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2-5

 そのまま二階に上がると、両側にたくさんの扉が並ぶ長い廊下を歩き、十二番目の部屋に入った。柔らかいオレンジの電灯がともる部屋の内部は壁紙から調度品まですべてが黒で統一されていた。とても広く、天井が高くて、それぞれの調度品に用がある場合には少し歩きまわらなければならないほどだった。そのまま姿見に使えそうな大きな鏡の鏡台には、使いかけの化粧品が並んでいる。甘くて上品な香りがするのは、前に住んでいた人の香水の名残りだろうか。

「この部屋は階段からも近くて一番眺めがいいんだ。調子に乗ってでかい家を建てたはいいが、あんまり奥の部屋だと歩くのが面倒でな」

 バフォメット様にうながされてバルコニーに出てみた。遠くにきらめく繁華街の明かりがとても綺麗だった。

「ほら、見てみろ。あれが魔界の王ルシファ陛下のディアボロス宮殿だ」

 繁華街の外れに突如として浮かび上がる尖った屋根のシルエット。巨大なお城は地上のゴシック建築に似ている気がした。

「素敵な眺めね」

「ここにするか?」

「ええ、気に入ったわ。ありがとう、バフォメット様」

「まあ、俺達二人だけだから他の部屋がよかったらいつでも言ってくれ。なんだったら、あっちこっち使ったってかまわねえぜ」

 室内に入るとバフォメット様が突然指から紫色の光の弾丸を放ち、黒で統一された調度品が次々に消えていった。

「どうしてそんなもったいないことをするの?」

「前の住人が使ってた物だからな。新品のほうがいいだろ?」

「その人、恋人だったの?」

「……そんなんじゃねえよ。気になるか?」

「妬いて(やいて)ほしい?」

「俺様はモテモテだから、妬いてたらきりがねえぜ?」

 バフォメット様がスケッチブックと鉛筆を物質化してわたしに手渡す。

「そこに嬢ちゃんの住みたい部屋の様子を描いてみな。できるだけ具体的にな」

 わたしは生き返ってからの抱負をこめた理想的な部屋を絵に描いてみた。

「ほほう、上手いもんだ。嬢ちゃんは絵が得意なんだな。どれ、貸してみろ」

 絵のとおりの調度品が次々に物質化されて、わたしの理想が現実になった。ちょっとだけ指定したよりも派手な色づかいなのは、バフォメット様の感性によるのだろうか?

「目が痛くなりそうね。真っ赤なお部屋って想像していたよりまぶしいわ」

「作り直すか? 遠慮はいらねえぜ? 女の服ってのは絵に描かれてもよくわからねえが、他のものなら大抵は作ってやれるからな」

「このままがいいわ。わたし、悩んでばかりの暗い子でいるのはやめようと思うの。このお部屋みたいに強くて、情熱的で、まぶしいぐらいの女の子になるわ」

「そうか。嬢ちゃんが元気になってくれて本当によかったぜ。ここはパーッと美味いものでも食うか? それとも酒でも飲むか?」

「なんだか胸がいっぱいでお腹が空いていないわ」

「言い忘れてたが魔族は太らないだけじゃなく、腹なんか減らないんだ。美味いから食うってだけのことさ。食ったものは喉を越えたら消滅しちまうからな」

「じゃあ、お酒を飲んでも酔わないの?」

「いや、どういうわけか酒はそこそこ効くんだ。まったく魔族の身体ってのは有り難いもんだぜ」

 部屋が決まった安堵からかあくびが出てきて、慌てて口を覆った。

「ごめんなさい。わたしったらお話しの途中に……」

 バフォメット様がグラスに入った温かいワインを物質化してくれた。

「いろいろあって頭が疲れたようだな。そいつを飲んだら風呂に入って寝たらどうだ? 身体は疲れたり汚れたりしてもちょっとすれば元に戻るが、精神の疲れにはそれが一番だからな」

「覗いちゃ(のぞいちゃ)だめよ?」

「悔しかったら乳を……」

 面倒だったけど、バフォメット様の腕をつねっておいた。

「いてて。まあ冗談だから気にすんなよな。じゃあ、おやすみ」

 バフォメット様は奇妙な歌を口ずさみながら出ていった。

 部屋の奥の扉を入ると、そこは黒一色の広い浴室だった。寝そべったら溺れそうなほどの長くゆったりとしたバスタブと、シャワーがあった。試しにひねってみると心地よい温度のお湯が出る。バスタブにお湯をため、温かいワインを片手にゆったりとつかった。

「アー、ゴクラクゴクラク」

 わたしがまだ小さかった頃、父様とお風呂につかるたびに言っていた日本語をふいに思い出し、口にしてみた。たしか仏教徒にとっての楽園を意味する言葉だったと思う。「若い女の子が使う言葉じゃないんだよ」とたしなめられるほどに、面白がって言っていた言葉だった。

