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あした、秘密の回廊で  作者: うえのきくの
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7

 

 さっきまではカレーの匂いのする穏やかなダイニングだったのに、瑛太の回りだけ一気に物騒になってきた。

 三人が声を潜めてその事について話し出したので、瑛太はいとまを告げ帰ることにした。

 澄子と廉は玄関まで見送りに来てくれた。 廉は満面の笑みで「せんせい、げつようびにまたあそんでください」と手を振ってくれた。

 澄子も「またいつでもいらして」と微笑んだ。 そうそう気軽に遊びに来られるところではないと思うが。

 送っていくと言われた親切を断って瑛太は歩く。 一人で考えたかった。

 裕之のこと、柴田が言ったこと、そして再会してしまった西原菜奈美のこと。

 波風たてず穏やかに過ごしたい。 子供たちの成長を生き甲斐に清らかに生きていきたい。

 それだけのささやかな願いをなぜ叶えさせてくれないんだろう。



 月曜日。

 稲葉家で休んだ体は日をまたいでもまだほぐれたような感じだった。 今度お話しする機会があれば是非あの布団と枕はどこで買えるのか聞きたい、そう思いながら瑛太は幼稚園への道を自転車で走っていた。

 カレンダーは十一月。 並木の木々はすっかり葉を落とし寒々しくなっている。 園庭にまだ落ち葉はあるだろうか。 あったら拾って画用紙にはって遊んだら楽しそうだ。


 瑛太が職員室のドアの前に立つと不穏な気配がした。 入らなくてはいけないのだけれど、このまま回れ右をして逃げてしまった方がいい予感がする。 ドアの隙間から嫌な空気が漏れだして地面を這って瑛太の足首に巻き付く。 膝へ腰へと這い上がってくる。

 違う。 こんなのは気のせいだ。 黒い幻覚を断ち切るようにそのドアを開けると、片隅に置いてあるファックスが休むことなく稼働していた。

「おはようございます……なんですか、これ」

「……瑛太先生」

 コピー用紙を手にいづみが青くなっている。 瑛太が近づくとビクリと体を揺らしそれを取り落とした。 身を屈めて拾い上げるとパソコンで出力した文字が一行。


『斎藤瑛太は自分の担当していた乳児を殺した』


 二年前の悪夢のような日々が一気に頭の中に雪崩れ込んでくる。 その間にもファックスは受信の音を鳴らし続ける。

「…………っ」

 急激な吐き気を覚え、瑛太は一番近くのトイレに駆け込んだ。

 なぜ、どうして、だれが

 そんなこと考えても仕方ない。 体を二つに折るようにして胃の中のものを吐き出し、そして声を殺して泣いた。 泣いても何も始まらないと言うのに。


 園児たちが通園してくる時間になってしまう。 子供が一人でも園内にいればもう全員が先生の顔にならなくてはいけない。

 帰りに全員残って緊急の職員会議を開きそこで説明するからと園長が言い、三々五々教室に散っていった。

 瑛太も顔を洗い目薬を差し、絢音のあとを歩いていく。

 さっきは取り乱して一人でトイレに籠城してしまったけれど、本当はあの時間で説明をしなければならなかったのに。 絢音だって他の先生だって不安に思っているだろう。

「瑛太先生」

「は、はい」

 振り向かずに絢音が言う。

「私は、瑛太先生を信じてる。あんなどこの誰かもわからないようなファックスより、何日かでも一緒に仕事をした先生を信じる」

「……」

「だから、今日も一日笑顔でいきましょう」

「……」

 もう笑顔なんて無理だ、そう思うのに絢音の気持ちに応えたい。 ゆっくり振り返った絢音にホラーのような笑顔を向けると、本当にマンガのように吹き出した。

「なんだ、その顔?!美形台無し!」

 ゲラゲラ笑う絢音に気づいたわかばぐみの子供たちがワラワラとよってきた。

「なんでせんせい、そんなにわらってるのー?」

「えー、だって瑛太先生のお顔がおかしくってー!」

「ほんとだー」

「へんなかおー」

「……」

 体がバラバラになりそうな痛みをこらえた泣き笑いを、子供たちも手や足をジタバタさせながら囲んでくる。

「瑛太先生、虫歯が痛いんだって。みんなもちゃんと歯磨きしないと瑛太先生みたいになっちゃうからねー」

「やだー」

「いたいのやだー」

 そこからは子供たちが口々に自分の虫歯体験や家族のそれを我先に喋りだし、あっという間に午前のカリキュラムは終わってしまった。 少なくとも揺れる瑛太の脳にはそう感じられた。

