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食事は住み込みの他に都合の合う通いの組員も一緒に摂るのだという。 今日は総勢十八人分。 それを当番制で準備するのはさぞ大変なことだろう。 まさに合宿だ。
五時半を回って、買い物に出ていた若い男二人が帰ってきた。 柴崎と当番を代わった食事係なのだろう。
廉と柴崎たちと一緒におりがみで遊んでいると、いい匂いが漂ってきた。
「……カレー」
物凄く不思議だった。 いいものを食わせろ、と思った訳ではない。
暴力団などという人たちは毎晩寿司や焼き肉やアルコールを大量摂取しているエンゲル係数の高い人種なのだと思っていた。 恐らく世間一般のひとの考えはほぼ同じではないだろうか。
それなのにカレー。 組長もこのテーブルにつくのだというから、一緒にカレーを食べるのだろう。
組長とカレー。
「いつもこんな風に同じ食事を皆さんでされるんですか?」
隣にいた柴崎に聞く。 彼はなかなか器用で、トントロはすでにマスター。 今は脚の生えた鶴(ちょっと怖いので幼稚園では披露していない)を笑いながら折っている。
「俺たち下っぱは、給料とかもらってないんすよ。だけど、ここだってただで住み込みさせてもらってますし、外で飯食うときも兄貴や若……っと、社長が出してくれます。会長は俺たちは親子や兄弟の契りを交わした家族だから自分たちが払うのは当然だっておっしゃいます。だから、一緒に飯を食うんだって」
「そうなんですね……」
「俺たち、本当に会長や社長を尊敬してるんっす」
キッチンでは強面の男たちが皿をやレードルを持ってうろうろしている。 あれほどエプロンの似合わないルックスもないだろう。 しかも、白いフリルのついたエプロン。 誰がチョイスするんだろう。 これも何かの修行なのだろうか。 今日瑛太が担ぎ込まれていなければ、柴崎があのエプロンを。 金髪逆立ちヘアに、フリル……考えるのはやめておこうと自分を戒めた瑛太だった。
中庭を望むスペースでは、裕之と恐らく子分だろう男が真剣な顔で話している。 カッコンと音のする鹿威しはなかったが、立派な庭木が点在した見事な庭だった。
大家族だ、と瑛太は思う。 理由はそれぞれだろうけれど別の場所で生まれた男たちがここに集まり、疑似家族の関係を築き強力な絆で結ばれている。
人間関係が希薄な現代において、もしかすると羨ましいくらいかもしれない。
食事の用意ができると、側近を従えて稲葉組長がダイニングにやってきた。 瑛太は緊張を隠しながら挨拶する。
彼は驚くほど小柄な男だった。 大中小の小よりさらに小さい。 隣に立つ男がいかにも極道な風体なので余計にそう見える。
丸い顔、短い手足、短く刈られた髪、小さくて尖り気味の耳、下がった眉。 どうみてもあれらの屈強な男たちを束ねているとは思えない。 それでも、その小さな瞳は瑛太を最初に見たときだけはギラリと光った。
「マスターヨー」
「それ言っちゃ駄目」
なんだ柴崎もそう思っているのではないか。 まあいいけど。
「廉がいつもお世話になっているそうで、どうもありがとう。どうですか、廉は元気にやっていますか?」
「はい、とっても頑張りやさんでいろんなことにチャレンジしています。ね?」
恥ずかしいのか祖母の後ろに隠れてしまった廉に声をかけるとちらっと顔をだしうなずいた。
「そうですか。まあ、なんにもありませんがゆっくりしていってください」
「ありがとうございます」
最初の鋭さを通りすぎれば、会長も穏やかで人当たりのよい人物に瑛太には感じられた。 それだって部外者に対するよそ行きの態度なのだとはわかっている。
