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あした、秘密の回廊で  作者: うえのきくの
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8

 

 自転車があるからと固辞したのだが、気持ちが不安定なときは自転車だって危ないのだからと、裕之の車に乗せられた。

 廉を迎えに来てすぐ戻ってきたのだろうか、運転手は大塚だった。 スライドドアの前に立ち、若頭を迎える大塚を見たときにはそのままUターンして駐輪場に走っていこうかと思った。

 ところが思いがけず大塚が微笑んだ。 瑛太に向かって「お疲れさまでした。帰りましょう」そう言ってくれた。

 張り詰めていた気持ちが緩んでしまう。 膝がカクンと抜けて座り込みそうになった。 裕之がすぐ腰を支えてくれて、大塚も手を貸してくれた。

「ゆっくりでいいですから。社長、先に乗ってください」

「ああ」

 二人に支えられ瑛太はシートに体を埋めた。

「……はあ」

 深いため息がでる。

 あのあと、他の先生たちは言葉少なに帰っていった。 もしもあの中の誰かが辞めたいと言い出すようなことがあったら、やはり辞表をだ出そうと瑛太は思っていた。

 他の保護者の耳にはいるのも時間の問題だろう。 そうなったら、本当にここにはいられない。

 それでも明日は、少なくとも明日は子供たちに会える。 おはようございますと言える。 それがこんなに嬉しいことだとは思わなかった。

 車は静かに走りだし、瑛太は車窓から裕之に視線を移した。

「稲葉さん、さっきはどうもありがとうございました。……信じるって言ってくださって、嬉しかった」

「……先生、ひとつうかがってもいいですか?」

 そう切り出した裕之の声は固い。 やはり、心の底では疑惑が拭えないのだろうか。

「はい」

「先生はさっき『翔馬くんのお父さんは素晴らしい人だったけどそんなことは望んでいなかった』とおっしゃいましたね? 」

「え? ええ、言いました」

「それは、望んではいなかっただけで、好きではあった、ということですか?」

 裕之はまっすぐ前を向いている。 表情はまるで変わっていない。

 今この人は、何て言った?言葉の意味を飲み下した瞬間、瑛太の顔色は瞬く間に青くなった。

 失敗した、間違えた。 瑛太の言葉を聞いて裕之は確信している。

「……な、なに?」

「先生は同性を恋愛対象にする人なんですか? と聞いています」

「……」

「先生?」

「お、下ろしてください。ここで結構です」

 瑛太は震える指でシートベルトを外し、ドアを開けようとした。

 もうだめだ、こんなことが知れてしまったら、子供を預けるなんて言ってもらえない。

 誰にも言わなかった。 それだけは誰にも、馬場でさえ知らないことだった。

 ずっとひとりでこの秘密を抱えてきた。

 瑛太はいわゆるゲイバーやハッテン場にも行ったことも風俗を利用したことすらない。 もっと言えば恋人がいたこともない。 それは調べればわかることだ。

 週刊紙は佐野が離婚していた、瑛太が彼と親しくしていたというそれだけで穿った捉え方をすればそう読める、という記事をでっち上げていた。 絶対にどこをつついてもそれらを真実だとは証明できなかったはずだ。 根も葉もない噂を取り沙汰していると胸を張って言えるはずだった。