 何を食べたのかもわからない昼をはさんで午後の時間も飛び去るように過ぎ、いつも最後の廉の迎えが来たのは七時を少し過ぎた頃だった。


 今日は裕之と大塚が並んでいる。 廉担当のようになってしまった瑛太が、都と一緒に玄関ホールまで廉を連れていくと、はしゃいで父親の腰に絡まった。 最近、だいぶ子供らしく遊ぶようになった。 友達と笑って走って、楽しそうだ。

 今日が最後かもしれない。

 廉とは言わず全ての子供たちと時間を過ごすのは。

 そう思ったら胸がつまる。 元気でいてね、とか口走りそうになる。 口元を歪めてうつむいてしまう。

「先生、まだ本調子じゃないんじゃありませんか?良かったら夕飯うちでどうですか?なにか消化によいもの作らせますよ」

「……ご親切にありがとございます。でも今日は緊急の職員会議があって……」

「……あの女、何かしてきたんですか?」

「……え?」

 声の温度が数度下がったような気がした。 少なくともさっき瑛太の体を気遣ってくれた裕之とは別人のような凍りつくような、声。

「裕之くん、あなたなにか知っているの?」

「知っていると言うほどのことではありませんが……先週末、先生が道を歩いているところを偶然お見かけして、具合を悪くされて介抱しました。直前に女性と話していたのでそのかたがなにか先生が困ることをしたんじゃないかと」

「……」

「裕之くんも一緒に来て。大塚さん、よろしいかしら?」

 裕之が大塚に頷くと「廉さん、私と一緒に帰りましょう」と小さな手を引いて帰っていった。

「都先生……」

「大丈夫よ、瑛太先生」

 都は瑛太の肩を叩き、裕之にはスリッパを勧めた。ぼんやりした頭で瑛太は「ああ、やっぱりそれ履くんだ」と思っていた。



「二年ほど前です。僕が以前に勤めていた保育園で乳児が殺される事件がありました」

 震える声を無理矢理におさえ、瑛太は語りだした 。

 教室の中央に椅子を集め、瑛太とその他の職員が対面する形で座る。 裕之は一番後ろに腰かけ、まっすぐこちらを見ている。

 自分ではもう忘れたい、でも本当はまだかさぶたも乾かないままのむき出しの傷。 そこから血が溢れても、ここでちゃんと説明しなければならないのだ。

「被害者は佐野翔馬ちゃん、当時六ヶ月。病児保育も行っていた園でした。翔馬ちゃんはその日熱があって、お父さんも休みがとれないということで病児用の部屋で保育していました。担当は、僕でした」


 あの日はまだ残暑が厳しい夏の終わり。 翔馬の家は両親が離婚して父親が息子を引き取って育てていた父子家庭だった。

 父親の佐野公平は朝は早くから夜は遅くまで働いて、それでも息子を立派に育てていた。

 女性の保育士には聞きづらいことも瑛太には気軽に質問してきて、瑛太の方も気さくで一生懸命な佐野に好感を持っていた。


 おでこに冷えるシートを貼り、眠る翔馬を見ていた瑛太に内線電話が来た。 外線が入っているという。 出てみると切れていた。 しばらくするともう一度。 やはりすでに電話は切られている。

 職員室に問い合わせると間違いなく『斎藤瑛太先生を』と指名してきているという。 二回とも。

 瑛太は子機の調子が悪いのかと思い、誰か病児室をみていてくれないか、と頼んだ。 緊急だったら申し訳ない。二度かかってきているのならもう一度あるかもしれない。職員室で待っていようと思ったのだ。