 お風呂から上がって鏡の前で身体を拭いていると、鏡の中の自分と目が合った。ワインとお風呂でほんのり桜色になった身体を眺めて「悪くない」と思った。女性らしい腰のカーブや水滴を弾いてつやつやと輝く脚のラインが自分でもお気に入りだった。カイルや先生がいつもこの辺りを盗み見ていたことにも、本当は気付いていた。バフォメット様ともなると堂々と見つめるから気付かないわけがない。ただ、その意味を知るのが怖くて『純粋な乙女』を決め込んでいただけだった。

「もう父様とは一緒に入れないわね」

 左乳房の谷間に近い辺りで鈍く光る紋章が、老い衰える恐怖からの解放を永遠に約束してくれている。バフォメット様がくれたどのお洋服よりも、コイン一枚分の小さな逆五芒星こそがなによりの贈り物だった。

「おいおい、どさくさに紛れて谷間とか言わなかったか? せいぜい小川ぐらいがいいところ……」

 頭の中にバフォメット様の声色で『冗談』が浮かんできて、慌てて否定する。

「……小さくないもん」

 バフォメット様好みの『涼しい』ネグリジェに照れながら、物質化してもらった黒猫の縫いぐるみを抱いてベッドに入った。柔らかい明るさの電灯はつけたままにしておいた。


 ――今は何時かしら? 薄目を開けて窓の外を見ても真っ暗だった。

「まだ夜中だわ……おやすみなさい……」

 ――しばらく眠ったつもりで窓を見ても、まだ夜中だった。

「……おかしいわ……今日はお日様がお休みなのかしら……」

 意識が徐々にはっきりしてきて思い出した。夜が明けない世界にいることを。

 縫いぐるみをきつく抱きしめてこそばゆい気だるさを身体から追い出し、ふらつく足取りのまま洗顔を済ませる。鏡台に向かい髪をとかそうとして、ブラシが無いことに気付いた。

「やだ、バフォメット様にお願いしたくても、こんな髪のまま……」

 鏡をよく見ると、手入れに苦労してきた柔らかい髪が全く乱れていなかった。それどころかシルクのようにつやつやと輝き、撫でてみても全くひっかかるところがない滑らかな手触りになっていた。バフォメット様がそばにいたら、嬉しさのあまりに飛びついて頬にキスしていたかもしれない。

 クローゼットにずらりと並ぶ洋服の中からなるべく露出が少ないワンピースを着てみた。それでもスカートが膝までしかないので落ち着かなかった。下着や靴下まで全部赤でそろえたのはちょっとやりすぎだったかもしれないけど、ついでに赤くて大きなリボンを髪に結んだ。

「あなたは素敵な女の子よ、だから頑張りましょう」

 鏡に向かってつぶやくと、なんだか少し強くなれる気がした。

 一階に下りていくと、開け放たれたリビングの扉の奥から女性の声がした。丸い柱の陰からこっそり様子をうかがって、地上のお店で見かけたことのある『テレビジョン』の音だとわかった。

「バフォメット様、おはよう。でも外は真っ暗ね」

「おう、やっと起きたな。そのうち魔界の暗さにも慣れるさ」

「だいぶ長いこと眠っていたかしら?」

「そうだな、嬢ちゃんが寝てから映画を何本か見て、ちょっくら横になって、本も二冊読んだだろ。それからテレビで……。まあ、地上で言えば丸二日ぐらいじゃねえか?」

「やだ、そんなに眠っていたの?」

「まあ、人間と違って途中で便所に起きることもないから、疲れてるとそうなるかもな」

 お手洗いの話が出て居心地が悪くなったので話題を替えた。

「大きなテレビジョンね? それに、とっても平たいわ。まるで人物画が喋っているみたい」

「ははは、テレビジョンか。懐かしい響きだな。魔界ではみんなテレビって呼んでるぜ。地上の家にはなかったのか?」

「父様が禁止していたの。分別ふんべつがつくまでは見ちゃいけないって。ひどいでしょう?」

「そこまで箱入り娘だったとはな。まあ、嬢ちゃんが可愛くてしょうがなかったんだろうよ」

 バフォメット様の隣に腰掛けてテレビを見ていると、時折、地上人を拷問ごうもんする道具などが映って、わたしは顔をそむけた。

「どうしてこんなひどいことをするの?」

「魔界にはな『悲鳴こそ最高のスパイス』って言葉があるんだ。まあ、俺はあんまり悲鳴ってのが好きじゃないがな」

「そういえば……わたしも人を食べなくてはいけないの?」

「そうだな。もうちょっとあとでもいいと思ってたんだが、話しておくか。地下に行こう」

 二階に続く階段の脇にノブの無い扉があった。バフォメット様が手を当てると扉が鈍く光って、内側、つまり向こう側に開く。

「ノブがあると万一の時にな……いや、話しはあとにしよう」

 バフォメット様に続いて扉を入り、薄暗い階段を下った。両側の石の壁にはろうそくがともっていたけど、それでも心細くてバフォメット様の腕を抱えて歩いた。

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