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新天地へ  作者: 時坂 圭一
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鬼ごっこ

 しまった。

 頭が真っ白になった。どうしてあんなところから見えるの。足がすくんで動けなかった。

 すると影が猛スピードでこちらへ駆け出した。灰色の砂煙が影の倍もの高さまで上がっていた。さっきまではあんなにもゆっくり歩いていたのに。

 もうだめ・・・。もう終わった・・・。

 汗が頬を伝って流れた。こんなところで見つかるなんて。だだっ広い草原を見回した。逃げられない。

 細かい振動が地面に伝わってきた。蛇かなにか捕食者に睨まれた小さなプレーリードッグをテレビで見たのを思い出した。あの時、なんで逃げないんだろうって呑気にに思ったっけ。まさか自分がそうなる日が来るなんて予想もしなかった。

 結局、小刻み震えるプレーリードッグはそのまま丸呑みにされていた。

 ふっと新天地を振り返った。あとどのくらいだろう。もしかしたら、あとちょっとなのかもしれない。そうしたら、どこかに逃げ込めるんじゃないかな・・・。

 そうしてわたしは走った。諦めながら走った。新天地のビルは相変わらずの高さだった。近づいている気配すらなかった。絶望の走りだった。

 後ろからすごく見られているのがわかる。舌なめずりしながら、わたしをどうやって遊ぼうか考えながら、楽しみに震えている。

 空気が乾燥していて口の中がからからだった。舌が口内の壁にひっついて息が詰まりそうになる。

 後ろを振り返ると、鬼がだいぶ近づいてきていた。ごまのようだった影が今はもう角や金棒のトゲトゲが見えるくらいだった。

 わたしの終わりはもうすぐだった。

 恐さで数少ない水分が目から滲みだしてきた。なんでこんなとこ来ちゃったんだろう。家に帰りたい。あのなにもない家に。

 こんな悪夢からはやく目を醒まして。

 目をもうぎゅっと瞑って祈った。次に目を開けばあの白い天井が現れる・・・。白いベッドに、なにもないあの部屋。

 けれど無駄だった。何もかもが無駄だった。遠くに聳える新天地に向かって足だけが前へ前へと動いていた。

 地響きがすごく大きくなっていた。後ろから鬼のぜえぜえという音が聞こえていた。鬼も疲れるなんてことあるんだとこんな時に妙に面白かった。後ろを振り向きたくても、彼のディティールを見たらもう足がすくんで最後のなにかが切れてしまいそうで必死で振り向くのをこらえた。

 

