知っているのだけれど。忘れっぽい、という認識で。

僕が仕事を始めたばかりの時はスケジューリングから何から本当に酷いものだった。記事を書くために役立つメモはそれまでの生活の中でスケジュール管理に

役立てた事が無かったからだ。流石に仕事を失う程の失敗はやらかさなかったものの、ヒロを始め現在仕事で関わっている人間の何人かには本当にうんざりする

気持ちにさせてしまったと思う。まあ、そういう事だ。


ヒロは机の上に何枚かの写真を広げて、僕に見せた。

「なんだい、この写真は?」

それは割と良く撮れた風景写真だった。海と、浜辺、良く晴れた空。

「今度取材に行く島の写真さ」

そう言ってもう一枚、女性が写った写真を重ねた。

感じの良い微笑みを浮かべたワンピースの女性。それはヒロの彼女だった女性・・・アキコさんだった。

「これって」

僕は驚いてヒロに「行った事あったんだ?」と聞いた。

島の名前は忘れたけれど、観光地としてはポピュラーだってわけではない、寧ろあまり日本からの観光者はいかない場所だったはずだ。

だからこそ、「取り上げて目新しさがある」と編集者が言っていた位に。

ヒロは困ったように笑って「彼女が一人で行ったんだ。この写真は貰ったものだよ」と言った。

また失恋の余韻に浸ってしまう前に、僕は写真を纏めてヒロに手渡した。

二人ともビールが空いていたので、店員に代わりを注文する。

「どんな島だって言ってた?えーと・・・」

僕は島の名前をどうしても思い出せず、言葉に詰まっているとヒロが「カラム」と助け舟を出してくれた。

「そう、カラム。観光者はまだ少ないんだろ?」

ヒロはひとまず失恋の事を置いて、アキコさんから聞いた話の中のカラムについて話をしてくれた。

簡潔にいうと、こうだ。「観光地というにはプリミティブ過ぎる」

小銭稼ぎの観光施設は少なく、現地人も積極的に観光者を相手するような気質ではないらしい。

ほったらかしで、美しい海や自然を楽しむのだとしたらとても素晴らしいけれど、本当にほったらかしにされてしまう。

ホテルや最低限の施設−つまり食堂や日用品店といった生活に欠かせないもの−だけしかないから、着いてから何をしようか決めよう、

なんて考えで行くと途方に暮れてしまうほどだという。

「なんでそんな所にアキコさんは行ったんだろうな。一人で行って楽しい場所だとも思えないけれど」

僕は感じたままを言ったのだけど、それはヒロに彼女を思い出させてしまう事になったらしい。

「ゆっくりと邪魔されずに考え事がしたかったって言ってたんだ。それも、出来るだけ静かな場所で」

ヒロはそういうとバツが悪そうに笑った。「まさか俺との事がその中に含まれているなんて思いもしなかったけどな」


アキコさんは編集者だった。先月末に勤めていた雑誌社を退職して、今では何をしているかはわからない。

僕が彼女について覚えているのはその感じの良い微笑みだった。内包する優しさが滲み出してくるような素晴らしい微笑み。

恥ずかしい事だけど、僕はその微笑見たさに用も無いのに雑誌社を尋ねて行った事だってある。それ位素晴らしい微笑みだった。

ヒロと付き合っていたのは去年の9月からだから、調度4ヶ月で破局を迎えてしまったわけだ。

一体彼と彼女の間に何があって、何が損なわれたのかはわからないけれどそういうことを考える時にはいつも僕はうんざりした気持ちになってしまう。

それはもう過去の事なんだ。

彼女が仕事を辞めることと、ヒロと別れる事を決めただろう島。一体そこで何があった?