「え? 斎藤先生?」

「お、下ります、ごめんなさい、ご、ごめ……」

 違ったんだ。 そんな事実などなくても瑛太の心に他人と違う志向があることを、言葉の端々を繋げればわかる人にはわかってしまうことだったんだ。

 じゃあ、自分は本当は夢を追うことさえ罪だったのか。 人を好きになることも許されないことだったのか。

 軽いパニックを起こしてドアを開けようとする瑛太の後ろから、長い腕が伸びてきた。 そして瑛太を抱え後ろに引っ張る。

「はな、はなし、て……」

「先生を責めてるんじゃない。だから落ち着いてください」

 裕之が耳元で静かに言った。 瑛太は裕之の膝の上に乗せられてしっかりとホールドされていたのだが、そんなことにも気がつかないくらい動転していた。

 落ち着かせるように髪や肩を撫でられて、やっと、合わなかった歯が落ち着いた。

「先生。先生の恋愛についてどうこう言うつもりはないんです。ただ、本当にその父親とは付き合っていなかったんですか?特別な約束もしていなかった?」

「そ、そういうことはなんにも。い、一方的に僕が好意を持っていただけで、だけど、悟られてはいなかったと、思います」

「先生は同性だけが好きなんですか?」

「すみません、き、気持ち悪いですよね」

「先生をっていうことでしたら、気持ち悪ければこんな体勢にはなっていないと思います」

 そのとき初めて瑛太は自分の格好を確認し、三センチばかり飛び上がった。

「わあ! あの、下ります。下ろしてください……」

「もう、着きますから少し待っていてください。暴れると危ない」

 そう言って裕之は膝の上にいる瑛太を自分に方にしっかり引き寄せた。

 呼吸をするのも申し訳ないような距離。 彼の手は瑛太を励ますようにいつまでも背中をさすってくれていた。


「人にこんなことされるの、ひさしぶり……」

 だいぶ落ち着いて、安心したのか思わず漏れてしまった言葉に、クスクスと裕之は笑う。

「子供たちには毎日してあげる方ですからね」

 彼がしゃべると瑛太のくせ毛に息がかかりくすぐったい。 こんな異常事態にありながらその顔が見られなかったのは少し残念だと瑛太は思った。


 車は静かに瑛太の自宅マンション前に付けた。

「本当はうちに来ていただきたかったんですけど、今日みたいな日はああいううるさいところよりも、落ち着ける場所の方がいいでしょう。明日もありますから、ゆっくり休んでくださいね」

 そう言い残し、車は去っていった。 瑛太はぼんやりと見えなくなるまで見送っていた。

 部屋に入り電気をつけ、水を飲んだ。 やっと落ち着いてテーブルの前にしゃがみこむと、ポッと疑問が湧いて出た。

「あれ、何で僕のうち知ってるんだろう……」

 それでも今日あった様々なことを思い起こすうち、同じことを考え続けていられなくて、風呂に湯をためて入りなんだか疲れてしまったので食事もせずにベッドに入った。

 あんなことがあったのに眠れるなんてどうかしてる、と呆れ果てた瞬間、そのあと起こった車内での一件を思いだし、一気に目が覚めてしまった。 がばりと上半身を起こし頭を抱えた。

「ひ、膝に乗っけられちゃったよ! 髪! 髪なでられちゃったしっ! ああ、そうだねっ、子供と一緒なのかなっ!」

 電気を落とした部屋の中はカーテンの隙間からわずかな光が落ちてくるのがよくわかる。

 気持ちが少し落ち着けば、あの頼りない光はまるで自分のように思えてくる。

 あの人に比べれば自分は子供だ。 実際の年の差はそうないかもしれないが、大学でもずっと進路のことを考えてバイトも図書館や学童施設、おもちゃ屋などを選んでしていた。 就職も一般企業への経験はなくすぐに保育園にだった。

 同じ年の男に比べればきっと圧倒的に社会経験が少ない。

「あんな風にだっこされて頭撫でられるようなガキなんだ、僕は……」

 カーテンを開ければきっと、冴えざえとした月が光を落としている。 朝になれば誰にも負けない強い輝きを放つ太陽が出る。

 自分の選択が間違っていたとは思わないが、ああいう眩しくすらある男と自分をふと比べてしまう。

 なんだかとても情けなく、覚めてしまった頭はなかなか眠気を訴えてはくれなかった。


「おはようございます……」

 職員室の空気ははいつもよりよそよそしかった。仕方がない。あんな特大の爆弾をぶつけられて、平気でいろって言う方がおかしいのだ。

 幸い今日はファックスは流れていないようだ。 瑛太は失った信用を回復させるのは自分の努力しかないと答えを出していた。 やるだけやってそれでもノーといわれれば仕方がない。 とにかくやるしかない。