瑛太がこの大家族の中に入ることは決してない。 でも、この人たちがヤクザでなかったらもっと深く知り合って、仲良くしたり喧嘩をしたり出来たかも知れない。 それが少し寂しいのだ。
もちろん、そんなもしもなどあるわけはないので彼らは筋金入りのヤクザだ。 喧嘩なんてしたくもない、絶対。
カレーはとても美味しかった。 さっき戻してカレーはどうかと思ったが、意外と重たくなくあっさりとしていてたいらげてしまった。 添えられたサラダも、彩りが美しくドレッシングも手作りだと聞いて驚いた。
素直な感想を告げると、厳つい(フリルエプロン)食事当番ははにかんで「よかったっす」と言った。 怖い。
疑っていたわけではないが、本当に稲葉組長も裕之も同じカレーを食べた。 組長の隣の側近の男が持つと、同じスプーンは小さく見える。
ふと気を抜くと、どうして自分がここにいるのかわからなくなる。 テーブルの反対側に廉を見つけて、思い出す始末だ。
食後はコーヒーをご馳走になり、以外と気さくな面々と話をした。 大中小の小は田嶋。 仕事は主に不動産部門の担当をしている。 妻と娘がいるという。
中は井上。 ここから少し離れたマンションに妻と二人で暮らしている。 クラブやバーの責任者をしているのだ。
柴崎はこの組に来てまだ二年余り。 それでも、幹部の子息のガードに当たれるというのは出世街道なのだという。
裕之はそれらの会社を仕切り、なおかつデイトレードなどで儲けを出しているのだという。
「社長はすごいんすよ。今は俺らみたいなのには社会も冷たくって、稼げるところが少なくなってるんすけど、頭使ってめっちゃ稼いでて。商売の手腕もすげえってみんな言ってます」
「へえ。すごい上司がいて柴崎さんも勉強になりますね」
「俺なんか足元にも及ばないっす!」
「当たり前だよ」
「調子のってんじゃないよ」
両脇から田嶋と井上にどつかれた柴田はそれでもヘラりと笑っている。 天性のいじられキャラのようだ。
そのまま、三人の漫談が始まったので瑛太はふと、裕之の方をみた。 すると彼も自分の方を見ていたようで視線がかち合った。 ちょっと失礼、と席を立ち裕之のそばに行く。
声の近さは緊張の度合いと比例している。 やはりドキドキする。 うつむいてその腕が視界に入れば、さっき抱き上げられたんだ、と更に鼓動が早くなる。
ソファの、裕之の隣を勧められ、浅く腰かける。
「さっきは、本当に申し訳ありませんでした。重かったでしょう」
「いいえ、ちっとも」
……それもちょっと、同じ男としては喜べない。身長だってそこそこあるのに、ひょいひょい運ばれては……。
瑛太の複雑な気持ちを知ってか知らずか、少しひそめた眉で裕之は聞く。
「それより本当に具合はもういいんですか?」
「はい。さっきもカレー、おかわりしちゃおうかと思いました」
「ははっ。飯が食えれば大丈夫ですね」
笑った。
これまでも廉をを見る慈愛のこもった笑みや自分に向けた社交の笑みは見た。 それも、落ち着いていてかっこいいと思った。 でも、相好を崩して肩を揺らすようなこの人を見たことはない。 その感情を引き出したのが自分だと思うと意味もなく嬉しい。
ひとしきり笑って小さく息をつくと、裕之は部屋を見回した。
「先生は、私の話を園長から聞きましたか?」
「話、って」
「生い立ちとか」
「……ごめんなさい、少し」
園長からではないですけど、なんて言ったら気を悪くするだろうか。 自分の噂が一介の職員の間にまで広まっているなんて。
ふっと笑う気配がする。怒ってはいないようだ。
「十一の時でした。両親が一度に事故で亡くなって、遠縁の親戚だといって迎えに来てくれた稲葉の親父に引き取られました」