とにかく、僕は少なからず今回の仕事に興味を持つことになった。


2章


出発までの数日間僕は暫く仕事に悩まされないように、依頼のあった記事を片付ける事に専念した。

それらの多くは新しく出来た店についてだとか、そんな誰にでも書けるような記事ばかりでうんざりさせれるけれど、それが仕事なのだから仕方が無い。

少なくとも僕である必要は無いなと思いながら、僕でなければ書けない記事なんてものが本当にあるのかどうか考えればそんなものは思い浮かばない。

僕にあるのは、取材物をどれだけ正確に細密に描写できるかという技術だけなのだから。何を伝えられているのか、なんて事よりも正確に伝えられるかが

大切なのだ。そう思う事で、とにかく一連の仕事を片つけたのが出発の2日前だった。


今回の取材旅行は全日程で5泊6日。編集者は島の大雑把な資料を与えてくれた後には特に取材対象を絞るという作業は行わなかった。

「読者が興味を持つような記事を書いてくれればいいんだ」

打ち合わせの最後はいつも同じ言葉で締めくくられる。担当の編集者が悪いだけなのかもしれないけれど、そういう時はいつもうんざりした気分にさせられた。

全く、楽な商売だななんて。

とにかく、それでも記事は書かなければならないし、出発日は近づいてくる。

僕は2日後の出発に備えて準備を行う事にした。といっても、情報収集と旅の荷作り位なのだけれど。


カラムは地中海に浮かぶ小さな島だ。名産は地中海の例に漏れずオリーブと葡萄。

歴史的な領土争いの中では、スペインとイギリスがその島の所有を掛けて争ったらしいけれど、結局その位置等を考えると他の島々に比べて

地中海の中でも辺鄙な所にある為に、実際のところは小競り合いが数度行われた程度だという。

要はそんなに積極的に血を流す価値はなかったという事なのだろう。そんな経緯の結果として現在ではスペイン領に属している。

第1次、第2次世界大戦中も補給にも前線を敷くにも向かない地理上の恩恵もあってか、大した戦乱に巻き込まれる事は無かったという。


他のヨーロッパの老人達が経験したような苦しい時代とは殆ど無縁だという事だ。

その島に住む住人の気質も推して知るべし。

のんびりとして、そして確固たる村社会が敷かれているのが現状だ。

村社会の例に漏れず、よそものには冷たい。小競り合いとはいえ、外の人間が連れてくるものは争いである、との認識が強いのだろう。

内向きの連携で、多少とはいえ凌いだ辛い時代が落とす影。

それは現代でも島の気質として息づいているらしい。それは観光地としては致命的に適さないのではないかと思うのだけど、結局大部分の旅行者が

求める観光地の心地よさに現地人の態度というものは対した意味は無いのかもしれない。

そもそも、観光産業に関わる現地人がそのままに現地人の気質を表しているとは言えないだろう。

そこで心地良いと感じる現地人との触れ合いの多くは小銭稼ぎの、資本主義のフィルターを通した観光スタッフとしての愛想良さに触れる事でもたらせられるものでしかない。

現地の言葉を話せるようになってからその地を訪れる観光客など少数派に属するだろう。

例え、それが日本で中学生の頃から勉強している英語であれその現実は変わらない。勿論言語外で伝わる部分は多いし、言葉が通じなければ

心が通わないなんて事をいうつもりも無い。けれど、心構えとしてはその程度なのだ。

僕も子供の頃に親に連れられてハワイやグアム、またサイパンに連れて行かれた事もあったけれど、その時に出会った事のディティールまで大して気にしてはいなかったようだ。

青い海と空、アメリカの空気。肉だとかやしの木だとか。それに綺麗だったホテルや効きすぎた冷房の事。海に沢山いた海鼠。その程度の事を日記に留めていた。

日記を付ける、というのは僕が記憶障害と診断されてからの日課でもあったからその技術に長けるだけの時間は十分にあったのだ。それが役に立っているという皮肉。

結局の所、ライトな海外旅行に必要な物はそういう類の資源であり、アメニティでしかない。

旅行記なんかを読みながら現地の辛い体験でさえ憧れる事があったとしても、大部分の人が求める旅は娯楽なのだから。趣味:旅行。そんな人たちにとっても大体は同じだろう。


だからこそ、僕は何故アキコさんがそんな島を選んだという事が不思議で仕方なかった。

島について調べるほどその疑問は大きくなり、そして島に対する興味を育てた。

僕の知らない、或いは一般には知られていないような魅力があるのだろうか?