「おはようございます!」

 バシン、と背中を叩かれて振り返る。地味に痛い。

「絢音先生、歌穂先生……」

「背中丸いよ、瑛太先生?今日も元気にいきましょう!」

 二人は昨日の帰り、瑛太に「私たちも信じてます。っつーか信じるもなにもやってないでしょ?こんなに誠実で一生懸命な人がそんな鬼畜みたいなことするわけないもの」と言って笑ってくれた。 とても心強い。

「それに私たち、瑛太先生派ですから!ねーっ?」

「ねーっ!」

「派?」

「そうそう、大塚さんに負けちゃダメですよっ!」

「え、大塚さん?勝てるところが見つからないと思いますけど」

 夕べもそのことを考えて眠れなかったぐらいなのに。

 冴える月の輝きは大塚を連想させた。 鋭い刃物のような男に勝てること……乳幼児のおむつ替え位だろうか?

 逃げ出す子供を捕まえて鮮やかに交換することには長けている、と自負している。

 いや、それは。



 お天気のいい午前中は近所に散歩にいくことも多い。 目的地は大体、近所にある大学の広場だ。敷地内の一番外れ、研究棟のさらに裏。 なんの目的のものなのか講堂の脇にある林の影にだだっ広く芝生だけが敷いてあるスペースがある。

 そこを時々借りて、ボールあそびや凧揚げなど、園庭ではできない遊びをするのだ。

 今日は年中組二クラス、約四十人の子供を五人の教員で引率して歩く。 人手は多い方がいいと、いづみも一緒に来ていた。 彼女は決まったクラスを持たないオールラウンダーなのだ。

 子供の足で三十分位だろうか。 途中は静かな住宅街、大学の敷地に入る手前で変形の十字路を渡るのでそこは特に注意、と絢音から指示を受けている。

 隣の子供同士手を繋いで、比較的温かい午前の日差しの中を歩く。 猫を見つけたと言っては行列は止まり、鳥が鳴いたと言っては全員で空をあおぐ。

 こんな穏やかな日を、今日はなくさなかったけれど、明日はわからない。

 瑛太は一人づつの顔をゆっくり見回し、最後に自分の手の向こうにいる廉を見た。 廉も瑛太の視線に気づくとにっこりと笑った。

 幸せだ。


 その穏やかな気分を、車の急ブレーキ音が切り裂いた。 瑛太ははっと頭をあげ、音の方向を確認する。 前方、その問題の交差点からタイヤのスリップ音をならして一台の車が瑛太たちの方へ突っ込んできた。 あきらかにスピード違反だ。道幅はそうない道路。向こうが前方不注意ならはね飛ばされてしまうかもしれない。

