holic
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煙草の吸いすぎは体によくないよ。
なんて。
いつか言ってた僕が、今じゃすっかり中毒者だ。
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「ねーまだぁ?」
「まーだ。今火ぃ着けたばっかじゃん」
右手にはいつもの煙草。
左手には強引に繋いできた君の手。
デートの帰り道、地下鉄のホームに向かう途中。
僕は座り込んで煙草をふかし、君はそんな僕を隣で待つ。
「煙草の吸いすぎは体によくないよ」
いつだって君は言う。
昔、僕が言ってたのと同じことを。
「そのうち君だって吸うようになるよ。そしたら僕の気持ち分かるから」
煙の流れを眺めながら、僕は君に教える。
煙の先に、あの頃の僕とあの人を見つめながら。
「吸わないよそんなの。くさいもん」
「今はそうかもね」
きっと君は考えもしないのだろう。
僕らの先に、やがて終着地点が訪れることを。
そしてそれは、もしかしたら目の前かもしれないことを。
「ねぇ、もし別れたらさ、君は僕のこと忘れようとするでしょ?」
「何?いきなり」
「でもきっと、煙草の匂いまでは忘れられないよ」
僕だってそう。
あの頃の、あの人の。
あの人の煙草の匂いが、今でも心に染み付いたまま。
「煙草はね、吸ってる人の近くに居るだけで中毒になっちゃうんだ」
「それくらい知ってるよー」
ううん、君は何も知らない。
煙草の本当の中毒症状は、ニコチンともタールとも関係ないんだよ。
少なくとも、僕にとっては。
「君が思ってることと僕の言いたいことは、たぶん違うと思う」
「え?なにそれ」
「分からないならいい」
「なんか感じ悪いよ、今日」
「そう?」
「うん。別れたらとか言うし。なんか嫌……」
もしも僕に、ひどく傷つけられ、捨てられたとしたら。
君は知るのだろうか。
今の君には到底分かるはずもない、この終わりなき中毒の正体を。
「あーもう、こっちまで煙草くさくなってるー」
「いいじゃん。帰ってからでも僕のこと思い出せるでしょ?」
「なにそれ、そんなのなくても忘れないもん」
あの頃も今も、 あの人が好きで。
好きで、好きで、好きで、好きで。
そしてそれは、とてもとても、苦しくて。
掻き毟る胸に残った爪跡は、いつかあの人がその爪で、僕に付けた跡、そのもののようで。
記憶の中で揺れるあの人の面影は、僕の中から滲み出し、この街の誰かに重なって。
そしてそれは、とてつもなく鮮明に、残酷に、あの人の不在を僕へと教える。
その度に呼吸をするのもやっとで、無意識に伸ばしそうになる手を抑えるだけで精一杯だった。
ねぇ、あなた。
一体どこへ行ってしまったのだろう。
僕を残して。
どれだけ遠くへ行ってしまったのだろう。
届かない。途方も無い。
ぎゅっと目を閉じる。瞼の裏に、あの人の影。
そっと目を開ける。世界はさっきのまま、何も変わらない。
僕は見上げる。空に上っていく紫煙を。
その薄く立ち上る様は、あの人の髪の揺蕩うようだ。
煙は薄く、頼りない。
そして中空で、ふっと消えた。
あの人はもう居ない。
そう。
あの人は、もう、居ないのだ。
「ねぇ、大丈夫? ぼーっとして、やっぱり今日なんか変だよ?」
君の声で少しだけ現実に引き戻される。
「そう? 何でもないよ、大丈夫」
あの人は僕の前から消えた。
だけど僕の中のあの人が消えることは、決してない。
どれだけ真っ当な日常を送ろうと努めても。
どれだけ現実的な自分であろうと心がけても。
そう。
どう足掻いたとしても、僕はあの人に絡め捕られ、縛られたまま。
もう居ないあの人に。
だから僕は、僕のことが大好きな誰かを、こうやって傍に置く。
例えば君。
そして何度だってこの匂いをつける。
あの人を思いながら。
「僕のこと好き?」
「え? ……うん、好き。すっごい、好き」
僕のことが大好きな誰かを、油断させ、手に入れ、それから突き落とす想像をする。
僕に傷つけられ、ボロボロにされ、打ちひしがれる姿を想像する。
それでもなお、涙で歪んだ醜い顔を晒してしがみ付き、懇願する姿を想像する。
そんな風に縋りつく誰かを、僕は蹴り上げ、突き放し、徹底した否定と拒否で、止めを刺す。
絶対的に捨てられ、なのに僕を忘れられない誰か。
例えば君。
そんな想像をする。
「僕も好きだよ」
この匂いがする度に、狂いそうなほどに欲しがればいい。
もう二度と得られない苦しみに身もだえしながら。
届かないものに手を伸ばし続ける、愚かで間抜けな、僕のようになればいい。
……なんてね。
そうならないことを、僕は知っている。
そこまでの思いを持てる人との出会いは、この世界の中に幾つもない。
そして僕という人間は、誰かのそんな思いに決して値しない。
「さ、そろそろ帰ろう」
「ねー」
「なに?」
「ちゅーして」
「……いいよ」
重なる唇の間から香る、煙草の匂い。
「……やっぱ煙草くさい」
「それでいいんだよ」
「なんで?」
「分からない?」
「うん」
「そういうとこ、好きだよ」
あの人以外の誰も、自分の中には入れないくせに。
ずる賢く、誰かの心に入り込む。
あの人以外の誰も、本当には好きになれないくせに。
誰かの中に自分を確認しないといられない。
あの人が好きで好きで好きで好きで。
その痛みに悶え苦しみ、逃げられないくせに。
それでも自分を手放せない。
誰かの心を食い荒らしては、僕は僕にしがみ付く。
記憶の中の、あの人だけを増幅させながら。
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本当の中毒。
それは心の中に染み付く、愛しい人の匂い。
いつまでもいつまでも消えない、狂いそうなほど愛しい人の匂い。
それに捕らわれ、動けなくなること。
本当の中毒。
それは愛しさが苦しみに変わり、やがて憎しみに近いものとなった時、
その変化が、誰かや、何か、あるいは自分を、徐々に損なわせていると気づいていても、
その事実さえ、どこか甘美に感じてしまうこと。
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がんじがらめの中で僕は、今までのどの時よりも強く、あの人を感じている。