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「酷いな……」
昨日早朝から流れてきたファックスは全部で七十枚ほど。 コピー用紙で出力するタイプだったから、ありったけの紙に全て同じメッセージが入っている。
『斎藤瑛太は自分の担当していた乳幼児を殺した』
「お前がここにいること、知ってる奴はどの位いるんだ?」
「……両親には言った。だから実家のみんなは知ってる。あと……」
「あと?」
会いたくなかった人に会ってしまったことはこの件とは関係ない、そう思いたいが不安なことは話しておこうと思った。
「先週末、駅前の商店街出たところで前の保育園の同僚に会った、偶然。この辺にすんでるのかって言われたけど、ちがうって答えた。勤め先のことは言ってない」
「……名前は?」
「西原奈菜美さん。まだ前の園にいるかはわかんない」
「そうか。それと今日、大学の広場に行く途中の道で不審な人物とすれ違わなかったか?」
「……子供たちと一緒にあっちこっち見てるから、ちょっと覚えてないな……。でも、何人かとはすれ違ってると思うよ」
こんなことなら慎重に回りを観察しながら歩けばよかったと後悔する。 しかし周囲を異常に警戒する職員に連れられた子供たちは、さぞ楽しくないことだろう。 それならいっそ、出掛けなければいい。
「……わかった。園長先生、このファックスお借りしてもいいですか?」
「ええ、頭に来るから返してくれなくてもいいわよ?」
「うはあ、相変わらず悪いことする子には容赦ないっすね!」
都は馬場を見やり冷ややかに笑う。
「当たり前じゃない、彰くんみたいな利かん坊にはお灸を据えなくちゃ」
「あら、馬場さん。いたずらっ子だったんですか?」
「いづみ、そんなかわいいもんじゃなかったのよ……」
「あらら、とんでもないところで事故が起きちゃいましたね、馬場さん」
「ほんとっすよ。勘弁してください」
幼稚園時代は暴れん坊で通っていた馬場だ。 二十年も前のことを暴露されても本人だってよくは覚えていないだろう。
三人は笑っていたけれど、瑛太はそんな気にはなれなかった。
なにもなかったから良かったものの、ひとつ間違えば子供たちに危害を加えられていたかもしれない。 自分が狙われていたのだろうか。 車で引き倒したいほどに憎まれているのだろうか。
「……っ」
急に足元から震えが来た。 もしもそうだったら、自分のせいで子供たちに何かあったら。
「ど、どうしよう……どう、し」
「瑛太! しっかりしろ。まだお前がどうこうって決まった訳じゃないだろ!」
「だ、だって、ファックス、僕の名前が……」
「安心しろ。園の回りを警備させるし、今、事故のあった周辺に目撃者探しで警官が何人も出てる。もうこんなことはさせないから」
「……」
言い様のない不安を抱き締めるように、瑛太は自分の背中を抱いて動くことができなかった。
警察はずいぶん時間をかけて聴き込みをしたが有力な情報はつかめなかった。 車はどうやら盗難車だったようで、それらしい車が乗り捨てられているのが発見された。 当然のように、指紋などは検出されなかったそうだ。
瑛太も不安と隣り合わせの落ち着かない日々を過ごしていたが、園内での環境はいいものになっていた。
あの、車に轢かれそうになった日のことが職員の間で噂になっているらしいのだ。 しかも大変華美な装飾をつけられて広まったので、瑛太は子供たちや他の先生を救うために体を張ったヒーロー的な扱いを受けているようなのだ、陰で。
表面上は、ファックスが来る前と変わらなくなったので、いたたまれなさはなくなった。 しかし時おり熱い視線を感じてそろっと見るとさっとそらされたりするので、なんだかやりにくい。
「絢音先生がフィルターかけて話すから、みんな本気にしちゃってるじゃないですか」
「えー、だって本当にあのときの瑛太先生、チョーかっこよかったんだもん」
「絢音先生ずるいー。私も見たかったですぅ」
「歌穂先生まで……」
子供たちが帰って、明日の準備やお便りの作成などをしていた午後七時。 そろそろ、廉のお迎えも来る頃だ。
瑛太たちは各々の仕事をやっつけながら、コーヒーを飲んでいた。
車の事件のあと、保護者会をするか否かですこし揉めたが、結局『車に注意』というお手紙を出すことで決着した。 一応は危険な車に遭遇したという報告はあったのだが。
「そういえば、わたし毎日廉くんちの前通るんですけど、最近お巡りさんの数がめっちゃ増えて、なんか物々しいんですよ」
「そうなの?」
「はいー。いつもだと二、三人位なんですけど、最近は制服来てる人が五、六人でいかにも私服刑事みたいな人がさらにいるって感じなんです」
「へー……。やっぱり抗争とかいうやつなのかなー?」
「それは、解決したんじゃないんですか?」
「うーんと、一度は落ち着いたんだけど、また新しい揉め事が出てきたらしいって。全国規模の組じゃないからニュースにはならないけど、地元の人は結構注目してるみたいよ?」
「……」
裕之に、危険なことはないのだろうか。
実際にヤクザの抗争なんて知るよしもないけれど、新聞に乗るような暴力団絡みのニュースでは常に暴力や発砲の字が並ぶ。 そんなことに、彼は巻き込まれたりしないだろうか。
「……」
「瑛太先生、若頭のこと心配ですか?」