或いは僕の疑問は的外れで、ただ観光客のいそうにない島を選んだだけなのだろうか。

少しの自然と心地よさのある、知っている人のいない場所。

そんな場所ならば、わざわざカラムへ向かう必要など無いように感じるけれど、彼女が一体何を考えていたかなど

今は僕に知る術は無い。


そして、そんな事を知ろうが、知るまいが僕がカラムを訪れる事になる事に変わりは無いのだ。


3章


「もうくたくただよ、一体どれだけ乗り換えが必要なんだ冗談抜きで?」

ヒロは明らかにくたびれた足取りで、カラムへと向かう小型機へと歩を進めた。確かに、ヒロの言うとおりここまでにもう飛行機で2回、船で1回の乗り継ぎを

行っている。

お手軽な観光地ならもう2往復は出来ているんじゃないかと思う位の時間をかけて、まだたどりつけない。

それが通好みには受けるのだそうだけど、正直僕もここまでの旅では少しうんざりした気持ちになっていた。

「もう少し、この飛行機に乗ったら着くんだよ」

僕は自分にも言い聞かすようにヒロに答えた。

そう、もう少しなんだ。太陽は日本に居る時よりも近くで燃えているような気がした。それくらい暴力的な日差しが降り注いでいるのだ。

僕は小型機への後数歩を駆け足に抜けると、座席に座って一息を着いた。少し遅れてヒロも機内に乗り込んでくる。

なんだかわからない異国の空気の充満する機内でも、冷房が効いているだけで心温まるのだから、相当に幸せを感じるハードルは低くなっているのだろう。

離陸まで後10分だと告げるアナウンスが、どこの訛りだかわからない訛りが掛かった英語で告げられた。

「飛行機で30分だったっけ。目的地までつくまでどれだけの労力をかけさせるつもりだ?全く勿体つけた旅だよな、本当に。」

ヒロは座席に着くとそう毒吐いた。

それを聞き流して僕は窓の外へ瞳を向けた。

空と、白いコンクリートが敷き詰められた滑走路。薄く舞う塵が太陽に照らされている。

後は飛行場のフェンス越しに見える南国の樹木。それだけだ。

なにもない。ある意味でそれはそこにある全てだったかもしれないけれど、僕の世界にとって意味のあるものでは無さそうだ。

結局存在は記号であり、記号が意味を持って初めて自分の世界の中での役割を認識されるのだろう。

座席に深く腰掛け、ただそこにある景色を見ながら、そんな思索に耽っていた。

それ位退屈な風景だった。ヒロは、もう寝息を立て始めている。

・・・寝るか。話し相手も居ない、景色も退屈だとすればもう選択肢は無いように思い、未だ見ぬ島を思い僕は眠りについた。


夢について。

僕は混乱した記憶の中で生きている。それはある意味で留められず流れていく物であり、ある意味では永遠に僕の中に居場所を見つけ留まり続けるものでもある。

現実の中で僕は記憶を失い続けているのだけれど、夢では失ったはずの、僕の知らない記憶の断片が散りばめられていることがある。

勿論そんな事は客観的に見て初めて気付くようなことで、自分自身にはそんな実感などない。

カウンセリングの中で指摘を受けたのだ。記憶障害に陥った初期段階でのカウンセリング。

自分自身の脳で記憶できないのなら、書き留めておく事が重要だという事でその時あった印象に残ったことを覚えているうちにノートに書き綴るよう指示を受けた。

そのノートと、僕が前夜に見た夢とが断片的にリンクしている事を指摘されたのだった。

それがどんな意味を持つか、という事については僕自身はわからなかった。それはカウンセリングを行ってくれた医師も同じだ。

ただ、記憶は完全に失われるわけではないという事実はその時に明らかになったのだった。


僕は飛行機の中で夢を見ていた。


僕の部屋の中央に置かれたソファの上でアキコさんが僕の頭を撫でている。

不思議と現実との乖離を感じない光景。そんな事は当たり前だと思えるほど自然に彼女に身を任せていた。

「これからどうする?」アキコさんは僕の頭を撫でる手を止めて言った。

僕は頭の隅でヒロの事を考えながらも、「キスして欲しい」とせがんだ。まるで子供だな。

彼女は笑って僕に口付けをしてくれた。10秒…20秒長いキスだ。

それは性の匂いを感じさせない口付けだった。唇と唇が重なる。ただ、それだけ。


そして、眠りから覚めた。


カラムに着いて、僕が先ず最初に感じたのはありふれた島だなという事だった。

いや、訂正しよう。日本人が憧れる南の島の景色がそこにあった、という事だ。

青い空、眩しい太陽、熱風、南国の樹、日に焼けた人々、原色の毒々しさ、つまりはそんなものが溢れていたのだった。

僕とヒロは飛行機を降りると、入国の手続きを終え、空港のロビーに辿りついた。

この島に着くまでの道程を考えると、それらの一連はうんざりさせられるような事があるのだと想像していたのだが、実際には

驚くほどすんなりと終える事が出来た。よそ者の観光客であれ、小銭を落としていくのなら歓迎してやる。

そんな雰囲気さえ感じられた。ある意味で、露骨に観光地の本質を見せられたような気さえした。

僕達は売店で、現地の言葉が書かれたジュースを買い、それを飲みながらアテンドしてくれる現地のガイドを待った。

本当なら、僕達は待たせる立場のはずなんだけど。

「全く、ギャラ減らされても文句言えないぜ」とヒロは終始苛々としていた。疲れていたのだろう。

普段ならこんなこと位はよくある事だと笑っていられる男なのだけど。

20分位待って、ようやくガイドがやってきた。

