逃げるわたし
「いいのかなぁ、つきあわせちゃって」
彼は振り向いてくれた。わたしは一生懸命に彼を追いかけた。
「いいんです。その……この前のお礼もしたいし」
彼はわたしの少し前を歩きながら、振り向き加減でわたしに話しかけてくれた。
「あー、あの時は、そうだね。逆に恥ずかしい思いさせちゃったかな」
覚えていてくれた。それだけでわたしには十分だった。二人にとって本当に一瞬の出会いだったけど、わたしには彼を忘れられない理由があった。彼はわたしが高校生のときに憧れた先輩にそっくりだったのだ。憧れて、恋をして、そして別れた先輩……でも、彼がわたしを覚えていてくれたなんて、それは軌跡のようなものだと、その時は思った。
「あー、そんなの、ぜんぜんいいんです。あのまま家の鏡を見るまで気付かなかったらと思うと……あ、あのー、心当たりはあるんです。コーヒーわたしはあまり詳しくはないんですけど、たぶんわかると思います。こっちです」
今にして思えば、まったく、一体全体すっかり舞い上がってしまい、まるで十代の少女のようだったと、顔を赤らめるばかり……
駅から線路沿いに5分ほど歩いたところに良く立ち寄る喫茶店があった。そこのマスターとは気兼ねなく話せる仲だったので、わたしはマスターに聞けばわかると思った。彼を店の外で待たせて事情を話すとマスターは快くコーヒー専門店の場所を教えてくれた。運良くと言えるのかどうか、それはここから15分ほど歩く場所にある。15分……あと15分は彼と一緒にいれる。
「えーと、ちょっとここから離れてるんですけど、ちょっとわかりづらいところにあるから、わたし案内しますね」
彼は恐縮した顔をして最初は遠慮をした。それでもわたしは半ば強引に彼を連れて歩き出した。正直わたしも何がなんだかわからなくなっていた。どうしてここまで積極的になれるのか……どうして素直に気持ちを出せるのか?
「ボクは先月勤め先で急な移動があってね。ついこの前までは名古屋に住んでいたんだよ。単身赴任ってやつさ」
わたしは息が止まりそうになった。街の雑踏がわたしを包み、近づいた彼の背中は急に遠くに見えてしまった。
「あ、それは、たいへんですね、奥様とか、心配されているでしょう」
今にして思えば、よくもそんな言葉ができてたものだと、私自身を褒めてやりたい気分になる。
「まぁ、なんというか、そうなんだけど、そうでもないというか……あれ、なんか変な話になっちゃったね」
わたしの頭の中でいろんな言葉がグルグルと回り出した。単身赴任、奥様、名古屋、そうなんだけど、そうでもない……
「あぁ、持とうか?いやじゃなかったら……荷物」
わたしはとっさにいたたまれなくなり、混乱し、取り乱してしまった。
「あ、あの……すいません、わたし、あのー、本当にごめんなさい」
わたしは駆け出していた。どこをどう走ったのかわからない。恥ずかしくて、つらくて、情けなくて、ワケわかんなくて、せつなくて……たぶん彼はわたしの背中越しに何か呼びかけてくれたようだった。でもそんな声わたしの耳には届かない。わたしの心には届かない。
気が付くとわたしは部屋のドアを閉めてドアにもたれながらひとり泣いていた。
「何やってるんだろうわたし。わたし何やってるんだろう。わたし、わたし……」
昨日一晩、泣き明かしたはずの涙が今にもこぼれ出しそうになった。
『慟哭』 工藤静香
作詞中島みゆき
作曲後藤次利
唄工藤静香