「え? えっと、はい」
そんなに分かりやすい顔をしていただろうか。 ポーカーフェイスには自信があったのだけれど、見透かされたようで恥ずかしくなる。
「やだちょっと、瑛太先生真っ赤」
「うそかわいい。なにこの子!」
ああああーーーーー! 瑛太は身体中の血液が上がってしまったような顔を押さえて頭を振った。 いやいや、そんなんじゃないですから、だって園児の保護者だし、心配するのは当然ですよねっ、と心で叫ぶ言葉も口からは出てこない。
「はいはい、おしゃべりはそこまで。廉くんお迎えいらっしゃいましたよ」
「はーい……」
園長に注意され三人は口をつぐんだ。 なんだか気恥ずかしくて廉と一緒には出ていかなかった。
「うわあ……」
園の買い物に出ていた瑛太を夕立が襲った。 いつもは用務員さんがしてくれるのだが、今日はたまたま休みで、たまたま緊急に必要な重いものがあったのだ。
唯一の男手ということで瑛太に白羽の矢が立った。
幼稚園に勤務していれば想定外に汚れることはままある。頭から泥水をかぶることもあるし、絵の具のついた手で抱きつかれることもある。
そういうわけで常に上から下まで着替えを用意している。
「走っちゃおうか……」
歩いたって二十分ほどの道だ。 いくら荷物を持っていたって、大したことはない。 瑛太は大粒の雨のなか荷物を両手に駆け出した。
ほんの五分ほど行ったあたりで、左の肘を掴まれた。 びくりとして振り返ると、掴まれた腕の先には裕之がいた。 いつものように隙のないスーツを着て黒い傘を差している。 とっさにずぶ濡れの自分を思い浮かべて恥ずかしくなる。
「どうしたんですか先生。酷い格好だ」
「稲葉さん……こんにちは。買い物に出たら降られちゃって。園に着替えもあるから思いきって走っちゃいました」
照れくささからヘラっと笑って見せると、裕之は顔をしかめた。
「送ります。乗ってください」
裕之の視線の先を追うと黒いワゴンが静かに近づいてきた。
「とんでもない!こんな格好で車になんか乗れません。すぐそこですしこのまま走って帰りますから」
「じゃあ、歩きで送っていきます。傘はひとつしかありませんからもう少し寄ってください」
裕之が目配せすると、車は静かに離れていった。 きっと園で裕之を待つのだろう。
仕方なし、瑛太も園を目指して歩き始めた。
「ひとつ貸してください」
裕之は荷物に手を出す。
「いえ、結構です。そんなに重いものでもないですし」
実際、中には明日お誕生会で使うジュースやお菓子がどっさり入っていた。 スーパーで袋を見たときには車を出すんだったと軽い後悔をしたくらいだ。
断ったのは、それをこの人に持たせるのは申し訳ないという気持ち。 あるいはこのくらい何でもなく持ってやるさという、この逞しい男に対しての、もしかしたらわずかな対抗意識だったのかもしれない。
「そうですか?」
「はい、ありがとうございます」
裕之は予想に反して簡単に引いた。 よかった、と胸を撫で下ろすと「じゃあ」と傘を持つ手を変えた。 そして空いた右の手で、瑛太の肩を抱き寄せた。
「え?」
「ほら、びしょ濡れだ。いくら着替えがあるっていっても、風邪を引いてしまう」
傘のなかに瑛太がすっぽりはいるよう、自らの体と重なるほど近く、瑛太を引き寄せた。
しっかりとした腕が瑛太の背中に回り、その肩をしっかりと掴む。 心臓の真裏を通った腕に駆け出した鼓動が伝わってしまうかもしれないと思えば、さらに速く大きくなっていく。
人に、意識している人に触れられると、自分のかたちがはっきりとわかるような気がする。 皮膚に沿って弱い電流が流れて、その刺激で日頃なら気づかない、自分とそれ以外の境界を痛いほど感じる。
緩くウエーブしている髪の先に、雨粒が揺れている。 それが落ちないようにゆっくりと首の角度を変え裕之を見た。ま っすぐ前を見て、荷物を持った瑛太に合わせてゆっくり歩いてくれる。
違う世界に住むこの人が自分を気にかけてくれるのは息子の副担任だからだ。 そうでなければ出会うこともなかった。
彼のことを知りたいという欲求。 そしてそれは悟られてはいけないという戒め。 佐野の時と同じ羽目になる。
でも、それでも少しだけ、今だけ。
傘を叩く雨の音の隙間を縫って瑛太は話しかけた。
「……お仕事、忙しいですか?」
「今はそうでもないですね。不動産の方は落ち着きましたし、飲食の方はもう少しあとが一年のピークです」
「どんなお仕事していらっしゃるんですか」
「そうですね……飲食の方はバーとかクラブを何件か。自分は時々見回りに行くだけですが。不動産の方も店舗責任者が他にいるんです。他にもいくつかやってますが、自分では株を売ったり買ったりしてケチな儲けを出しているくらいですね」
「でもすごい。柴田さんも稲葉さんのこと尊敬しているっておっしゃってましたよ」
「はは。あの馬鹿」
憎まれ口をきいても顔が緩やかに笑みのかたちになった。 嬉しかったのだろう。
自分も上司には恵まれていると思うが、彼らもまたそうかもしれない。 一緒に仕事をすることなど永遠にないのだが。
そのあとも二人でたわいない話をしながら園までの道を歩いた。 瑛太は、思いがけず穏やかで心地よい空気に、このままずっと目的地に着かなければいい、などと願っていた。
ちょっと甘々回。
また明日お会いできますように!
うえの