19
園庭はすっかり日が暮れていた。
刑事に両腕を支えられ、瑛太はやっとの思いで立ち上がった。 縛られていた時間は短かったが、身体中に力が入って固まったままうまく動けなかったのだ。
廉は救急隊員に抱えられて運ばれていった。 健気にも瑛太に向かってにっこりと微笑んでみせる。 きっと怖かったはずなのにと思えば、涙が出そうになる。
規制線が張られた向こうからは爽と航希がブンブンと手を振っていた。 まだうすらぼんやりしているが、それでもわかった勇ましいポーズに吹き出してしまう。
彼らも瑛太のヒーローだ。
でも、危険なことをしたのには違いないからほんの少しお灸を据えなくては。
……それはあとで、都に任せよう。
「あの、トイレ行ってもいいですか……なんか安心したら……」
瑛太が生理現象を訴えると、両脇の刑事は苦笑いをして許可してくれた。 さっきまでなにも感じなかったのに、ホッとしたとたんこの調子だ。 瑛太も自分の正直な体に照れ笑いを浮かべた。
職員用のトイレに行くまでの間に馬場に会った。 たぶん馬場だ。 実はあまりまだよく目が見えない。
「瑛太! 良かったよ、無事で……どこも怪我してないか?」
やっぱり馬場だ。 声と上背の位置で何となくわかる。
「ちょっと背中痛い。後で病院につれてってもらうけど、たぶんそんなひどくないと思う。でも今、ちょっと、トイレ……」
「ああ、悪りぃ。ゆっくりしてきてくれ。あとでまた……」
「あ、そうだ。彰!これ……」
瑛太は自分の携帯を差し出した。
「なんだ?」
「なかに入ってるボイスレコーダーのアプリ。今さっき佐野さんから聞いたことがそのまま入ってる。僕のストーキングと西原菜奈美さんを殺したのは佐野さんだけど、子供たちを狙ったのは違うって。調べてみて?」
「え? そうなのか。……ありがとう。参考にする」
「じゃっ、じゃあまたあとでっ!」
「ばーか、早く行けよ。連れてってやろうか?」
「いいよっ!」
瑛太は壁に手をつきながら、それでも最大のスピードでトイレに駆け込んだ。
「ふわぁ……」
手を拭きながら廊下を歩いていく。 そういえば、佐野はどうなったのか全くわからない。
彼の行動は許されないし理解もできないが、あまり乱暴な目に遭っていなければいいがと考えてしまうのは、さっき自分に起こったことがまだ理解できていないせいだろうか。
佐野が、人を殺した。 そして、瑛太にその罪がかかっても名乗り出ることはなかった。
まだ目ははっきりと見えない。
「嘘だったんだ……」
白くぼんやりした世界で、瑛太は呟く。
濡れ衣をかけられた瑛太に見せてくれた親切や同情は、全部嘘だった。 そうして励ましの言葉を与えていれば、瑛太が振り向くと思ったのか。
佐野の算段など瑛太には理解できない。
ただ、幼い命とひたむきな恋心が無惨に消されただけだ。
「斎藤先生。こちらへどうぞ?」
「あ、はい」
もやのかかった視界のなかで瑛太を呼ぶ声がした。 ぼんやりしていたから気づかなかった。
瑛太は肘の辺りをそっと支えられ外へ連れ出された。
「まだ、よく見えませんか?」
足元に気を付けて、と静かに誘導してくれる。
「ええ、まだあんまり。すごいですね、あれなんだったんですか?」
「最新の閃光弾です。熱も火も出ずにテロリストなどを制圧できます」
「へえ……」
そういえば、さっきは二人で両脇を支えてもらっていた。 もしかして、違う人についてきてしまっただろうか。
「あの、さっきの……」
「ああ、もう車です。頭に気を付けて?」
瑛太の頭上に手が触れて、恐らく車のドアに頭をぶつけないようにとガードしてくれているのだろう。