裕之はその時稲葉の家に来るか施設に行くかと問われた。 いずれにしろ知らない人のところだ。 どこかに行かなければ食事も出来ないのならこの、優しそうな親戚についていこう。 裕之はそう思った。 大きくて頼れそうな大人。 自分が失ってしまった家族に似たものをこの男がくれるのだろうか。
「二年後には身長越しちゃいましたけどね」
「ふ」
笑ってはいけないとは思ったが口の端から空気が漏れる。 今だってこの身長だ、成長期には爆発的に育ったことは容易に想像できる。
噂の会長は他の組員と野球を見ている。 ひいきのチームが勝っているのか、隣の男をバシバシ叩いてご満悦のようだ。 声が届いていないことを切に祈る。
「初めてこの町に来たとき、訪れたのはこの家ではなくひまわり幼稚園だったんです」
後に妻となる廉の母、みのりはその頃ひまわり幼稚園に通っていた。 稲葉は娘を迎えに園に寄ったのだ。
みのりは滅多にない父親のお迎えに喜び、転がるように近寄ってきた。 彼の回りをぐるぐる回り、甘えていた。
そして裕之に気づくと言ったのだ。「どうしたの?」と。
裕之は泣いていた。 不思議と呼吸も乱れない。 ただただ涙腺が開いてそこから水が流れている。 悲しくも悔しくもなく、でも寂しかった。
自分はもう二度と父親の腰にまとわりつくことはない。 母親に部屋を片付けなさいと小言を言われることもない。 そういったことの全てが、なくしてから気づいても遅いが余りに幸せだったと、みのりを見ていて理解する。
いくつもの胸がよじれそうになるほどの幸せの上を無神経に歩いていた。 それがこんなに切なさを引きずる思い出になるとも知らないで。
涙は呆然と立ち尽くす裕之の目からいくらでもこぼれた。 からだの一部の機能が壊れてしまったようだった。
それを拭うことも泣き止むこともできずに裕之は途方にくれた。
「はい、どうぞ」
目の前に差しだされるふわふわとしたピンク。 それを小さな手がこちらに向かって寄越してくる。
「つかっていいよ。みのりのいちばんすきなハンカチ。おにいちゃんならかしてあげる」
「……」
ハンカチを見つめ、みのりを見た。 腕を力強くぴんとのばし真剣な顔をしている。 そして稲葉を見た。彼は小さく頷いた。 もう一度みのりを見てハンカチを受け取った。
みのりはこれで仕事は終わったとばかりに父親の影に隠れこちらをうかがっている。
裕之はそのハンカチで顔をふいた。 甘い柔らかい感触が頬を包む。 涙を吸いとって冷たくなる。
その時急激に感情が遅れてやってきた。 喉を焼く熱い塊に膝も折れそうになった。 温かな香りに顔を埋めて泣いた。声をあげて泣いた。
寂しい、悲しい、悔しいと心をひっくり返してどす黒い感情を全部絞り出した。
稲葉もみのりも一人で泣かせてくれた。
きっともう、その時には理解していた。 この悲しみは誰にも分けられるものではないということを。 自分だけの中にあり自分でしか支えられない。 だから誰に慰められても決して心は軽くならない、消えるわけもない。
それがわかるから、稲葉もみのりもなんの言葉もかけなかったのだろう。
あの日小さな園庭で涙が渇れるまで泣けたことが今の裕之を支えているといっても過言ではない。
「私も会長に助けてもらってここにいます。ここにいるやつらだってみんな一人では生きていけないことを、知っている。差し出がましいようですが、先生もキツいことがあったときには誰かを頼った方がいい。私でよければいつでも話を聞きます」
「ありがとうございます……」
きっとこの聡明な男は、瑛太がただの体の不調ではないとわかっていたのだろう。 もしかしたらいつか見たニュースを覚えていて瑛太のことを知っていたのかもしれない。
