17
瑛太は、自分が気がついてしまったことを、誰にも言うことができなかった。
田嶋たちに相談することも、馬場に打ち明けることも考えた。 しかし、口にしてしまえばそれが真実になってしまいそうで恐ろしかった。
百パーセント疑っているわけではなかった。
なぜなら、柴崎の言うように、塙組とやらから送り込まれたスパイなのであれば、そう易々と潜り込めるわけがないような気がするのだ。
息子の通う幼稚園に季節外れの採用があったからとて、身辺調査をするような人たちだ。 そんな悪意をもって近づいてくる人間が苦もなく組織に入り若頭の側近になどなれるわけがない。
「それでも、なにかには関わってるんだ……」
「なんの話?」
「……っっ?」
スーパーの魚のパックを覗きながら盛大に独り言をかましていた瑛太に隣に立った男が話しかけた。
「……っ、佐野さん?」
「久しぶりです、斎藤先生。全然連絡くれないから心配してましたよ」
「す、すみません」
そういえば、連絡先を交換したまま一度も連絡しなかった。 教えてもらったときにもこちらからかけることはないだろうとは思ってたけれど。
瑛太の気持ちを知ってか知らずか、佐野はマイペースに魚のパックを手に取り「どうやって食べると美味しいのかな?」などと呟いている。
今までの殺伐とした思考から、穏やかな横顔に見とれる。
ほんの二年前、彼とこうして買い物をして一緒に食事を作り食べることを夢見ていたことがあった。
日曜日には翔真をつれて公園に行き、おにぎりを開いて日が暮れるまで遊ぶ。 運動会でビデオを撮ったり、卒園式で泣き笑いして、川の字で眠る。
彼がもしも望んでくれるのなら、どんなサポートだってしたかった。
瑛太は魚の冷蔵庫の前から離れ、切らしていた調味料をかごに放り込みレジを通る。 佐野はそのあとを黙ってついてくる。
ならんでスーパーを出た瑛太は佐野を振り返った。
そんな夢は翔真が亡くなったとき消えてなくなった。
犯人が瑛太であってもなくても、翔真を守りきれなかったことは事実だ。 そんな後ろめたさを抱えて彼の前にいることはできない。 佐野にしても瑛太がそういう葛藤を抱えていることなど承知しているだろう。 それでもそれを全部きれいに隠して、近くにいたいと願う?
そんな関係は、お互いに幸せではないと思う。
それに今この瞬間も、隠し撮りをした犯人が自分を見ていないとは限らない。 なんの関係もない佐野までを巻き込んだら、瑛太はもう本当に立ち直れない。
「佐野さん、僕のこと気にかけてくださるのは本当に嬉しいんですけど……ごめんなさい、もうこうして会いに来ないでください」
「……迷惑だった?」
「そうじゃないんです! でも……」
ストーキングされているから、などと不安をあおるようなことは言えない。 正義感の強い彼が、協力するなどと言いかねない。
「佐野さんの顔見てると、辛いんです。僕は、なにもできなくて、翔真くんと佐野さんをひどい目に遭わせた。自分が一生背負っていかなくてはいけないことはわかっています。でも、あなたの近くにいるのは、やっぱり……」
佐野は見る間に青ざめていった。 瑛太は自分がひどいことを言ってるとわかっていた。 しかし万が一にも彼になにか危害が加わるようなことがあってはいけないのだ。
自分に優しい心を分けてくれた人に、自分のせいでこれ以上不幸になってほしくない。
「……僕は、君のことが好きなんだ。わかっていると思うけど、恋愛感情っていう意味で」
「……恋愛? だって、佐野さん、結婚……」
突然の告白に、瑛太の頭は真っ白になった。 うまく言葉が紡げずたどたどしい疑問が口をつく。
「うん。あの頃僕は自分を偽っていた。結婚すれば、子供ができれば、人として正しい方へ進めると思ったんだよ。でも、それは間違いだった。自分の性癖を改めて確認して妻を傷つけただけだった」
佐野の行動はよくわかる。
女性として誰かを愛せなくても人としてならできる。 そうして生活していけば家族の絆が生まれる。 そうすれば他の人と同じように見てもらえる。
自分の心に蓋をして、目の前の自分を必要としてくれるひとを、何よりも大事にすれば。
たとえ、自分の一番奥深い場所で、妻を裏切っていたのだとしても。
「……それで、離婚を?」
「直接の原因はそうじゃなかった。でも、気がついてしまえば今までと同じようではいられないから。寂しい思いや不安な思いをたくさんさせたんだと思う。それで、彼女は他に癒しを求めてしまった」
妻はきっと、夫の些細な変化を見逃さなかっただろう。 疑惑、不信、うっ積。 様々の無言の圧力に耐えながら、それでも夫を愛していた。
他に心が移ったんじゃない。 そうでもしないと自分が壊れてしまいそうだったんじゃないか。