 代わりに来てくれた保育士が「なんか気持ち悪いですよねー?」と声をかける。

「え?」

「すぐ切れちゃうなんて、ちょっとおかしいですよー。先生ストーカー被害にあってませんかー?」

「……」

 実は心当たりがあった。一ヵ月程前から郵便物が荒らされていたり自宅の方に無言電話があった。 夜道をつけられているような錯覚やアパートの窓に人影が行き来しているのも気のせいではなかったかもしれない。

 今日までは勘違いだと思っていたが、園にまで迷惑をかけるようなら被害届を出さなくてはならないだろうか。


「それにねー、先生……」

「あ、翔馬くん心配だから行ってあげてください。僕も職員室にいかなくちゃ」

 立ち話はほんの数分。 代わりに病児室に入った女性保育士が悲鳴をあげたのはその一分後。

「その部屋が外と繋がっていたのはお情けぐらいの庭に面した窓だけでした。マンションの二世帯を繋げてリフォームした造りでしたので。掃き出しの窓が一ヶ所、施錠はされていませんでした。詳しい鑑識結果が出るまでは外から侵入した可能性も低かった。代わりに入った保育士ではそんな短時間で犯行には及べない。つまり……」

 全員の視線が痛いほど注がれて、思わずうつむく。 それでも、言わなくてはいけない。

「僕が重要参考人として取り調べを受けました」

「……」

 教室は水を打ったように静まり返った。 誰かが椅子を引いた音が耳障りなほど大きく聞こえる。 昼間はそれどころではない騒音に埋め尽くされているというのに。

「僕は……やっていません。警察でもそう言いました。それでも、一週間ぐらい任意での取り調べがあって……その後、新たに容疑者が浮かんだと刑事さんに教えられました」

 保育園に入ってるマンションはオートロックも防犯カメラもついていない物件だったが、事件の前後に不審な男の姿を何台もの外部のカメラが捉えていた。 どこから来たのかまではわからなかったが、コンビニやガソリンスタンドを経由して、すぐに来た方へ戻っていく姿がとらえられていた。

 そして、微量の土と足跡が室内から検出されたのだ。

 一気に増えた証拠に警察は瑛太の取り調べを中止した。 ところが瑛太に降りかかる災難はそれだけではなかった。

「翔馬くんのお父さんがシングルだったということで、週刊紙に面白おかしく取りあげられてしまって……」

「……それ、知ってるかも」

 絢音が言う。そうだ、テレビでも一時報じられていたから覚えている人も多いだろう。

 父親に恋したゲイの男が子供が邪魔で殺害した、と言う根も葉もないゴシップだ。

 どこの社も明確にそうだ、と報じたわけではない。

 どこから聞いてきたのか、瑛太がどうもゲイなのではないかということ、数いる保護者の中で瑛太が一番親しくしていたのが彼だったということがスクープとして書かれていた。

 瑛太が友人や同僚に話していた会話の一つひとつを拾い集め、こねて丸めてもっともらしい記事が紙面を飾った。 実行犯は別人でも計画したのは重要参考人の男かもしれないと書いた週刊紙もあった。 断片を繋ぎ合わせるとそういう解釈もできる、位の内容だったし、写真には全て加工がしてあった。

 しかし瑛太から職や居場所を失わせるには十分だった。

 記事の発端になったのは瑛太の回りにいた人たちの口から出た言葉だったことには間違いがない。 恐らく悪意などなかっただろう。

 それでも、それまでは当たり前のように信じられたものが今日はもう違う。 瑛太はほんの数日で恐怖に似た失望の中に叩き込まれてしまったのだ。


「僕は何度も違うと言いました。翔馬くんのお父さんは素晴らしい人だったけどそんなことは望んでいなくて……。でも、信じてはもらえなかった」

 結局、瑛太は前の園を依願退職することになり、そのまま二年どこにも行けずに閉じ籠ってしまったのだ。

「……実家は代々続く酒蔵で、忙しい時期にマスコミが大勢押し掛けました。両親や兄夫婦に酷い迷惑をかけて、僕は……」

 昔から瑛太を知る都が手をさしのべてくれなかったら、もう、全てを諦めていたかもしれない。 自分の殻に閉じ籠る瑛太を時間をかけて説得してもう一度子供たちの前にたたせてくれた。チャンスをくれたのだ。

