14
稲葉家の人たちは夜になっても帰らなかった。
薬を飲ませる都合上、廉には食事をさせなければならない。
瑛太はキッチンを借りて雑炊を作ることにした。 冷蔵庫にあったネギとささみ、それに卵を入れる。食欲はあったようだからこのくらいは大丈夫だろう。
案の定小振りのどんぶりにとよそったそれを、廉はペロリと平らげた。 薬も飲んでしばらくすると熱もだいぶ落ち着いたようだ。
それにしても誰も帰ってこない。
「おうちの人、こんなに遅くまで帰ってこないことよくあるの?」
「……あんまりないけど、きょうはおばあちゃんもいないから」
「ああ、そうだよね? どっかお出掛け?」
「うん、おばあちゃんのいもうとのところにいったそうです。きのうから、おとまりしてます」
それで納得がいった。 具合の悪い孫を放って遊んでいるわけはないと思ったが。
「お薬も飲んだし、着替えたし、もう少しおやすみ?」
「……せんせい、えほんよんでくれる? いつも、よんでもらってからねてるから」
心細い声をだし廉が言う。
寂しいよな。 ただでさえ熱が出て不安なのにお父さんもおばあちゃんもいなくて。
瑛太は自分が父親になることは決してないことを知っている。 それなのに子供という存在は昔からとても興味深かった。
だからだろうか、自分の進路を考えたときにこの道しか思い付かなかった。 女性が中心の社会で毎日がむしゃらだった。
子供たちとの生活のなかで、自分が子供だったときのことが不意に記憶の底から顔をだし鮮やかに思い出されるときがある。
そのときの愛された記憶が、たぶん辛かったときの瑛太を励まし続けていたのだろう。
自分の血を分けた誰かにそんな想い出や優しさをあげられないことは切ない。 でも今は幼稚園という場所で、もちろん親から与えられるものにはかなわないが、将来に持っていくお土産のようなものを手渡せていると思っている。
それは瑛太が想像していたよりも、遥かに素晴らしい日々だった。
廉に教わっていつかコーヒーをごちそうになったリビングに入る。 あの日祖母が座ってた辺りに小さな本棚があって、そこに廉の絵本も入っているというのだ。
目当ての棚を見つけて絵本を物色する。 タイトルを見て、瑛太はふふっと笑ってしまった。 どれもこれも、恐竜や怪獣、亀などの両生類的なものが出てくるものばかりだ。 廉のことを本当にわかっている人の贈ったものだろう。
「……どれにしよう」
暗がりで絵ははっきり見えないが、手に取ったそれは何となく強そうな怪獣が描かれている楽しそうな絵本だ。瑛太も読んだことはない。
あまり音をたてないようにそっと廊下を歩く。 昼間見かけた若い組員は食事をとったのだろうか。 そもそも、大事な跡取りの面倒も見ないで何をしているというのだろう。
いやいや。瑛太は強く頭を振る。 ここの事情のことは自分が口を挟むことではない。
廉の寝ている部屋のふすまを静かに開け、彼の顔を見てにっこり笑う。
廉を不安な気持ちにさせてはいけない。
「……恐竜は、その大きな手で、ネズミくんの洋服まで作ってやったのでした。ファッションショーは大成功……廉くん?」
絵本を見せるために廉の横に腹這いになった瑛太の耳に規則的な寝息が聞こえてきた。 どうやらあと数ページを残して眠ってしまったようだ。
絵本をパタリと倒して突っ伏せる。 たたみのいい匂いがする。
結局廉が寝付くまで誰も帰ってこなかった。
もしかして、何かあったのだろうか。 問題が起きて帰れなくなった、なんていうことが決してないとは言いきれない。
畳に頬をくっつけたまま、眠っている廉を見た。 絵本を読んでもらっていた少し笑顔のまま、すうすうと息をたてている。
父親に何かあったら、廉はどうなるのだろう。 組長だって祖母だって若くは見えたが、いつまでもそばにいれられるわけではない。
一人でこの家を守っていくのだろうか。 それが二十年後ならいい。 もし今、裕之の身に何かあって、廉がすべてを背負わなければならなくなったら……
そこまで考えて、瑛太は廉の布団のすみに頭を落としグリグリとこすり付ける。 布団は干したばかりのいい匂いがして、使う予定がなかったとしてもちゃんと管理されているのだなあ、と変な感心をしてしまう。
裕之がどうなろうと廉がどうしようと、自分は部外者だ。 廉の将来を見届けることはできないし、裕之に廉を思うならそんな仕事はやめるべきだなどと進言することもできるはずがない。
自分は廉の長い人生の中、ほんの一瞬を一緒に歩いているに過ぎないのだ。 成長してここからどんどん遠くに離れていく。 振り返ったときに遠くに見える小さな灯台のようなものだ。
灯台は彼が大きくなるにつれ増え続け、自分はいつかそれらの影に隠れて見えなくなる。
それでいいのだ。 新しい灯台が、彼の明日を照らし続ける。 それをどこかで見守れれば、それで。
静かで暖かく、少し悲しい。
そっと目を閉じると、眠りのなかに落ちていく。
『 ……せんせい、えほんよんでくれる? いつも、よんでもらってからねてるから 』
『廉もここで晩ごはん食べてお風呂入ってから帰るんだもんね?』
……じゃあ、絵本は誰が……?