自分に触れない夫。
別れるでも、浮気をしているでもない夫。
彼が憎かったのなら自分に非がある最後をなんとしてでも避けるはずだ。 それなのに彼女は、不貞を暴露するというやり方で別れを決めた。
……それは、最後のSOSだったのかもしれない。
「……」
「僕は彼女の夫としては最低だったと思う。でも君とは辛いことも全部乗り越えて生きていきたいんだよ。君の存在が僕を支えてくれたことを、君に返したいんだよ」
今彼は、一人だ。 たった一人で我が子を失った悲しみと向き合っている。 子供のいない瑛太には想像もつかない。
それでも青ざめた翔真の顔に気づいて自分の知る限りの蘇生を試みたあのとき、そしてそれがなんの効も奏じなかったとわかったとき。 あの無力感を感情をも焼く火で煮詰めれば彼の気持ちになれるのかもしれない。
そんな彼を支えることができたら、どんなに幸せだろう。 その彼に、今自分は求められているのだから。
「……ありがとうございます。でも……ごめんなさい」
でもやはり、無理なのだ。起こったことをなかったことにはできない。 自分がそばにいればこれからもずっと彼を悲しませてしまうのだ。
佐野は、瑛太の出した答えを受け止めると目を伏せ、額を押さえた。 その手のひらさえ、瑛太が望んでやまなかったものだった。
「わかった、もう来ない。でも、僕が君のことを好きだったことだけは覚えてて」
佐野は瑛太に背を向け歩き出した。 その姿は夕方の商店街に瞬く間に消えていく。 瑛太はそれをただ立ち尽くし見つめていた。
事件はそれから数日後の夜中、馬場によってもたらされた。
寝じたくをすっかり整え、ベッドで本を読んでいた瑛太は、枕元のiphoneが着信を告げたのに気づき相手を確認する。
「彰? なんだろ、こんな時間に……」
朝も夜もない仕事ではあるけれど、今までこんな時間に電話してきたことはない。 妙な不安感がわき、慌てて瑛太はディスプレイをタップする。
「彰? どうしたのこんな時間に」
『瑛太、落ち着いて聞けよ。彼女……西原菜奈美が死んだ』
「……は?」
瑛太の頭に菜奈美の笑った顔が浮かぶ。 死んだって? 彼女が、どうして?
「……い、いつ? なんで?」
『今日の午後、桜が丘駅裏のビルで飛び降りがあってな。担当がうちじゃなかったから俺もさっき知ったんだが』
「飛び下り……って、じ、自殺、っていうこと?」
電話を握った手がじっとりと汗ばんでくる。 なんで、どうしてばかりが頭をぐるぐる駆け回る。
『自殺と他殺の両方から今調べている。俺も亡くなる前の彼女に会っているから、事情を聴かれた関係で情報は入ってくる。お前のところにも話を聞きにいくかもしれないから、心に止めておいてくれ』
「……た、他殺って、どういう……?」
殺された可能性が、僅かでもあるということか。 どうして、菜奈美がそんなことに巻き込まれるのだろう。
『彼女の家の近所で男関係でトラブルがあったようだという証言がとれている。相当激しく揉めている声が聞かれているんだ。今回のことと関係があるかは調査中だけど』
「……そんな」
『お前は何か気がついたことはなかったか? 怯えていた様子だったとか、金に困っていたとか』
「全然。会話らしい会話はしてないんだ。お互いの近況も話さなかった。僕、すぐに気分が悪くなっちゃったし……」
本当に役に立たない自分が腹立たしい。 こんなことになるのならもっと彼女の話を聞いておけばよかった。 何か話したそうにしていたのに。
『そうか……悪かったな、遅くに電話なんかして』
「ううん。あの、差し支えない程度でいいから何かわかったら教えて?」
『ああ、わかった』
おやすみ、と言って電話を切ったが休めるはずがなかった。
明けていく夜のなか、思い出すのは笑顔で子供とふれあう菜奈美の姿だけだった。
「せんせい、すこしげんきない?」
「……そんなことないよ。大丈夫」
無理矢理に口角をあげて笑いの顔を作った瑛太を、廉は膝を抱えた姿勢で見上げた。
毎度お馴染み、かくれんぼに参加させられた瑛太は、廉に手を引かれ狭い通路に押し込まれた。
子供たちは本当にここが好きだ。
室内には他にも家の形や電車の形の小屋が備え付けられていて、そこにもいつも子供たちの笑い声で満ちている。
それでもこの回廊は特別なのだろう。
「ちょっと、めがあかい」
「えー、廉くんは鋭いなあ。ちょっと夜更かししちゃったから、わかるかな?」
「……うん」
通路の外側を誰かが足音をひそめて駆けて行く。 瑛太と廉も口をつぐみやり過ごした。
「……」
「廉くん?」
廉の小さな手が瑛太の二の腕をさすった。 まるでそこに、何か特別な薬でもすり込むかのような慎重な手つきだ。
「どうしたの?」