よく日に焼けた、長身の男。漁師だか、農家だかとにかくそういう仕事をしていたのかもしれない。

日本からの観光客が頻繁に訪れるような場所でもないし、バイト感覚の片手間のような仕事なのだろうか。

ぼんやりとそんな事を考えていると、ガイドは僕達に笑いかけると自己紹介を始めた。

「ロマリオといいます。よろしく」

ロマリオはヒロと僕とに握手を求めた。開放的な雰囲気は南国に暮らす人間に身につく資質なのだろうか。

僕が握手の為に手を出すと、一瞬ロマリオが僕の顔を見て何かを思い出したような表情をした。

表情は、気のせいかもしれないと思う位に一瞬で消えた。そもそもそんな表情はしていなかったんじゃないか、と思ってしまうくらいだ。

ヒロは気付いていないようで、早速ロマリオにホテルへ案内するよう注文を付け始めていた。

一体なんだったんだろうか?気にするような事でもないし、その場で聞いてしまえばよかったのだけど。

僕は案内されるまま、彼の用意した車に乗り込んだ時にはもうそんなささいな事を気にすることもないか、と思ってしまっていた。


空港から出ると直ぐに海沿いの道に出た。潮の香りはどこでもかわらないのか。僕はただなにを見るでもなく流れていく景色に視線を投げていた。

「ホテルまではこの道一本なんですよ」

ロマリオはそういうと運転席から振り返って笑った。それが一体なんだっていうんだ、なんて。

長旅の疲れは僕の心を少しささくれ立ててしまっていたのかもしれない。

彼の言葉なんて無かったかのように、ぼんやりと眺めている視線を外さないで無反応でいた。

それは、ある意味で傲慢な事なのだろうと思う。

絶対的な関係性の壁。雇う側と雇われる側といった関係性よりも残酷な、富める者と貧しい者との差に近いのかもしれない。

勿論僕達はそんなに潤った予算を持ってこの旅行に望んだわけではない。

それでも、こんな糞みたいな態度を取る観光客を相手にして得る金は彼らの島ではバカにならない位大きな報酬なのだろう。

力関係がそこに存在してしまう限り、僕の取る態度は取るべき態度ではないという事は知っている。フェアではない。

それでも、そんな態度を取ってしまう位に疲れ果て、磨り減っていたのだと思う。そう思う事で自分に言い訳が出来るように。

ズルイ人間だ。解りきっていたけれど、そんな事を改めて痛感させられる事は苦痛だった。

だったら、そんな風に感じないように振舞えばいい。そんな事はわかっている、わかっているのだけど。

僕は相変わらず不完全な人間だという事だ。そんな事を思う事はこんな美しい島で過ごす時間には相応しくないのかもしれない。

それでも、僕は自分にさえうんざりした気持ちでこのドライブを過ごすことになってしまったのだった。


「ホテルは綺麗なの?」

ヒロがロマリオに聞いた。彼は、今からたどり着く宿の事で頭が一杯のようだった。彼の純粋さは僕にとっては救いでもある。

「ええ、この島を訪れる方が心地良く過ごしていただくために作られたホテルですので。泊まっていかれた方は皆満足してくださいますよ」

運転席から振り返り、ロマリオが答える。相変わらず開放的な微笑みを浮かべたまま。

僕はその微笑を羨ましく思った。一体、どうすればあんなふうに笑えるのだろうか。

「あ、あれか?」

ヒロはぼんやりと見えてきた白亜の建物を指差してロマリオに聞いた。

良くある観光客向けのホテル。遠く、ぼんやりとして見えたそれはまさにそんなイメージを僕に与えるような建物だった。そして、それはある程度快適な

滞在を予感させるものでもあった。

「ええ。もう後5分もすればチェックインできますよ」


ロマリオの言ったとおり、僕達はその5分後にはホテルのロビーでチェックインを済ませてボーイに荷物を運ばせているところだった。

「明日の朝9時に迎えに来ますよ」

ロマリオは僕達をホテルに下ろすとそう言って車を出した。今夜は好きに過ごせという事だ。

言い換えるなら、面倒は見ないという事。確かにアテンドの内容は2日目と3日目の終日の取材なのだけれど。

僕達は部屋に着くとボーイにチップを渡すと直ぐにベッドに身を投げた。

「疲れたな」

ヒロはそういうとぼんやりと天井を眺めていた。

「ああ、本当に骨が折れた。もう勘弁願いたいよ、こんな旅は」

「それは記事にするつもりか?」

横のベッドを見ると、ヒロはいつも通りの表情で笑っていた。終わりの見えない旅路への緊張が解けたようだ。

わけのわからない旅は終わり、僕達は無事カラムのホテルに辿りついた。それは目的地のわからない旅でわからないままペースの配分をする必要は無くなったという事に等しい事だった。

「まさか」僕は何時間ぶり位に笑っていた。

「島に着いたときには日常に疲弊した心が開放されるくらい素晴らしい景色をながめながらのゆっくりとした旅路…どうだ?悪くないだろう」

ヒロは笑って言った

「それが詐欺じゃなければな」

僕はベッドから起き上がると窓の側に腰掛けて煙草に火を付けた。一口、深く吸い込んだときにくらくらとした感覚を覚える。

そういえば日本を出てからもう13時間も煙草を吸ってなかったな。

ニコチンが肺に落ちるのを待って答えた。

「あくまで、ライターの個人的な感想だよ」

「それも嘘じゃないか」

ヒロも半身を起こして煙草をくゆらせていた。結局、どこでも同じなんだ。僕達は煙草をくゆらせる。日本の居酒屋で、自分の部屋のダイニングで、ベランダで、あらゆる喫煙の店で、あるいは

