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それからしばらくして先生は継母とケンカ別れし、その職を解任された。わたしは一人のほうが気楽な気がして、父様の書斎で本ばかり読んで勉強していた。数学や科学は苦手じゃないけど、今のところ必要じゃない。いつか必要に迫られたら勉強し直せばいいと考えるのが合理的だと思う。それよりも語学や文学、歴史や世界情勢を学ぶほうがすぐに役に立つ。でも、本当に役に立つのは黒魔術の書物と……恋愛小説。特に恋愛小説は今すぐに必要なテキストだった。
細かい手続きについてカイル様が電話してくると、わたし達は時を忘れて『スピーキングの実戦練習』をした。フランス語よりもロマンティックな響きの、わたしにとって真新しい言語の練習を。
「…………と、仕事の話はこれですんだ。今日は何してたの?」
「本ばかり読んでいたわ。父様ったら恋愛小説をいっぱい持っていたのよ?」
「へえ、かたそうな人だと思ってたけどな」
「意外と泣き虫なのよ、父様って。……ねえカイル様、わたしにも小説みたいな恋ができるかしら?」
「ああ、君みたいな素敵な子ならきっとできるさ」
「カイル様はわたしを誘ってくれないの?」
「おいおい、僕は三十だぞ? ちょうど倍も離れてるじゃないか」
「もうすぐわたしも十六になるわ。そうしたら倍じゃなくなるでしょう? このあいだ考えていたのよ。それで気が付いたの。わたし達が歳をとっていくと、二倍離れていた年齢が限りなく一倍に近付いていくのよ。でも、それは決して一倍にはたどりつけない悲しい追いかけっこだわ。あなたはわたしを待ってはくれないのね……」
「負けたよ。手が空いたら電話する」
カイル様はデートじゃないと言い張るけれど、わたし達はたびたびドライブにでかけるようになっていた。毎回はるばると自動車で訪ねてくるカイル様を気の毒に思って、しばらくこちらに住めばいいのにと提案したのだけど、その手には乗らないよと笑われてしまった。
継母は近頃毎晩のように自動車ででかけていく。家の中で見せつけられることがなくなって冷静に観察すると継母はさっぱりした性格で、たとえ財産目当てでわたしに優しくしているのが明らかだったとしても、その態度はむしろ清々しく(すがすがしく)思えなくもなかった。女という生き物が生まれ持った業と自然に共存する姿が羨ましくすらあった。倫理に照らしてではなく、欲しいものは欲しいと言える自然体が。
その日は珍しく二人で夕食を作り、一緒に食事をしていた。
「お皿をシャッフルなんかしなくても毒殺なんてしないわよ?」
「アピールしておかないと、お母様が変な気を起こすかもしれないでしょう?」
「いいのよ、一割だって少なくないんだから。そのうちあなたにも親がどうしても必要な時がくるわ。そういう時に母親をやってあげるから、二十歳になったらたっぷりお小遣いをくれればそれでいいの」
そこへ玄関から扉を叩く音がした。
「あら、こんな時間に誰かしら? いやね」
継母が玄関に向かった。
しばらくして聞き覚えのある大声が耳に入ったので、わたしは玄関の見える場所まで行って物陰から様子をうかがった。無精ひげを生やしただらしない格好の先生が、玄関の扉を閉めることも忘れて叫んでいた。憔悴しきって充血した目。きっと例の悪い薬を使っているのだろう。
「…………何度言わせるんだ。ロージーに会わせてくれ!」
「あの子はわたしの大事な娘よ。帰りなさい」
「大事な金庫だろ?」
「そうよ。あの子にもはっきりそう言ってるわ。あんたに傷物にされて気でも変えられたら困るのよ。帰りなさいってば」
「うるせえ! 俺はあの時のキスが忘れられないんだ。続きがやりたくて気が狂いそうなんだよ!」
「まあ、露骨だこと」
「君に言われたくないな。早く連れてこいよ」
「だめよ。帰らないと人を呼ぶわよ?」
「……このアマ。仕方がない、おまえで我慢してやる。さあ、こい!」
先生が継母の頬をひっぱたいて乱暴に手首をつかんだ。
「我慢ですって? あんた何様よ? ちょっと、やめなさい……放して……」
継母の肩を抱いて、先生は強引に寝室に向かっていく。
わたしは生まれて初めて見る凶暴な男性の姿に、足がすくんで動けなかった。
継母が手近にあったブロンズの置物を手に取り振りかぶる。
「だめよ!」
わたしが叫んだ時にはもう遅かった。ゴスっという鈍い音がして先生が赤絨毯に崩れ落ちた。継母はもう一度、とどめを刺すように先生の頭を殴った。
肩でしていた息が収まると、継母はこちらを振り返りもせずに言った。
「……さあ、どうしようかしら? 死にたい? それともわたしに協力する?」
「どっちもいやよ!」
わたしはとっさに階段を駆け上ってしまった。外に逃げていれば……。隣家までは走っていける距離ではなかった。わたしは自分の部屋に入り、中から鍵をかけた。