今まで知らず張り詰めていた緊張が、ふっとほどけた。 これで本当に安全だ。 そう思ったとき五感が一気に戻ってくる。
この、香り。
針葉樹のような果実のような、あの。
「……あなた、大塚さん?」
「……」
シートから体を起こし、車から飛び出そうとした瑛太の顔を布のようなものが覆った。 意識がなくなるのは一瞬だった。
「……ん、んん……いて……」
頭が鈍く痛み、ズシンと重たい。 まぶたを動かすことも辛い。 こじ開けた薄目の左側にはコンクリートが見える。 さっきまでのもやのかかったような世界は今は晴れ、スッキリしているはずが灰色の床だ。
どうやら自分は地べたに転がされているらしい。 手足は拘束されていない。
「……ん」
「気づかれましたか?」
「え、あ……大塚さん……」
瑛太の転がっているすぐそこに椅子があり、大塚はそこに座っている。
時間をかけ目を開けて彼を見ると、いつもの黒いスーツには乱れもなく、優雅に足を組んで座っている。 ここは何やらほこりっぽい倉庫のような場所だが彼がいれば豪華な応接間のようだ。
しかしその手には拳銃が握られていた 。銃口はこちらを向いている。
「大塚さん……あなたは……」
「申し訳ありません、先生。せっかく助かったところだったのに。ついでと言ってはなんですがもう少しお付き合いくださいね」
「どういう……」
瑛太が聞きかけたところで、背中側から足音と声がする。 二人、三人か。 ドアが開く音がして、なかに入ってきた。 声からするに、ここはあまり大きい部屋ではない。
「平塚。どうだ、起きたか?」
「はい、今。先生、体起こせますか?」
言われるまま、ゆっくり体を起こすと後ろには男が三人いた。三人とも体つきがよく鋭い眼光をしている。
「そろそろ着くから、そいつをつれて表に来い。奴等が到着したらすぐに取引を始める」
「はい、すぐに」
男たちが出ていくと大塚は瑛太の腕を取り、立ち上がるのを手伝った。 瑛太は今の状況が全く飲み込めず、恐る恐る声を出す。
「平塚、って……」
「ええ、ここでは平塚と名乗っています」
「本当の名前が、平塚さんなんですか?」
「……ふっ」
大塚は首をかしげて笑った。 そして、今までにないほど冷酷な表情で言ってのけた。
「そんなこと、どちらだっていいじゃないですか。もうじき、あなたともお別れだ」
……外に行ったら、何が起きるんだろう。 もしかして『あなたともお別れ』とは自分が殺されることを意味しているのだろうか。
柴崎の推測は間違っていなかった。 彼、大塚はきっと稲葉を裏切っている。 そして「もうすぐ着く」誰かと何らかの取引をする。
しかし瑛太がそこに同席しなければならない理由はなんだ?
「両手をあげて、ゆっくり進んでください。私の言うことを絶対に聞いてください。でないと」
固い銃口が押し付けられたのがわかった。 そうか、言うことを聞かなければ撃たれるのか。
嫌な汗が背中を流れる。 さっき切りつけられたと思われる箇所が、ジクジクと痛む。
それでも、不思議と怖さは感じない。 たぶん、まだ頭がこれが本当のことだと処理しきれていないからだろう。 むしろ、片隅にしぶとく残った頭痛の方がリアルに感じる。
「奴等、って誰ですか? どうして僕もいかなくてはならないんですか?」
「そうだね……取引は対価交換でなくてはならないからね。君が、こちらのカードなんだ」
「……人質、ということですか?」
自分になんの価値があるというのだろう。 彼らが稲葉組を裏切ってまで欲しいもの。
「……まさか、選挙?」
いつか聞いた、上部団体の幹部候補に稲葉組と塙組から一人づつ候補が立っていると。 そこに、出さないために……?