歩き煙草の禁止されていない路上で。僕達はある部分ではどこにいても同じように振舞えるのだ。

「嘘も方便、だろ」

僕は窓の外に視線を固定したまま答えた。

ゆっくりと空が赤みがかってゆく。それは僕が知る限りに知る美しい空のうちの一つに数えられそうに澄み切った光景だった。

「はは、俺が読者ならブーイング飛ばしているぜ。ところで、これからどうする?」


僕達は、ホテルのフロントマンに近くで適当な食事を取れるレストランや、バーの事を聞いて街に出かけた。

ついたときにはわからなかったのだけど、ホテルの裏手を歩いてゆけば直ぐに街に繋がっているという事で、僕達はタクシーを呼ばずに徒歩で行く事にした。

街への道は一直線に伸び、その左右に牧歌的な光景の広がる広陵地帯と海とが一つの景色の中に納まる様は中々に見ごたえがある。

平和そのものの穏やかな夕べ。或いは天国での晩餐を予感させるくらいにたおやかな自然に包まれた景色だった。

ヒロは何度か立ち止まり、無心にシャッターを切っていた。

「地上の楽園だっていっても嘘じゃないだろう」そう呟いた彼の瞳は景色の美しさに打たれ、潤んでいたように思えた。

飛行機が着陸した時に感じた「ありふれた島」だという感想は霧散し、僕はカラムの自然の美しさに息を呑んでいた。何度も、目を奪われる。

自然が、自然のまま其処に横たわっている。

柵の無い断崖の向こうに眺める夕焼けはこの世のものではない位に美しく感じられた。

或いは初めて訪れた南国の景色にこんな風に感じ入る事自体がありふれた事なのかもしれない。そこは僕達の住む日常から切り離された世界である限りに。

それでも、僕の記憶にある限りには、こんなに美しい光景を見たことは無い。欠落した記憶の中で、或いは何度も感じた感情なのだとしても、現在に繋がらない

限り、今僕が感じている感情は嘘ではないと思えた。

そのようにして、僕達は街への路を辿っていった。


4章


僕達はあからさまに観光客向けのレストランを避け、大通りの外れにあったこじんまりとしたパブに入った。

ここまでに観た景色の感傷を、煩わしい喧騒で損ねたくなかったからだ。

現地ではスペイン語が使われているけれど、僕たちはスペイン語が話せないし、読み書きも出来ないので英語で店名が書いてあるそのパブを選んだのだった。

店の中には僕たちを除けば3組の客がいるだけで、静かなものだった。僕たちは店の名前を控えると、案内された席に着いた。

手渡されたメニューに目をやると、海に近い分魚介のメニューが多いのかなと思ったけれど、殆どが羊肉の料理だった。

メニューを見たとき、この島の牧畜は周辺の島と比べ盛んで、また家畜の殆どは羊だという事を思い出す。

「俺は何でも食えるぜ」というヒロを尻目に、ビールと羊のロースト、貝の酒蒸しをオーダーした。

オーダーを取ったウェートレスが、厨房に行く時に、僕の顔を見て何かを思い出したような顔をした気がしたけれど、彼女は直ぐ元の表情に戻ってしまったので、

声をかけることは出来なかった。


「明日はどうする?」

ヒロは運ばれてきたビールに口をつけ、一息を吐くと言った。僕もビールを一口飲んでから答えた。

「とりあえず、主だった観光地を回ることにしようか」

「一日持てばいいけどな」その言葉には僕も同意だった。結局これまでに見た限りで特筆すべきはその景色の素晴らしさだけだった。

「景色の綺麗なところを聞いて回る?」

「天国に一番近い島より刺さるフレーズを考えられるのならそれでもいいよ」

ヒロはそう言うと残りのビールを飲み干し、代わりをオーダーした。

「取材するにはストーリーが無ければ面白いものにはならないだろう」ヒロはそう言って笑った。

何か考えがあるのだろうか。僕は彼の次の言葉を待った。

「アキコになりきるっていうのはどうだ?」

そう言ってヒロは得意そうな顔をした。全く、何を言っているんだか。そう思った事が僕の表情に出てしまっていたのか、ヒロが慌てて続けた。

「比喩だよ。つまり、この島の魅力を俺たちが作り上げるんだ」

「景色以外に?」僕は溜息を吐いてヒロを見た。

「そんな顔すんな、何も適当な事を言っているわけじゃないぜ?・・・つまり、女の一人旅にこの島がどれだけ適しているかだとか、そういう事をコンセプトにしてみようって言うだけだ」

「美しい夕陽の中での思索?」僕の答えをヒロはいたく気にいったらしい。

「そう、景色の中で見詰めた、本当の私の姿とかさ・・・これなら美しい景色を集めるだけで何とか記事に出来そうじゃないか?」

僕はバカバカしいと思いながら、一方でそれも悪くないなと思っていた。結局観光資源をどう生かすかだ。目に留まるものが今のところ景色だけしかないのなら、それを生かすしかない。

他に特筆すべきものが出てくれば足していけばいいだけだ。そして、僕はその時それ以上のアイデアを出せなかったという事もあり、明日からの取材方針はなし崩し的に決まった。

