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あした、秘密の回廊で  作者: うえのきくの
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2

 


 とても驚いた。 通勤初日の昨日は本当にいろんなことがあった。

 あり得ない設定のままごとにミカンが食べられない子供。

 そして出てきたリーサルウエポン。

 瑛太は、繁華街や風俗店などとは無縁の清らかな生活を送ってきたのでそういった職業の人たちにお会いしたことはない。 いや、相手がそうと言わないだけで出会っているのかもしれないが。

「それにしても」

 クククと笑いたくなってしまう。 昨日の三人組は外側だけは昭和のやくざ映画に出てくるような出で立ちだったが、口を開けばまるでコントを見ているようだった。 園長もいづみもポカンとしていたから、いつもはああじゃないのかも知れない。

 きょうもあの人たちに会えるかと思うとお迎えの時間が楽しみになっている瑛太だった。


 本日の業務も無事終了。

 瑛太が以前勤めていたのはビジネス街にある無認可乳児園だった。

 概ね2歳までの乳幼児が預けられていてその後は別の保育園に移っていく。 乳幼児の受け入れはどこも枠が少なく、出産後早々に仕事復帰の必要のある母親たちは少々保育料が高くても仕方なし、瑛太が勤めていたような園に預けて働きに出るのだ。

 よって、当時の給料はとてもよかった。 しかし、走り回る子供達を相手にできる今の方が性に合っている。まだ二日くらいでそんなこと言っていたのを後悔する よ、と先輩職員には笑われたが。