「先生……瑛太先生?」
優しい感触があった。 今は秋も深まった季節なのに、暖かい陽気の中でうとうとしてるみたいだ。
風で髪がフワフワとかき混ぜられて、むずむずする。 優しさのかたまりのような感触は、頬に触れひたいに触れ、瑛太を笑わせる。
「くすぐったいよ……」
手の甲で頬を擦ると、その手はもっと大きな暖かい手に包まれた。
あったかい、気持ちいい。
思わずそこへ顔を押し付けてしまう。
ずっと探していた大切な何か。 まどろみの中でも、そうそう出逢えなかった。 手を離したらどこかに消えてしまうかも知れない。
瑛太はそれをきゅっと握りしめた。
不意にくちびるに、暖かさを感じた。 そして目尻にも。
泣いているのかもしれない。 胸がいっぱいの幸せみたいなものに包まれて。
でも泣いてもいいと思う。 夢のなかでは何をしても自由だ。
何にでもなれる、どこにでも行ける。
瑛太のことを、誰も知らない世界へ。
「……」
いつもセットしているiPhoneの目覚ましの音で上半身を起こした瑛太は、今、自分がどういう状況にあるのかすぐにはわからなかった。
障子からは早朝の光がうっすらと射している。 ここは瑛太の部屋ではない。 彼の部屋は八畳のワンルームで床はフローリング、上半身をあげれば正面にはキッチンが見えるはずだ。
自分はしっかりと布団に入っている。 衣服はそのまま。廉の布団を奪ったわけではなく、一人で彼のとなりに眠っていたようだ。
左には布団に頭が隠れた、これは廉だろう。 枕元には昨日途中まで読んで聞かせた絵本がある。
恐らく、夜まで稲葉家の人は帰ってこなくて、そのままうたた寝をしてしまったのだろう。
問題は右だ。
こちら側に顔を向けて眠っている、目をつむっていてもいい男。 稲葉裕之。
つまりは、三人で布団を並べ川の字で眠っていたわけだ。
なぜ、どうしてこんなことに?
ああ、なんか家族みたいでほほえましいよねって、そうじゃなくて!
瑛太が必死に夕べの記憶を巻き戻そうと、上を向いたり下を向いたり、キョロキョロしていると、右の布団がゴソリと動いた。 びくりとしてそちらを見れば、身じろぎをしただけようだ。 さっきより肩の位置が少し内側に引かれているような気がする。
それにしても、整った顔立ちだ。 裕之が眠っているのをいいことに、瑛太はじっと見つめた。
上向きに走る眉は黒く、今は軽くしかめられている。 閉じた瞳は起きているときは切れ長で鋭い。 でも今、じっと見つめてはじめて、意外とまつげが長いことを知った。
きれいな形の鼻とくちびる。 この口から出た声に、腰を砕かれそうになったっけ。
いつもはしっかり整えられた髪は、寝乱れてひたいに落ちている。 その下に続く鋭角なラインの輪郭にいつもはきれいにあたっている髭がすこしのびて、それが可愛らしくさえ見える。
「はあ……」
何でこんなことになっているんだろう。
でも、こんなに長い時間この男を見つめることができるなんて、幸せだ。 しかも今は、独り占めなのだから。
瑛太は布団のなかで膝をたてそこに顔を埋めた。
「かっこいい……」
寝ている相手にだって面と向かって言えない言葉を吐き出すために。
「…………く」
「え?」
声がした、ような気がする。 瑛太は頭をあげ、廉と裕之を交互に見る。
廉はまだぐっすり眠っている。ということは、
「っふ……」
「……あの、稲葉さん。もしかして起きていらっしゃいますか?」
裕之がゆっくりと目を開ける。 そして布団から腕をだし頭の下に敷き、瑛大を見た。
「……おはようございます」
起きている、いつから?!さっきの言葉は聞かれてしまっただろうか!?