自分の過去をさらして、力を貸そうとしてくれる。
こんなに優しくて情が深い人が実はおっかない職業の人だなんて、人に話しても信じてもらえないかもしれない。
「……大丈夫です。自分が弱いだけなんです。もっとしっかりしなくちゃいけないのに」
心とも体ともとれる言い方で、瑛太はその場を流そうとした。 裕之は何とも感情の読めない顔で瑛太を見ていたが、ちょうどやって来た大塚に呼ばれ、立ち上がった。
「社長、お疲れさまです。いろいろわかったことがあります」
「……聞こう」
ごゆっくり、と瑛太に言いおき二人は奥の部屋に入っていった。
「まーた大塚さんだよ」
二人が去っていった方を見ながら呆けていた瑛太の肩のすぐ脇から柴崎がにゅうっと顔を出すのでびくうっとする。 ソファの背もたれに両ひじをかけ身を乗り出していた。 その両隣に田嶋と井上もいる。
「うわ、柴崎さん、な、なに?」
「えー、あの二人怪しいんすよ」
何を言い出すと、瑛太は室内をキョロキョロ見回す。 廉は相変わらずダイニングテーブルで澄子と他の組員と折り紙で遊んでいる。
ホーっと胸を撫で下ろすと瑛太は声を潜めて柴崎を詰った。
「幼稚園でもそういうこという人いますけど、いいじゃないですか個人の自由で。ましてや……お二人は仕事上でも素晴らしいパートナーなんでしょう?」
「あれ、先生はそういうの気持ち悪くない人?」
柴崎は嘲るような笑いを浮かべそう言った。 彼は良くは思っていないようだ。
瑛太はもちろん自身がそうなので嫌悪など抱かない。
自らの性癖について回りの人に打ち明けるか否かは人それぞれだが、こういう反応を見せる人が少なからずいるので瑛太はクローズにしている。 自分のためというよりは相手のためだ。
この年齢なので合コンだの見合いだのと誘われるが「学生の頃からの恋人が……」といってしまえば引いてくれる。 嘘をつくのは心苦しいが相手に不快感を与えず断るにはこれが一番いい。
「僕は特になんとも思わないですよ。あのお二人なら見た目お似合いですし」
「俺だってそういうのは文句はないんですけどぉ……」
「ん?」
「柴崎は社長と親しすぎる大塚さんが気に入らないんですよ、先生」
ニヤニヤとして田嶋が言う。
聞けば彼は柴崎より後に稲葉組にやって来た。 大塚は会長の側近の知り合いで、最初から格の差を見せつけられている、と柴崎本人は思っているらしい。
「まあ、いったら小学生と大学生ぐらいなもんだからいいんすけど。俺は高校だってまともに出てないバカだし、向こうはいい大学出てるらしいし。仕方ないんすけど……。色仕掛けでのし上がったのかと思うと、ちょっと、面白くないっつーか……」
「お前の色仕掛けじゃなくて本当によかったぜ。社長に蜂の巣にされちまったかもしれないぜ」
ぎゃはは、と田嶋が笑う。 瑛太も一緒に笑ったが、頭に浮かんだ裕之にしなだれかかる柴崎を打ち消すのに少し苦労した。
「でもさっき、その若さで社長のお子さんに付いてるって出世コースだって聞きましたよ?」
「そうなんですけどー……」
ふてくされた柴崎の横で井上も渋い顔をしている。 彼もそう思っているのだろうか。
「井上は井上で、大塚さんが怪しいと思ってんだよな?」
田嶋が苦笑いをする。
「怪しい?」
1.5倍険しい顔で井上が呟く。
「まあ、すこし。だっておかしいですよ。入って一年足らずで若頭付きって。いくら実力があったって、いくら体が良くったって……何かあるんじゃないかって心配してるんです」
「何かって……」
「塙から差し向けられた、とか」
フォースと共にあらんことを。
明日もこの時間にお会いできますように!
うえの