僕達は3杯目のビールで乾杯し、こんがりと焼かれた骨付きの羊肉とやけにアルコール臭の強い酒蒸しを胃に詰めて、パブを後にした。


外はもう闇に包まれていた。それは無数の星明かりに照らされた幻想的なカラムの夜の闇だった。

僕達はその闇に名前をつけるべく議論をしながら、もっと酒の飲める店を探した。

次の日の仕事を考えるのなら、それ以上酒など飲むべきではなかったのだけど。結局、ただの旅行者になってしまっていたのだろう。

仕事とはいえ、出発の際には思っても居なかったほど素晴らしい島で過ごすバカンスの初日なのだ。


街の中心にあって、店の外にいても喧騒が漏れてくるほど騒がしい店だった。

僕達は人の声に誘われるように、店へ入るとかろうじて開いていたカウンターへ腰を落ち着けた。

入る前から解っていたのだけど、店の中は容易に会話が出来ないくらい音に溢れていた。

話声、グラスを交わす音、嬌声、椅子の動く音、そんな類の音。

僕達はお互いに飲み物を注文すると、意味も無くおかしくなってきた。

さっきまではあんなに美しい景色に感動していたくせに、こんな喧騒の中でいるほうが身にあっている気がしたのだ。

「俺達は孤独には慣れていない」

ヒロはそういうと煙草に火をつけた。

「こんな島に来たって、結局騒がしい日本の居酒屋みたいな喧騒の中で酒を飲もうとしてしまうんだよ」

バーテンダーが二人の前に酒を運んできた。僕は、名前もわからないウィスキーの水割り、ヒロはジンライムを頼んでいた。

僕はグラスを手に取ると、ヒロの言葉を肯定するように笑って言った。

「静かな場所でお上品に過ごす事なんて望んではいないのだろうね」

ヒロは満足そうに頷くと、グラスを取って半分を飲み干した。

「どんなに美しい星空だって、今見上げればその姿をとどめられやしない。歪んで、ぶれて。俺はそんな空のほうが美しいと思うんだよ」

そういうと、グラスをテーブルに置いて、2本目の煙草に火をつけた。

僕はアルコールでぼんやりとしてしまったまま、店の中を見回した。そこには溢れかえるような人がいて、めいめいがグラスを手に持ち、

自分達のやりかたで人生を楽しんでいるように見えた。そして、それは僕の楽しみとは違うような気がした。

つまりは、そういう事だ。

酩酊し、アルコールに浮かび漂う彼らは僕に比べればとても自然に振舞っているように見えた。

僕は閉塞した世界の扉を無理矢理にこじ開けるためのアルコールを求めているのに対して、彼らは生活の中の一つの楽しみとしての

アルコールを求めているように感じたのだ。

或いはそれは日本にいても同じだったのかもしれない。

僕の世界は閉塞してしまっている。同じような日常を繰り返し、日付というラベルを貼り付けなければ、一体それがいつ起こったのかもさえもわからないような

生活。

くだらねえな。僕はそう吐き棄てた。それまでの楽しい気持ちが一気に霧散していく事を感じながら。

「くだらないな、本当に。俺達の生活なんて、ただ生き延びるための繰り返しなんだろう、きっと」

ヒロはそう言ってグラスを開けた。

「俺達はこの島で何を見ればいいんだろうか」

僕はヒロが言った言葉について考えていた。生き延びるための繰り返し。それなら、この島に生きる人たちに取っての日常は一体どんな意味を持つのだろうか?

「僕達に無い全て。日常に欠け落ちている楽しみだとか、充実だとか。そんなもののことだろう」

この島には僕たちの生活とかけ離れた次元の時間が流れているのだろう、きっと。

それはあるいは南国の、僕達と違う生活をしている人間達には等しく流れる類のものなのかもしれない。けれど、この島で感じることは僕達が

ありふれた観光地で感じるような感覚とは違う気がした。ありふれた観光地を訪れる感覚がどのようなものかはわからないけれど、そうであろうという確信を持って。

アキコさんは知っていた?僕が今感じたような時間の流れを。

僕はアキコさんの事を思った。


その微笑、細い肩、柔らかな唇。

彼女の唇の事を僕は知っている。割り込んでくる舌の事も。

抱き合って眠った夜のこと。


僕は彼女と抱き合って眠っていた?


ヒロは僕の瞳を覗き込んで、心配そうに言った。

「飲みすぎじゃないか?」

そうだ、飲みすぎているんだろう。記憶と想像が混ざってしまっている。ドロドロと、僕の意識の中で。

留められないまま辺土に混じり、積み重なりそして僕には届かない位遠くに横たわっていた

記憶。無意識に漂い、そして浮かんできた上澄みのように純粋な感情が現実に溶けてしまっている。そして、それは永遠に甦らない過去である事すら知っているというのに。


彼女は笑っていた。

「いつまでそんな風にいるつもり?」

僕は彼女の着ていた白いワンピースを脱がして、その肌に触れていた。

陶器のようになめらかな肌。

指を這わせると、感じやすい彼女は身をくねらせて僕にしがみついていたっけ。

「焦らすのはやめて」

僕は彼女の舌が好きだった。

「口でされるのが好き?」だって。

意地悪な声が耳に残っている。


一体、こんな混乱はいつまで続くのだろうか?