「おや、誰に聞いたの? 柴崎あたりかな。あの男は口が軽いねえ」
「それじゃあ、取引に来るのは……」
「若頭だろうね」
「……」
まさか。こんな餌で彼が動くとは思えない。
それなりに大きな組織の幹部になることは、稲葉組にとって大変な利益を生むことと等しい。
そんなことと引き換えに赤の他人の瑛太を助ける?馬鹿馬鹿しい。
それに、大塚は『あなたとはお別れだ』と言った。 引き渡す気など毛頭ないのかもしれない。
自分が殺されるなら、裕之も無事では帰れないかもしれない。 しかしそんなことをしたらそれこそ戦争が起こってしまうのではないか。
後ろからゆっくりと押され、瑛太は外へと繋がるドアの前に立った。
なんとか、この大塚を欺いてここから逃げ出すことができれば、もしかすると裕之は助かるかもしれない。
それが無理でも、例えば今ここで暴れたらどうだろう。 大塚は発砲する。 怪我ですめばいいが最悪この至近距離では命はないだろう。
でも、彼らは取引に使うはずだったカードを失うのだ。 遺体は取引には使えない。
「無駄なことは考えない方がいい」
「……」
一瞬テンポの狂った足の動きを怪訝に思ったのかもしれない。 瑛太のすぐ耳元で大塚は冷ややかに言った。
「私の射撃の腕は、自分で言うのもなんですが結構なものです。妙な動きをすれば、命の保証はない」
「……でも、僕が死んだら取引は成立しないんじゃないですか?」
「稲葉を助けるために、命も差し出すって? バカなことを。あなたがそんなことをして、あの人はどう思うでしょうね?」
「どういう意味ですか?」
ずっと挙げている両手の指先が冷たくなっていく。 からだの仕組みか、それとも恐怖か。
「組のゴタゴタに巻き込まれて、最愛の奥さまを喪っているのに。あなたまでそんなことになったら正気じゃいられないでしょうね」
「なんですか、それ?」
「あなたのことを、若頭はとても好きなんですよ。なにより大切に思っているんです。そのあなたが拐われている。駆け付けて、取引に応じないわけがない」
(稲葉さんが、僕を好き?)
そんなことは、きっとない。
とても優しくしてもらった。 具合の悪かったとき抱き抱えて布団まで運んでくれた。 力になると言ってくれた。 瑛太を信じると、みんなの前で宣言してくれた。
─────あの、稲葉家に泊まったときの朝。 頬に、瞼に感じた温もりはなんだった?
そっと唇を塞いで離れていった感触。
あれは……
「────っ!」
「やっと思い当たりました?本当に嫌になるほど鈍感ですね?稲葉はあなたを愛しているんですよ」
「……あ、あ、ああああいっ!」
「そう。だからあなたを助けないわけがない。必ず来ます。そして、私たちの条件を飲む」
……それが狙い?
もしも本当に大塚の言うように裕之が瑛太に好意を寄せてくれているのなら、確かに自分に何かあればダメージはあるだろう。
でも、そこまでだろうか。 正気を失うほど、何もかもを投げ出してしまうほど自分の立場を見失ったりはしないのではないだろうか。
裕之が自分の組を、組員たちのことを話していたことを思い出す。
柴崎がとても裕之のことを尊敬してる、と話したときの照れくさそうな嬉しそうな顔。 家事を叩き込んでおけば、人がいやがる仕事にも慣れておけば、組から離れたときでも食いっぱぐれることはないと言っていた彼。
彼の一番はいつだって組であり組員であり、廉だったはずだ。
それならば
「僕が誘拐されて傷つけられることより、大塚さんに裏切られていたことの方がずっと堪えると思いますよ。あなたのことを、とても信頼していたから」
「……それは……そうかもしれませんね」
大塚が少し笑ったような気配がした。 でも、おかしくて笑ったというより、どこからか想定していない場所から空気が漏れたような、力ない笑みだった。
読んでいただいてありがとうございます。
また明日もこの時間に更新します。
うえの