「おはようございます……って! いつから起きてたんですかっ?」
「たぶん先生より、早く起きていたと思いますよ」
「うっ……え」
大声をあげようとして、思い止まる。 横にはまだ廉が寝ているのだ。
「何で寝た振りなんかっ」
声を潜めて、それでも最大限の抗議をする。 こっちは本気で慌てているのに、口許が緩んでいる裕之が憎らしい。
「あんまりじっと見られているみたいだったので、キスでもされるんじゃないかと思って、起きられなかったんですよ」
「キッ……」
するわけがない。 起き抜けに何をいっているのだろう、この男は。
瑛太はそっと布団から這い出し、枕元に正座をした。 裕之も上半身を起こして、布団の上にあぐらをかく。
彼は黒いVネックのTシャツとスウエットを身に付けていた。 深い襟元からのぞく首筋や鎖骨が寝起きの目に眩しい。
「あの、泊めていただいてありがとうございました。でも、ずっと廉くん、不安だったと思います。具合が悪いのにおうちに誰もいなくって。滅多にあることじゃないでしょうが、もうこんなこと……」
情けなく、瑛太の正座の上で握った拳は震えていた。 彼が暴力団の構成員で、意見するのが怖かったという気持ちが少しはあったかもしれない。
でもそれよりも、むしろ、自分を信じてくれてよく思ってくれる裕之に、注意などして印象が悪くなることが恐ろしかった。 わざわざ差し出された手を払うような真似をしなくてもいいのに、と思う。
でも、廉のために言っておきたい。 小さい心に、きっと他の子供よりもたくさんのものを抱えた彼のために。
「……」
黙ってしまった裕之の顔を見ることができない。 怒らせただろうか。 偉そうに、何をいっているのかとあきれただろうか。
「稲葉さん……?」
沈黙に耐えきれず顔をあげた瑛太は、薄く口を開けて虚をつかれたような表情の裕之と目があった。
「……ああ、すみません。今後はこんなことがないように気を付けます。立て込んだ日に限って、義母が旅行で……いや、それもいいわけですね。先生には甘えてしまって本当に申し訳ない」
「僕のことはいいんです。なにもお父さんじゃなくても、昨日だって家のなかにどなたかいらしたんでしょう?」
「ああ……彼らはモニター監視係なんです。当然、公の警備保障なんて契約してくれるわけもありませんから、自衛のために」
……ああ、そういわれてみれば昨日山田医師が呼び鈴をならす前に、若い組員は廊下を走っていった。 あれはこの家のどこかで外をモニタリングしていたからなのか。
「何があっても目を離すなと言いつけていますので、不快な思いをさせてしまいましたね」
「いえ……差し出がましいことを言いました。僕の方こそ申し訳ありませんでした」
昨日、何があっても自分が口を出すことじゃないと思ったはずなのに。 寝たふりをした裕之にからかわれたような気がして苛立ったのかもしれない。
「いいえ、とんでもない。怒られたって当然です……嬉しかったですよ。俺たち親子のこと、親身に思ってくださって。どうもありがとうございます」
なんの飾りもない笑顔で裕之は笑い、瑛太はそれを呆然と見つめた。
ぼんやりとした気持ちの中からはっきり形のある強い想いが顔を出した。
好きだ。
彼が好きだ。
朝の淡い光がじんわりと体に染み入るようにそう思った。
今までの淡い憧れとは違う。 体の奥底で細胞の一つ一つで、彼を欲しいと訴えている。
今すぐ抱き締めてめちゃくちゃにキスしたいと思う。
そんな激情が自分のなかに眠っていたなんて知らなかった。
でも目覚めてしまった。 これからこの想いをどう飼い慣らせばいいのかわからず途方にくれる。
だって絶対に自分のものにはならない。 どう考えても無理だ。
住んでいる世界も考えも価値観もなにもかも違う。 彼の世界を瑛太は肯定なんてできない。
どうしてこんな人を好きになってしまったんだろう。 辛いだけの恋なんて、欲しくなかった。
「先生?」
ああ、本当に好きだ。 ずっと年下の瑛太にも係わらず敬語を崩さない律儀さも、ひたいにかかる髪の一本いっぽんも、似合わなさすぎる幼稚園のスリッパをはいた姿も。
瑛太が知っている裕之は、彼の世界の数百分の一だろう。 稲葉組をまとめ、上納金を稼ぎ出す手腕のなかには決してきれいとは言えない仕事もあるだろう。
それでも、そんなことをみんな吹き飛ばし、剥き出しの心が傷ついたって構わないと叫ぶほどに、彼が好きだ。
「……帰ります」
ゆっくりと立ち上がり、瑛太はそれしか言えなかった。 もう、裕之の顔も見ることができない。
「失礼します。廉くん、お大事に」
「先生……」
廊下に続くふすまを開けると、大中小が並んでいた。
「おはようございまっす!!」
「おはようございます、先生」
「よく眠れましたか?夕べはご迷惑お掛けして申し訳ありませんでした」
慣れ親しんだ少しばかり間の抜けた顔をみていたら、なんだか涙が出てきそうになった。 慌てて作ったその場しのぎの笑顔を見て、田嶋が声を張った。
「ああっ! 顔を洗ってはいかがですか? 洗面所にご案内します!」
「あ、ああ、はいこちらです!」
「どうぞこちらへっ」
三人は瑛太を囲んでしまうと廊下を洗面所の方へ連れていった。
明日もこの時間にーなんて言いながら、頭が痛すぎて更新できませんでした。失礼いたしました。
完全復活!thank youバファ○ン!
明日こそこの時間にお邪魔いたします!
うえの。