欠け落ちてしまっていた感情のピースが戻ってくるような感覚。

向き合うべき過去を持たない僕にとって、こんな不確実なものであったとしても過去と向き合うような感覚は心地良いものだった。


「大丈夫だよ」

僕はヒロにそういうと、スツールから立ちあがりトイレを探した。バーテンは僕の姿を見ると、指でトイレの場所を指して教えてくれた。

「ありがとう」

通じるはずもない感謝の言葉を告げると、僕はよろよろと目的地を目指した。

途中でぶつかったテーブルでは柄の悪いスキンヘッドの男が両手に女を抱いて、交互に口付けをしていたっけ。

彼は僕がテーブルにぶつかると、露骨に不快感を表し、わけのわからない言葉を吐き捨てた。

「fuck」だとか、そういう類の言葉なんだろうなと思いながら、気付かないフリをしてその場を遣り過し、トイレにたどり着いた。


トイレの鍵は開いていた。

中に入ると女が一人、こちらに背を向けて胃の中のものをもどしているところだった。

ローライズのジーンズを穿いた、金髪の女。

苦しそうな嗚咽と、胃液を吐く音。

僕は彼女がとても苦しそうに見えて、背中をさすってやった。こういうのは万国共通なのだろうか?

彼女は涙目で僕を振り返ると、わからない言葉を吐いた。ありがとうという意味の言葉なのだろうか。


振り返った彼女の顔を見て、僕は息が止まりそうになった。

その顔はアキコさんのものだったからだ。

記憶と現実との混同?それとも酩酊による幻想?

僕は混乱し、ただ彼女の背中に置いた手を止めて、その瞳に魅入っていた。

「アキコさん?」


彼女は微笑むと、僕に口付けをした。嘔吐の匂いのする口付け。

嘔吐の匂いのする、長い口付け。

10秒・・・20秒。僕は後ろ手で、トイレの鍵を閉めた。

これが現実だろうが、妄想だろうが、あるいは現実には起きていないような夢であってもいい。

僕はその口付けが好きだった。


舌が割って入ってきた。

いつものように、前歯の裏を舐めるように動いていた。


いつものように?


僕は考える事を止めて、彼女を抱き寄せた。

手に馴染んだ身体だった。どこまで手を伸ばせば、彼女を強く抱き締められるか、そんな事はわかっていた。

僕はそこが一体どこであるかさえ忘れていた。便器があった場所には枕が置かれ、床は柔らかなベッドに変わっていた。

彼女を抱き締めたままそこに倒れこみ、ジーンズを脱がせた。

白いワンピースが邪魔だった。僕は裸の彼女を求めた。そこにはジーンズも、ワンピースも、彼女が職場で着ていた上品なツーピーススーツも要らなかった。

ただ、裸の彼女がそこに横たわっていた。

僕を見上げるように見つめている、濡れた瞳に見惚れた。


僕は、自分が狂ってしまっている可能性を考えた。

さっきまで、カラムのバーに居て、そのトイレで女の背中をさすっていたはずだ。

なぜ、今アキコさんの中で果ててしまっている?


そんな事を考えたところで、結局は無意味なのだろう。

僕は自分自身に欠け落ちたピースが戻ってくるのを感じていた。彼女を貫きながら。

果てた後、僕達は背中を合わせて横たわっていた。それ以上彼女の瞳を見つめる事が怖かったのだ。


一体、これは誰の意識なんだ?

僕の意識に似せた他人の意識なのか?

僕は今一体どこにいる?何をしている?