 教室の掃除も終わり職員室に戻るとやはり延長教室には廉が残っていた。 今日は早々と一人になってしまったらしい。いづみと何か遊んでいるようだ。

「お疲れさまです」

「お疲れさま。疲れついでにお願いしてもいい?」

 園長が微笑む。どうぞ、と瑛太が答えれば、さらに笑顔が深くなった。

「実は廉くんがさっきから『えいたせんせいは?』って聞くのよ。今掃除中、って待っててもらってるのよ?」

「廉くんが?」

「あなたのこと気に入っちゃったみたいね。ついでに用事があるからいづみに戻るように言ってほしいの。その間、廉くんのことお願いできるかしら?」

 瑛太はほわんと心が暖かくなる心地だった。 子供に慕われるという、以前では得られなかった充実感。

 新生児や歩き出すか出さないかという子供ももちろんかわいい。 仕事である以上は細心の注意を払って従事していた。 今だってそれは変わらない。

 でも、その子供たちに好かれるなんて、そしてそれをちゃんと言葉にして伝えてくれるなんて。 本当に教諭冥利に尽きる。


「いづみ先生。都先生がお呼びです」

「ああ、瑛太先生。お疲れさまです。ここ少しいいですか?」

「はいどうぞ、いってらっしゃい。廉くん、いづみ先生戻ってくるまで、僕と遊ぼうか?」

「はいっ!」

 廉の笑顔が弾ける。やっぱり瑛太はなんだか嬉しくなってしまうのだった。


 プレイマットの上には作りかけのピースの大きなパズルがあり、もう少しで完成しそうだった。 二人で協力してそれを作り上げると、瑛太は聞いた。

「次は何しようか。お絵描き? 折り紙? トランプは二人だとできること決まってきちゃうよね……」

「えいたせんせい。ぼくはじぶんでしゃつがきられるようになりたいです。いつもあやねせんせいにやってもらうから、ひとりでしたいです」

「……そっか」

 もしかするとこの小さな男の子は周りの大人にとても気づかっているのではなかろうか。

 家では忙しい父親に。 母親とは死別していると家庭調査書には記述があった。 母の代わりに身の回りのことをしてくれている大人に。

 大人からすれば根気よく教えるより、自らやってしまった方が早い。 ミカンも靴もボタンも、そうしていつか当たり前にできると思ったらそんなことはない。

 瑛太は自分が大人になってみてちょうちょ結びや箸を持つことができない大人のいかに多いかを知った。 何度もなんども教えてもらうことはいつかその人の財産になる。


「じゃあ、一緒にやってみようか。僕のするの見ててね?」

 瑛太は自分のつけていたエプロンを外し、シャツを脱いだ。 そして袖を通すところからしてみせる。

「右手と左手はどっちからでもいいよ。ほら、袖口から手が出たね。そうしたら前を合わせるよ。一番下のボタンとボタンの穴を合わせてくぐらせて。はい、ひとつ止まった」

 廉は穴が開くほど瑛太の手元を見ている。小さな頭に焼き付けようと必死だ。

「じゃあ、ここまで廉くんもやってごらん」

 こっくんとうなずくと、小さな指は自分のシャツのボタンを探った。 外すのは割と容易に出来るようだ、袖口がゴムだったのにも助けられた。

 袖を抜いてしまうと中に着たTシャツにはコンピューターししゅうで名前が書いてあった。 こんなことお母さんのいないおうちではきっと難しい。業者に頼んだのだろうか。 うっすら寂しさを感じてしまう。

 新学期のお名前付けはおうちの人の悩みのひとつだ。 たくさんある小物類にみんな記名しなければならない。 難なくやっつけてしまう人や楽しんでしている人もいるが、特に瑛太が以前勤めていたのはハードな仕事を持ったお母さんが多い園だった。 記名のお願いをすると露骨に嫌な顔をされたことも一度や二度ではない。

(それにしても業者に丸投げか)

 愉快な仲間たちもそこまではしてくれなかったんだな。それは仕方ないことだ。

 袖を通し前を合わせた廉は、鼻息も荒く次の指示を待っていた。

「そうしたら一番下のボタンを反対の身頃の穴に合わせて下からくぐらせるよ。そうそう、いいぞ」

 ふくふくとした指がボタンをつまみ、ボタンホールに通そうとする。一度、二度、つるりとボタンは穴をかすめ廉の指から逃げた。 そして三回目にやっとシャツの上に顔を出すことができた。

「……できた」

「やったな、廉くん!じゃあ、ここからはどっちが早くとめられるか勝負だ!」

「はい、まけません!」

 ヨーイドン、で二人は自分のボタンを見下ろした。 コツがわかったのか、廉は先程より時間がかからずとめていく。 でも結果はもちろん瑛太の勝ちだ。 廉があとひとつを残すところで先に勝利を宣言する。

 廉は悔しそうな顔をしていたが「このつぎは、まけません!」と約束した。

「僕だって負けないぞ。これから毎日練習してね。また勝負しよう」

「はい!」

 どちらかともなく笑いあう。 廉にはこれから山のようなチャレンジが待っている。 自転車、九九、さかあがり。 きっと一つづつ乗り越えていくだろう。 そういう基礎を一緒に作っていけたらいい。


「廉」

 深い、心か体かどこかわからないところを揺さぶるような声だった。 ここには男性職員は自分しかいない。 用務員さんはバスで帰宅する子供が帰ってしまうとよほどの用事がない限り帰ってしまう。

「おとうさん!」

 廉が振り返り立ち上がる。 そして弾ける勢いでドアの方に駆け出した。

「ただいま、廉」

「おかえりなさい、おとうさん!きょうはおやすみですか?!」

「いや、休みじゃなかったが時間が空いたから今日は迎えに来れたよ」

 教室のドアの外に園長と初めて見る男性が立っていた。 背は高く肩の幅も厚みもあり、スーツの似合う男。 黒い髪をきっちりとセットして匂いたつような色香を持つ男の足元が園の名前の入ったスリッパだ。いささか滑稽に見える。

 彼が今の声の主、廉の父親なのであろう。

 瑛太は父親の腰にしがみついた廉をほほえましく見つめた。 普段大人しく友達と遊ぶこともあまりない廉。昨日は父親の会社の人に神妙な顔でミカンの皮についての報告をしていた。

 それなのにお父さんが迎えに来てくれたといってあんなにはしゃぐなんて。

「廉、あちらが新しい先生か。お父さんに紹介してくれるか?」

「はい!えいたせんせいです。おりがみがとってもじょうずです。こんどおしえてもらいます」

「廉の父で稲葉裕之と申します。よろしくおねがいします」

 裕之が頭を下げる。 瑛太も慌てて駆け寄り自己紹介をした。

「斎藤瑛太です。昨日からこちらでお世話になっております。至らないところも多いかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」

 頭を下げると瑛太の前に大きな手が差し出された。 わからずに出した相手の顔を見る。 すると裕之は涼しい顔で笑いもう少し高く手を差し出してくる。

 これは、握手か? 恐る恐る瑛太はその場所に手を出しそうっとその中に自分の手を滑り込ませた。 二年前までは外遊びの時間もあまりない環境で仕事だったし、そのあとは引きこもりのような生活をしていた、日に焼けていない細いだけの手指。 それに引き換え彼の手は大きく力強い。 情けなくなって手を引こうとすると、握る力が一瞬強くなった。

(え?)