「ぼくのママは、ぼくがげんきがないとき、いつもギュッとしてここをさすってくれました。そうすると、くすぐったくて、あったかくて、げんきになりました」
「廉くん……ママのこと覚えてるんだね?」
「はい。やさしくて、きれいで、いいにおいがしました。ぼくは……ママをまもってあげられませんでした。みんな、ぼくがこどもだったからしかたないんだっていいました。ぼくは、こどもなんていやです。はやくおとなになって、おとうさんも、おばあちゃんも、えいたせんせいもまもってあげたいんです」
「廉くん……」
廉は、二年前の出来事を覚えているのだ。 自分と母の身に起こったことを。
こんなに小さい体で、その事に責任を感じている。 自分が子供でさえなかったら、母を守れたと思って自分を責めているのだ。
「廉くん、それは違うよ。廉くんが悪いんじゃない。間違った心を持った人が悪いんだよ。その人が優しい気持ちでいたら、廉くんのお母さんは今でも元気で廉くんとお父さんのそばにいたと思う」
瑛太の腕をさする小さな手は止まってしまった。 その代わりに瑛太の白いトレーナーの袖をしっかりと握りしめている。
答えを探すような黒い瞳は、瑛太をじっと見つめていた。
ああ、こんなところは裕之にとても似ている。
「 人は間違えることがあるね。誰かを悲しい気持ちにさせても、自分の欲しいもののために行動してしまうことがある。でもそんな人ばっかりじゃないよ? 優しい人もいっぱいいる。優しい人は強い人だ。僕は廉くんにも、優しいひとになって欲しい」
廉の将来生きて行く世界に、そんな優しさは必要ないのかもしれない。 でももしも、出来ることなら廉には暴力とは無縁の、自分だけの夢を叶える世界で生きていって欲しい。
万が一、自分の生き方を選べるチャンスがあったなら、二人で話したこの回廊を思い出して欲しい。
「廉くんは、優しいいい子だよ。僕は君が大好きだ」
「……」
廉はきゅうっと目をつぶり、自分が握ったトレーナーの袖に額を押し付けた。
小さな灯台。 どうか、廉の歩いていく道を次の灯台まで照らしていて欲しい。 彼から瑛太が見えなくなっても、いつまでもずっと。
「静かにしろっ!!」
バーンと何かを床に叩きつける音がして聞き覚えのあるような男の声が怒鳴り散らした。 ぴったりと寄り添った二人の体がビクッと揺れた。
保護者のクレームにしては、悪意に満ちた声。 瑛太も息を潜めてことの成り行きをうかがった。
「斎藤瑛太がここにいるだろうっ!?」
(え、僕?)
男は瑛太を探しているようだ。 外からは園児の高い悲鳴や鳴き声が聞こえる。 苛立った闖入者が、子供や先生たちに手を出さないとも限らない。
瑛太は、固まってしまった廉の腕を掴み、自分の方に向けた。
「廉くん、聞いて? あの人は僕に用事があるみたいだ。廉くんはここにいて、僕が出ていったら静かに秘密の出口から外に出るんだ。誰か大人の人に警察に電話してくれるように頼んで? 出来るね」
「……」
廉は青い顔で首を横に振った。
正直、瑛太も怖かった。 外にいるのが誰なのか、なぜ瑛太を探しているのか。 わからないから怖い。
でも、廉をこの場所から無事に脱出させなければ。
表の児童たちはきっと瑛太が出ていけば解放されるだろう。 でももし、あの男が車で子供たちを追いかけた犯人なら、狙いは廉かもしれないのだ。
廉がここにいることを悟られないうちに、逃がさなければ。
瑛太は廉を胸に抱き締めた。 そして、腕を優しくさする。
「大丈夫、廉くんは出来る。僕があの人のところに行ったらそっとここを抜け出すんだ。そして大人の人に助けてもらう。戻ってきちゃダメだよ? あとは警察の人に任せるんだ」
わかった? と笑顔を見せてやると、廉も目に涙をいっぱいためた顔で力一杯頷いた。
瑛太はもう一度廉を抱き締め頬同士をぴったりと合わせた。 これ以外にはあり得ない幸せな柔らかさを感じて、この存在を守るために勇気の限りを振り絞った。
彰からの連絡があるかもしれないと今日はポケットにいれていたiphoneを操作してボイスレコーダーを起動させる。
自分はもしかすると、生きてここを出られないかもしれない。 でも、これから起こることを記録しておければ彰たちの捜査に役立つかもしれない。
震える指をもう片方の手で押さえ、瑛太は廉に微笑みかけた。そして両の足に力を込める。
「斎藤瑛太です。僕に何か……」
その場で立ち上がり、瑛太は声をあげた。 しかしその言葉は最後まで続かなかった。
「ああ、斎藤先生こんにちわ。探しましたよ?」
絢音の肩を掴みナイフを押し当てていたのは翔真の父親、佐野だったからだ。
蒸し暑いっす。
明日は過ごしやすいといいなー。
また明日お会いできますように!
うえの