その刹那、昼間見た海の景色と、さっき観た美しい月が脳裏に浮かんだ。

波の音。斜陽の眩しさに目を細めた。


5章


「都合のいい記憶喪失ね」

アキコさんは背中越しに笑って言った。

少しずつ落ちていく太陽が眩しく、虚ろな夜が周りを侵食していくのを感じる。

気を抜けば僕達は夜に飲まれてしまいそうだった。

闇が深く肺を満たして、そしてゆっくりと光の中で得た全てを失っていく。

それはある意味では救いでもある。本当の無へ帰れるのなら。

でも、結局そんな事は無いのだろう。闇の中で震えて、狂ってしまうのを待つだけだ。

君の手が近くにあるのならそれを探して、掴もうとするだろう。

誰かが側にいるのなら遣り過せる類の恐怖。

それが永遠に続くのならば僕はただ君の手を握って手繰り寄せる。

暗闇の中で抱き合っていよう。感覚が続く限りに。思考がまだ、君を求められる限りには。

「いつか、誰の手を握っているのかさえ忘れるのよ、あなたは」

僕はアキコさんの言葉を遮った。

それは、違うって。

未来が連綿たる過去のつながりであり、現在が過去になりかわって過ぎ去っていくのなら。

繋いだ手の持ち主は永遠に僕の現在であり、過去であり、未来であり続ける。

「アキコさんを失うときまでは、忘れはしない」

アキコさんは振り返って僕の瞳を覗き込んだ。

意思を持った強い視線が僕の瞳の中を探る。そこになにがあって、なにがないかを確認するかのように。

僕の瞳に映っているのはアキコさんだけだった。海も、沈んでいく太陽も、夕焼けも砂浜も、そんなものは

もう視線の中には入ってこない。ただ、アキコさんだけがそこに居る。他には何もありはしない。


そう、繋がっているのだ。意味を持って、僕の世界の中へ。

望んでも叶わないなんて信じていたけれど、結局望まなければ叶わなかっただけだった。

諦めたフリをしていたのは、ただ、それが叶わない事を恐れていただけだった。

そんな事は知っていたのに。


アキコさんは少し困った笑みを浮かべた。

僕はその意味がわからないで、ただ彼女を見つめている。

辺りを侵食していた夜は、もう完全に夕方との境界を越えてしまっていた。

月明かりと、瞬く星の光だけが世界を闇から遠ざけている。


ただ、その手を繋ぐんだよ。

僕は自分の中でそう言って、アキコさんの手を取ろうとした。

けれど。

「ずいぶんと自分勝手なのね」

彼女はそういうと、僕の手を払った。

「一体、どれだけの人を傷付けてきたと思っているの?」

そういうと彼女は再び僕へ強い視線を投げた。さっきと同じような、探るような視線。

僕は戸惑った。彼女が一体僕の中になにを見つけようとしているのかがわからないまま、

ただ突っ立っていた。言葉を捜す。一体、なにを言えば?


「私も、いつかあなたの記憶の中で失われてしまうのでしょ?」

アキコさんはそう言うと、僕の言葉を待っているように、視線を外さないで立っていた。

無防備に、けれど凛とした空気を孕んだ彼女はとても美しかった。

まるで、僕にとっては彼女が全てで、失うときには死んでしまってもいいと思う。

いつか忘れる位なら。

「君を失うのなら、死ぬ」

口をついて出て来た。なんてうそくさい台詞だろう。覚えては無いけれど、僕は過去にも同じような台詞を

吐いてしまっていたのかもしれないのに。

けれど、僕はのうのうと生きている。まるで、下らない虚言癖を持っているみたいな気持ちになって、酷く苦しかった。

僕は嘘なんて吐きたいと思っているわけではないのに。

けれど、いつか嘘になってしまうとしたら。

「君を忘れてしまう前に、死ぬよ」

本当に。

ねえ、そう思っている。僕はそんな感情を一体どう彼女に伝えればいいのかさえわからなかった。

それは永遠に僕の中でぐるぐると回り、いつまでも失われないでいるものなのだと信じたかった。

ただ、それだけだった。意味を持って僕の世界にある彼女を失うのなら、僕の世界から永遠にその意味は抜け落ちたままになるのだろう。

欠けた世界で生き延びる事も、一つの生き方なのかもしれないけれど。

彼女を失った世界で生き延びるには僕は少々欠けたものが多すぎるのだ。

つまり、彼女を失う事なんて出来ない。アキコさんは僕にとってはもう失えないものになってしまっていた。

そんな事の全てを伝える術を僕は持たなかった。

ただ、僕を射抜くような強い視線から逃げずに受け止めて、彼女が僕の中に少しでも何かを探してくれているというのなら、

この感情を見つけて欲しいと願うだけだ。


次の瞬間。


アキコさんは、微笑んで僕の手を取った。

とても細く柔らかな指の感触と掌の温かさを感じる。

闇の中で、この手を繋いでいる間は僕は正気でいられる気がした。

そう、この瞬間に僕の世界は意味のあるものを内包する事が出来ているのだ。

僕は彼女の手を引いて、体を手繰り寄せた。

彼女も僕を受け入れ、夜の海で抱き合ってキスをした。とても柔らかな唇。

「私を忘れる前にあなたを殺してあげる」

僕は、それでもいいと思った。それくらい素敵なキスだったのだ。

「本当よ」

僕はただ笑って、もう一度彼女にキスをした。

「このキスを忘れてしまうくらいなら、殺してくれた方が嬉しいよ」


6章


僕の血が流れている。

身体がしこたま岩に打ち付けられてしまっているようだった。

昼間見た海の近くの岩場。

少しずつ失っていく体温を感じていた。


抜けたページの多い日記帳が、頭の中を掠めていった。

そうか。


グルグルと回る意識の果てに、僕は最後に自分の撮った写真を浮かべ、眺めていた。

こんな美しい写真は、きっと誰にも撮れやしない。

アキコさんの微笑む姿。一体、あの時に行った島の名前はなんて言うんだっけ?


僕は嘘つきにならずにすんだ。

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