 ちょうど列の真ん中辺りにいた瑛太は、前後を確認する。 前の方は家の門扉が見える。 後ろは狭い十字路がある。

「絢音先生!そこの門に入れてもらって!いづみ先生は細い道に入って!」

 瑛太は、後ろに向かって走り出した。

「あ」

 廉の前を走っていた爽が躓いて、手を繋いでたほのかもろとも転んでしまう。

「廉くん、いづみ先生のところに行けるね?」

 こっくんと勇ましく頷くと、廉は走り出した。 瑛太は両脇にほのかと爽を抱え細道に急ぐ。

 振り返る。さらにスピードを上げこちらを狙っているように見える。 前を走っている子供たちは皆、小道に逃げ込んでる。 家の庭先に入った子供たちの姿も見えない。

 瑛太は思いきって、今まで進んでいた方と反対に向かって駆け出した。 案の定、車は急ブレーキを踏み、一瞬止まったが、そのまま直進して消えていった。

 子供を二人抱えて立ち止まった瑛太は、その場にヘナヘナと座り込んだ。

「け、警察に、電話」

「えいたせんせい、だいじょうぶ?けいさつは110ばんよ?」

「……うん、大丈夫。ほのかちゃんも爽くんも怪我しなかった?」

 両脇の二人に目をやると、痛そうな顔で爽がこちらを見上げてくる。

「たぶん、いちばんひどいのえいたせんせい」

「え?」


 子供たちは瑛太といづみ以外の教員が園に連れて帰ってくれた。 間もなくパトカーに乗った警官が到着し、その中に馬場の姿もあった。

「あ、彰も来てくれたの?」

「ああ。怪我はないか?……て、お前なんだその面?」

 瑛太は額に手を当て、恥ずかしそうに笑う。

「さっき子供たちにも心配されちゃったんだけど、自分ではまだ見てないから。そんなに酷い?」

「酷いっつーか……」

 車とすれ違うとき、子供たちを抱え込みコンクリートの民家の塀に額を擦り付けてしまったようで、確かに触ると血が滲んでいた。 今はきっとアドレナリン大放出中で感じないのだろう。

「まあ、名誉の負傷か。車の車種とかナンバーとか……覚えてねえよな?」

「車はシルバーのセダンタイプだった。ナンバーまでは、ちょっと……。でも、窓ガラスが黒かったよ。中の人の顔を見ようと思ったのに見えなかったもん」

「そうか……」

「瑛太先生、お知り合い?」

 警察関係者と親しげに話す瑛太に、いづみが不思議そうに聞く。

「はい。彼もひまわり幼稚園の卒園生で馬場彰っていいます」

「どうも馬場です。桜が丘警察署刑事課に勤務しています。よろしくお願いします。ところで……」

 馬場がいづみに向き直り問いかけた。 いづみは動揺してはいるが必死に落ち着こうとしているように見える。

「大澤と申します。担当学年を持たないフリーの職員で今日は大学の広場に遊びにいくのにサポートとしてついてきました」

「じゃあ、大澤先生。なにか気がついたことはありませんでしたか? 細かいことでも覚えていたら」

 いづみの手は震えていた。 それはそうだろう、あんな鉄の塊に、自分や子供たちが撥ね飛ばされたらただでは済まない。 怖かったに違いない。 それでも顔を上げ証言するいづみを、瑛太は強い人だと思う。

「……あの、気のせいかもしれないのですが。まっすぐ瑛太先生の方へ、車は突っ込んできたように思うんです。子供が四十人、縦に並んでいますから、よそ見運転だったら塀とか列の前の方へ突っ込んでもおかしくないのに。私は後ろの方へ逃げてしまったので最後までは確認していませんが……」

「……瑛太、そうなのか?」

「……ただの脇見運転じゃない。僕が進む方向を急に変えたら、向こうも急ブレーキを踏んでそのあと急発進して逃げていった。あの道じゃ、Uターン出来ないし。僕かどうかはわからないけど、間違って進入してっていうんじゃなくて、意図的に誰かを轢こうとしてたみたいだった」

「そうか」

 馬場は険しい顔で考え込んでいる。 車がブレーキを掛けた辺りでは鑑識と呼ばれる人たちだろうか、なにやら写真を撮ったり地面を測ったりしていた。

「……瑛太先生、昨日のこともお話ししたら?」

「昨日のこと?」

 いずみが思わずと言った感じで口走った一言を馬場は聞き逃さない。 瑛太もこうなったら相談しなければと思っていたところだったので、重い口を開いた。

「ああ、うん。実は園に変なファックスが来て……」

「なんだ、それっ?!」

 馬場が瑛太の声を遮るように大声をあげた。 体格がいいので声も大きい。 瑛太といづみは思わず身をすくめてしまう。

「……全部とってあるから、警察に持ってく?」

「いや、そういうことなら他の先生がたにも話聞きたいからこのあと行くわ。一緒に行こう」

 馬場は瑛太といづみと一緒にひまわり園に戻った。 子供たちと歩けば、三十分もかかる道のりだが、大人の足だとほんの五分だ。





今日もありがとうございました。

明日もこの時間にお邪魔します!


うえの

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