 さっと顔をあげても裕之の表情に変わりはない。 そして手は去っていった。

 なんだったんだろうと考える暇もなく、廉が父親に向かって話しかけた。

「おとうさん。ぼくいま、じぶんでしゃつをきられました」

「ああ、見てたよ。一生懸命だったから終わるまでと思って声をかけなかったんだ」

「あしたから、じぶんでできます」

「そうか。どうしてもできないときだけ誰か呼べばいい」

「はい!」

 帰ろう、と裕之が廉を促し、廉は鞄や上着を自分のロッカーから持ってくる。 上着をシャツと同じように羽織りはするが慌てているからかボタンは段違いになっている。 それでも構わずショルダーバッグをかけ、再び父親の足元に戻ってくる。

 裕之はそれを優しい顔で見守って廉を促し玄関ホールへと向かっていく。 園長もあとについていったので瑛太も従った。

 目の前で繋がれて揺れる大きい手と小さな手。 さっきあの手を自分も握った、と思うとなぜか鼓動が早くなる。 なんだろうこれは?と首をかしげながら玄関ホールに入ると、入り口付近にもう一人男が立っていた。

 黒い。

 男は上下黒のスーツを着てネクタイはかろうじて少し光沢のある深いグレー。 軽くウエーブがかった髪は艶のある漆黒。 肩の辺りまで伸ばされて片方は耳にかかっている。 瞳も濡れたような黒だった。

 美しい男だと思った。 それなのに怖かった。

 身長は瑛太とそうは変わらないだろうが彼のかもしだす雰囲気はこちらが威圧されるほど恐ろしくすらあった。

「大塚さんも中でお待ちになればよかったのに」

「いいえ、ここで十分です」

「斎藤先生、こちらは私の秘書の大塚です。これから顔を合わせることもあるかと思いますがよろしくお願いします」

「こちらこそ!」

 勢いよく頭を下げると、大塚も深く腰を折っていた。

「どうぞよろしくお願いします」

 そう言って静かに微笑んだ大塚はまるで人形のようだった。


 大塚は靴を持ってきた廉の前にしゃがみ履くのを手伝おうとした。 とっさに廉は足を引っ込め、

「おおつかさん。ぼく、はけるようになったの。おとうさんもみていてください?」

 と言った。 大塚は裕之の顔を見上げ、彼が頷くと立ち上がり廉の行動を見守った。

 廉はなれない手つきではあったがスニーカーをはき立ち上がった。

「ほら!」

「ああ、上手だ。……ん、なにかついているぞ?」

 裕之は廉の靴の内側についているものを剥がそうと、足元にしゃがみこんだ。

「ああ、それは……」

「ダメッ!」

 瑛太と廉。声が上がったのは同時だった。

「ん?シール……」

 黄色いくまがポーズをとったシールを手に困惑したような裕之に、瑛太は慌てて説明をする。

「勝手に貼ってすみません。実は今日、何度か靴を履く練習をしたんですが、どうしても右と左を間違えてしまって。内側にシールを貼って、くまさん同士がこんにちはするようにって練習したので……」

「なるほど」

 父親の手からシールを奪いまた自分の靴に貼り直した廉は満面の笑みで言う。

「あしたもひとりでできます!」

 小さな胸は心なしか反っている。 かなり喜んでいるようだ。

 裕之は微笑み廉の頭に手を置くと「わかった」と返事をして帰っていった。

 最後に振り返り、こちらに向かって「ありがとうございました」と声をかけられたときには、あまりにしびれる低音に少し腰が砕けそうになった瑛太だった。




今日も読んでくださいましてありがとうございました。

明日もまたお目にかかれますように!

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