16
やっとの思いで並べられた皿を空にした瑛太は、片付けを手伝うことを申し出たが、出勤準備もあるだろうからと帰宅を促された。
そういえば、風呂にも入らなくてはならないし、今日持っていく書類は自分の部屋だ。
最後に大塚に近づくチャンスはあるかを見回したが、彼はいなかった。仕事があるのだろう。
裕之が玄関まで見送ってくれた。 こういうときに限って賑やかな大中小はいない。
黙って歩くには長すぎる廊下を並んで歩いた。
「澄子さんが」
「ふぁ?」
沈黙を破って唐突に話し出した裕之に、瑛太も間の抜けた返事を返す。 裕之は少し笑って話を続けた。
「澄子さんがあいつらに家事を教えるのは、ここを離れてからも生きていけるようにって考えているみたいなんです」
「離れても?」
「そう。やくざを辞めて一人になっても、飯が作れりゃ生きていける。便所掃除や草むしりを嫌がらなければ、稼ぐことができる。そう、考えているみたいです」
「辞める、なんてことあるんですか?」
「ええ。色々な事情で離れてくやつらもいますよ。まあ、昔ほど物騒じゃなくなりましたが、ある程度の金と手柄は必要ですけどね」
外は少し曇った11月の空だ。 もうすぐ今年も終わるんだ、と感慨深い気持ちで見上げる。
駐車場からゆっくりセダンが近づいてきた。 この家の者を乗せるのだから、高級車なのだろう。 車にあまり詳しくはない瑛太にも見覚えのあるエンブレムに恐れをなす。 窓ガラスはどこも黒い。
「私は仕事があってお送りできないのですが、大塚が運転していきますので」
「え?」
運転席のドアが開いて、大塚が瑛太たちが立っていた方の後部座席に回り込む。 そして、恭しくドアを開け「どうぞ」と言った。
「いえ、お忙しい時間帯に申し訳ないです。ここからなら歩いても帰れますから」
「うちのせいで自転車も幼稚園においたままなんでしょう? 乗っていってください」
「でも……」
「さあ、どうぞ?」
多忙な大塚の手を煩わせるのは本当に申し訳なかったが、ここでいつまでもごねているのはもっと悪い。
瑛太は観念して後部座席に乗り込んだ。
「お邪魔しました。朝ごはんも美味しかったです」
「それはよかった。あいつらも喜びますよ。またいつでも来てください」
窓を開けて挨拶をすると、車は静かに走り出した。 馬場が言った通り、中からでも見える道路に私服警官とおぼしき男が見える。
「先生、申し訳ありませんが窓を閉めさせていただきます」
「あ、ごめんなさい」
「いいえ。一応、安全のために」
「……」
安全のために、防弾ガラスにでもなっているのだろうか。 そういう可能性のある車に乗っているかと思ったら、妙に背筋がのびてしまった。
そういえば、さっき裕之は瑛太が自転車通勤していることを知っていた。 どこかで見られていたのだろうか。
「……」
考えてみれば、今日ももちろんだがこの間幼稚園の帰りの時も家の場所など聞かれていない。
「あの、もしかして本当は稲葉さん、僕のこと疑っています?」
聞いてしまってから、声が震えた。
信頼されてるなどと思えた自分はおめでたいのかもしれない。
「……どうしてですか?」
「自転車通勤のことも家の場所も、稲葉さんにも大塚さんにも、柴田さんたちにだって話していません。それなのに知っているっていうことは、調べたっていうことですよね」
瑛太が同性愛者だということも知っていたから驚かなかったのだ。 信頼を寄せる振りで見張られていたのだろうか。
だとしたら、ひどい。
「……最初は、先生が初めて幼稚園に出勤された日でした」
「え?」
唐突に大塚が話し出したので、瑛太は身を固くした。 正面から顔を動かすこともなく、滑らかに話す。
「廉さんが社長に帰宅のご挨拶をされて、その時に先生のことをものすごく嬉しそうに話されたんです。折り紙が上手で、きれいで優しい先生が来た、と」
「え、いえ、そんな……」
大袈裟な誉め言葉に、赤くなってうつむくと、バックミラーで様子を見ていたのか、大塚が微かに笑った。 上目で見れば、本当にきれいな笑顔だ。 いつもはつんとしているのが惜しい。