 急に目の前が暗くなったので驚いて顔を上げると、目の前一面に漆黒のビルが聳え立っていた。

 はあっと目が開いた。

 来た。

 新天地だ。

 鬼がもうすぐ後ろにいた。どしんどしんという音、ぜえぜえという音、そしてさっき嗅いだあの不快な臭いが後ろから肩に当たってきた。

 今躓けば終わる。あとちょっとで新天地だ。あとちょっと。あの黒いラインがそう。

 大地はすぐ目の前でぷつりと切れていた。その先は黒曜石のような、漆黒の石が敷かれていた。

 あそこまで行けば。なにか変わるかもしれない。何の根拠もない藁にもすがる思いだ。

 すぐ後ろで牛の吼えたような鳴き声が聞こえた。おもちゃをもうちょっとで取り逃がしそうで怒ってるんだ。

 足音が早まって近づいてきた。このままじゃ間に合わない。

 とにかく足を動かした。前へ前へ。一歩は確実にわたしのほうが速いのに、ゆっくり迫ってくる鬼がどんどん近づいてくるのが分かる。

 これじゃ間に合わない。ぎりぎりだめだ。

 本当の絶望が体にさっと巡った。だめだ。惜しい。見つかったあの時、数秒でも早く走り出していれば。悔しい。あとちょっとで新天地なのに。

「お願い!」

 誰にともなく叫んだ。

「お願いお願いお願いお願い!」

 だめだ。

 すぐ目の前の黒いラインがぐらっと揺れた。

 ぐっと胴体を後ろから掴まれて、頭ががくんと後ろに仰け反った。あっという間にわたしは宙を浮いていた。

 時が止まったようだった。鬼に持ち上げられたわたしはこれまで歩いてきたこの草原が一望できた。蜃気楼なのか涙なのか遠くがぼうっと歪んで見える。

 下を向くと鬼が笑っていた。白目のない真っ黒な目が細く横に伸びていた。長い毛がプツプツと生えた太い腕がわたしを持ち上げていた。

 ぶら下がった体がふらふらと揺れるのを鬼はしばらく楽しんでいた。

 すると細く笑っていた目がすっとまん丸になった。もう遊びが終わったんだと知った。

 いや、これから本当に遊び始めるんだ。

 わたしの身体で。

「いや!」

ぞっとしてわたしは思いっきり体をひねった。びくともしない。

 下を見やると観察するように黒い瞳をじっとこっちを見ていた。

 その目に唾を吐いてやりたかったけどその後が恐くてできなかった。

「えい!」 

 わたしはつま先に引っかかってぶらさがった右のパンプスを脚を振って投げ飛ばした。

 パンプスは鬼の頭を超えて、大きく弧を描いてゆったりと落ちていった。

 クソ野郎。

 わたしのバカめ。もっと刺すように脚を振らないと。

 苦手な左足を、パンプスが落ちないようにゆらゆらと動かしてタイミングを測った。

鬼は真っ黒の目を開いたまま不思議そうに頭を傾けた。

 コイツは頭が悪いに違いない。急にその鬼がガキに見えてきた。子供だから、あんな真似ができるのか。へばりついた死体を思い出した。

 せーの。

 つま先をぴんと張って鬼の目の下のほうを蹴るようにして脚を振った。

 びゅっとパンプスが飛んで開かれた黒い瞳に吸い込まれていった。

 ガァァァァと叫び声が上がった。体がふわっと浮き上がった。

 時が止まった後、背中から地面に落ちた。衝撃で息が止まる。なにも考えられない。

 息を止めたままわたしは冷静に体を立て直した。体を前へ傾け全力で走った。

 鬼も叫び声を上げながら後ろからついてくる。


 そしてとうとう、新天地にたどり着いた。

ひんやりとした漆黒の石の上をぺたぺたと走る。

 鬼の足音が急に聞こえなくなった。

 少し走ったところで振り返ると巨大な鬼が息を切らし肩を揺らしながら目の前の黒いラインぎりぎりのところで立ち止まって、わたしを見ていた。

 口がだらしなく開き、粘り気のある涎がどばどば垂れていた。動物の血と腐敗のにおいがただよってくる。目はまん丸真っ黒の瞳だ。さっきわたしを掴んだ腕がだらんと垂れていた。太い木の幹くらいありそうだ。

 こうやって近くでまじまじと見ると、人間とは程遠いことがよく分かる。たぶん、知性が感じられないのが一番人間と違うところかもしれない。

 呆然としているのか、怒っているのか、鬼からはよく表情が読み取れなかった。

 わたしは鬼と向き合った。真っ黒な瞳がこちらをじっと見る。

「こっちに来いよ。ほら。」

わたしはそう言って震える手で手招きした。

鬼の目が見開かれてきれいにまん丸になった。

「馬鹿が。」

わたしは吐き捨てるようにそう言った。

 鬼がなぜか黒いラインを超えてこないことに安心して、何かの留め金がぱちんと弾け飛んだようだった。

 鬼は目をまん丸にしながら体を揺らしはじめた。小さい鳴き声を漏らした。

「食べ物を祖末にするんじゃないってママに教わらなかったの?」

前に一歩踏み出す。目の前の鬼に憎しみが湧いてきた。

「あんな風に食べて。ママ悲しい。ママはそんな風に育てた覚えはありません。」

 鬼はだんだんと鳴き声を上げ、地団駄を踏みだした。不思議とこの黒い石に乗っていると振動がほとんど感じられない。目の前の光景が次元を超えた遠い世界に感じる。

「だから、さっさと死んで。孤独の坊ちゃんが。」

 鬼がものすごい声を上げて空を見上げた。そして手に持っていた金棒を振り上げた。

 見上げるほど空に伸びた金棒が振り下ろされ、一瞬にして黒いラインを越えてわたしのすぐ目の前の石にまで食い込んだ。

 とげとげがわたしのお腹のすぐ近くまで来ていた。

 思わず後ずさりすると、鬼は金棒を引きずり、なにか鳴き声を上げながら引き返していった。姿がだいぶ小さくなるまで、わたしは地面にへたりこんでいた。

 せっかく新天地に来たのに、気分が晴れなかった。殺されかけたのに、鬼になぜか言ってはいけないようなことを言ってしまった気がした。あんな獣でさえ、孤独なんてものを感じるのだろうか。

 あの真っ黒に濡れた瞳を見ているとなぜか無性に腹が立ってくる。あの瞳を見るとなぜかわたしとそっくりな気がする。

 

 部屋の鏡で見た、会社のトイレの鏡で見た、あの黒い瞳。孤独に濡れた瞳。

 あいつ、遊びたかったんじゃなくて、遊び相手が欲しかっただけなのかな。

 豆粒くらいの姿になった鬼を見やった。気のせいだけど、背を丸めてとぼとぼ歩いているように見える。

「まあ・・・。ごめんね。わたしも同じなのにね。」

地面にへたりこんだまま、大切な水分を一粒だけ涙に変えて流した。


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