「真犯人が他にいても、僕が犯人だとしても同じだ……翔馬くんはもう戻って来ないんだから。僕は保育士としての責任を果たせなかった。それなら僕は……捕まって罪を償えばよかったと本気で思いました」

「……」

 一同が息を飲む。 自分達も幼い子供たちを保育している身だ。 瑛太の気持ちが痛いほどわかるのだろう。

「犯人はまだ捕まっていません。だから僕のことをずっと怪しい、許せないと思ってきた人がしたのかもしれません。皆さんにもご迷惑や怖い思いをさせてしまって本当に申し訳ありませんでした」

 誰も何も言わない。 言えない。 一様に不安を抱えている。 瑛太を信じると言い切れないでいる。

 目の前にいるのが抵抗もできない乳児を殺害した犯人かもしれない。 そして捜査の目を掻い潜り、のうのうと一般人に混じって生活をしている卑劣な男なのかも知れない。

 誰も本当のことは知らない。 誰の言葉を信じればいいのかもわからない。 次第にその場にいた教員たちの顔がうつ向いて固まってしまう。

 予想通りの反応に瑛太は全身の力を抜いた。

 仕方ない。こればっかりはどんなに必死に訴えたってだめだ。

 人が人を信じるのは難しい。 優しくて穏やかだから人を信じられるのではない。 信じるというのは強い心で『そう』と決めることだ。自分がそう決めたのだから、その後起こる全てのことは自分の責任だ。

 騙されても泣かされても、自分の意思でこの人を信じると決めたのだから受け止めなければならない。 逆に、そのくらいの強い心がなければ容易に人を信じるものではない。

 その事を、瑛太も事件に巻き込まれて知った。 同じところに勤めているから、近所で顔見知りだから。そんな簡単な気持ちで他人を信じられる、そう思っていた。

 でも違う。 もっと、自分がしっかりと相手を見極め話をするべきだったんだ。 軽い会話だと思っていたことの全てに足元を掬われて、大事なものを壊してしまうなんて思いもしなかった。

 事件のことは仕方がない。 状況を考えれば自分に疑いがかかっても当然だと思う。 しかしそのあとに降りかかってきたゴシップは違う。 間違いなく身から出た錆だ。 防げば防げたはずだ。


「……」

 都の誘いを受けるとき、ひとつだけ条件を出した。 給与でも休暇でもなく、もし事件の事が周囲に知れたらその時は辞めさせてほしい、というものだった。

 万が一、保護者にでも知れたら園の評判にも傷がつく。 恩を仇で返すような真似が出来るわけはない。


「都先生、僕は……」

「私は信じます」

「え?」

 全員が弾かれたように顔をあげた。 そして声の出所を探る。

 瑛太には見えていた。 その人の口が動くのも、声を発するとき少し頭が斜めにかしげられたのも。

「保護者の一人として、私は彼を信じます。斎藤先生の過去に何があっても、私の子供はこの幼稚園に預けたい」

 都が立ち上がり、瑛太の横に立つ。 瑛太の体に腕を回し優しくさすった。

「稲葉さんならそういってくださると思ったわ。私も信じてるの。瑛太先生がそんなことに関わるわけはない。疑われることだっておかしいのに、それでもちゃんと捜査に協力していたわ。真面目で仕事に一生懸命な青年の将来を奪いたくなかったの。彼を信じてちょうだいって言って簡単にそう出来るものじゃないことはわかってる。全部の責任は私がとるから、私を信じて。お願いします」

 都が他の教員の方へ頭を深く下げる。 瑛太はそれをぼんやりと見つめていた。




重い回が続きますね……早く園児出てきてー。

また明日、この時間にお邪魔します。


うえの

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