「迎えに行った井上さんに話を聞いたら、やはり美人で可愛らしくて明るい雰囲気の、しかも男性だったとうかがって。社長は私にあなたのことを調べるように指示を出しました」
やっぱり、という落胆と井上までがそんな誇張した話をしていたのかと思う気まずさで、眉間にシワが寄ってしまう。
「社長があなたを調べろと言ったのは、この中途半端な時期に赴任してくるのは不自然だと感じたからと……単純にあなたに興味がわいたからだと思います」
「……え」
「あの園長のことですから下手な人選はされないと思いますが、そういうフィルターを潜り抜けるのが外道ですから。廉さんを預かっていただくにふさわしい方かどうかをこちらでも確認させていただいたというわけです。お気にさわったら申し訳ありません」
「ああ、そういう……」
考えてみれば当たり前だ。 都と自分の間柄を知らなければ、なぜあの時期に中途採用されるのか理解しろという方が無理だ。
「……じゃあ、大塚さんも稲葉さんも僕があの事件に関わっていたとご存じだったんですよね? そこは、ご心配じゃなかったんですか」
「ああ、それについても調べました。そちらはまあ、ことのついでに。でも、あなたには怪しいところは見られなかった。日頃の仕事ぶりも回りの評価も素晴らしかった。あれは、たまたまあなたがその場にいたというだけで、他の人でも同じように起こっていた事件でしょう。犯人らしい人物も目撃されている。あなたにはあんな卑劣な行為はできない」
「……」
────嬉しい。 調べられていたことは、もちろん面白くはないが、そういう理由だったのなら致し方ない。 でも、最初から丸ごと瑛太は信じられていたなんて。
「まあ、でも、興味の方が大きかったかもしれませんよ。社長はかわいいものには目がないんですから。廉さんも井上さんもあなたのことをしきりに誉めるから、滅多にいかないお迎えなのに仕事をキャンセルしてまでも翌日早速行っちゃうんですから」
「え……」
今、大塚はなんと言ったのだ?
「しかも実物はさらにかわいいって、あの社長のやに下がった顔を写真に撮っておかなかったことが本当に悔やまれます」
「えっと……」
「あの人ねえ、ここに来てはじめて女の子の家族ができたでしょう? 小さい頃は一緒によく遊んであげたらしいですよ。お人形とか、お絵描きとか。あ、これ私が話したってご内密に」
「はあ……」
バックミラーの彼は、なんともおかしそうに歪んでいる。 裕之とお人形。 裕之とお絵かき ……かわいいものに目がない……結び付かない。
「あなたも社長のこと、憎からず思ってくださっているでしょう? どうですか、彼は?」
「どうって……」
なんでこんな話になったんだろう。 自分の性指向は知られているとしても、こんな……
「でも……だって、稲葉さんはストレートじゃないですか。廉くんがいるんだし……」
「そうですね。まあでも、両方行ける人っていうのも、この世の中にはいますから」
「両方……」
「そういうの苦手ですか? 無節操だって軽蔑される方、いらっしゃいますよね?」
「いえ……そんなことは……」
それ以前の問題だ。 すでに瑛太の頭はキャパオーバーでパンクしそうだ。 それに、こんな話を大塚からされるはずがない確証を、瑛太は持っている。
「……僕は、大塚さんが稲葉さんの恋人だと聞いていました」
「ふはっ、それね」
大塚の肩が揺れた。 笑ったのだ。 微笑むなんて静かなものじゃなく、おかしくて仕方ないというように。
「そういう風に見せてただけです。こちらの都合がいいので。気にしていましたか? 申し訳ありません。でもこれも、ここだけの話にしてくださいね。私と社長とあと二人しか知らないことですから」
「……そんな話、僕にしてしまってよかったんですか?」
「先生は社長が不利になることはなさらないでしょう? 信頼できる方だと思っているから打ち明けたんです」
「……」
稲葉と大塚は付き合っていない。 稲葉は瑛太をよく思っている。
窓の外は見慣れた風景になってきた。 もうあと数分で、瑛太の部屋についてしまう。
瑛太は思う。 それでも、稲葉の好意に頷くことはできないのだ。
「……僕は確かに、稲葉さんに惹かれていたかもしれません。でも、無理です」
「どうしてですか?」
「廉くんには、お母さんが必要です。僕ではダメです。稲葉組にだって女手があった方がいいに決まってる。それに、稲葉さんは園児の保護者だ。一保護者と特別な関係にはなれません。それに……」
最後のひとつは言いにくい。
きっと大塚が稲葉に報告するのであろうことを想像すれば、胸が裂かれるように痛い。 それでも、言わなければいけないのだ。
「稲葉さんと深くお付き合いをすれば、僕は自分の夢を諦めなければならなくなる。暴力団関係者と親密な交際をする幼稚園の教員に安心して子供を預けてくれる親御さんは……いないとは言いませんけれど、少ないでしょう。そうなれば、僕を拾ってくれた都先生にまで迷惑がかかる。ごめんなさい、皆さんのことを嫌いな訳じゃないんです。皆さん優しくて、面白くていい人です……でも……」
「そうですね、先生のおっしゃることはもっともです。ただ、廉さんだっていつまでも幼稚園に通っているわけではないし、お母さんがいたら素晴らしいけれど、それは本当のお母さんではない。だったら本当に自分を愛してくれる人のそばの方が幸せだと思いませんか?」
「それは……」
「稲葉組の若頭という地位と結婚したい、させたい輩は多い。それでは廉さんは愛されない」
緩やかにステアリングをきり瑛太の住む部屋の下に車をつける。 停車時もなんの衝撃もない。
「あと……最後のひとつですが、少し長い目で見ていていただきたいんです。今、私の口から申し上げることは出来ないのですが」
「……」
大塚が後部座席に回りドアを開けた。 呆然としている瑛太に降車を促す。 瑛太はノロノロと体を起こし車から降りた。 大塚がすぐ隣に立って頭を下げる。
「廉さんのこと、本当にありがとうございました。今日はお休みだと思いますのでよろしくお願いします」
大塚が頭を上げると、空気に乗って彼の香りが漂った。 森のグリーンのような、果実の滴る柑橘のような。
「……送っていただいてありがとうございました」
一息にいうと瑛太は玄関ホールに飛び込んだ。 階段を一段飛ばしで駆け上がり、鍵を差し込もうとした。
「……」
手が震え、鍵穴をとらえることができない。 ガチガチと音が鳴り狙いが定まらない。
やっとの思いで部屋に転がり込むと、冬だというのに変な汗をかいている。
「とりあえず……シャワー……」
笑う膝を叱咤して、瑛太は風呂に向かう。 熱いお湯をどんどん出して頭からかぶった。
今、感じたことを排水口に流してしまいたい。 シャンプーの匂いで打ち消して記憶から無くしてしまいたい。
「大塚さんが……」
それでも一度はっきりと脳が認識したものは簡単に忘れ去ることはできない。
あの匂いだった。 動物園でぶつかってきた男からもあの匂いがした。
声に出してしまうと、恐怖は水に落としたインクのように広がっていく。
大塚が、廉を連れ去ろうとした。 大塚が車で子供たちを潰そうとした。大塚は最初から瑛太があの事件に関わっていたことを知っていた。 瑛太の部屋も。
それではあのファックスも写真も……。
瑛太はついにしゃがみこんでしまった。 シャワーの湯気はもうもうと風呂場を曇らす。
あのときは笑った柴崎の言葉を、瑛太はもう笑えない。
『俺は、あいつが塙のやつらが寄越したスパイなんじゃないかと思ってるんですよっ。あいつ、色仕掛けで頭に取り入って側近になって、組の情報塙に回してるんすよっ』
この世には絶対なんてない。 どんな理由かはわからないけれど、大塚が稲葉組を、裕之を絶対に裏切っていないなど、本人にしかわからないのだ。
「大塚さん……」
私のすんでいる地方だけでしょうか、今日は暑かった!
明日もよろしくお願いします(^ω^)v




