眠れない夜
「ピピピピ……朝だ、朝だぞ、いつまで寝ている……ピピピピ」
いつもなら目覚ましが鳴り響く前に目が覚める。
ピピピピ……ピピピピ……ピピピピ……
「うわー、もう、なんて朝なの」
髪をかきむしりながら、うつぶせの体制になり、枕に顔をうずめる。手が届きそうで届かない。そんな位置に目覚ましを置いておくのは、長年の経験から年に1回か2回、目覚ましを止めて二度寝をし、化粧もほどほどに家を飛び出すことがある。まさに今日がそんな日だった。
「ピピピピ……朝だ、朝だぞ、いつまで寝ている……ピピピピ」
「はい、はい、今起きますよー」
部屋の中の話し相手は、冷蔵庫と目覚まし時計、トースターにやかん、それから――つまりは部屋の中にあるものすべてがわたしの話し相手になってくれる。
「うー、あんまり眠れなかった……」
昨日の出来事。彼との出会いの余韻がワタシに簡単に眠ることを許さなかった。不覚にも彼の顔はあまり覚えていない。まともに見れなかったし、あまりにもすっきりした顔立ちだったので、特徴的をつかめなかった。覚えているのは見上げるほどに大きな体とそれを包み込むとまるでマントのようなトレンチコート、キャベツを鷲掴みにした大きな手、そして……
「そしてあの子宮に響くような低い声……やばい、またドキドキしてきちゃったぁ」
洗面所にいき、朝がスタートする。洗顔、歯磨き、にらめっこ。
「今日のあたしどうよ?」
バッチリの笑顔で鏡に話しかける
「いいんじゃない?まぁ、昨日ほどじゃないけどー」
「どうせ一日ごとにおばさんになってますよーだ」
鏡はいつも正直にものを言う。まるで学生の頃の女友達みたい。
トーストを手早く焼く。
「ガチャン!焼けたぞ!どうだい今日の焼き加減は」
「別に、いつもと同じ……おいしいわよ」
トースターは機嫌が悪いと煙を上げて怒り出す。
台所でお湯を沸かす。
「ピィィィー……おーい、お湯が沸いたぞー」
やかんがけたたましくわたしを呼びつける。
「あーい、もう……ピィピィピィピィもう少しましな音はでないのかね。あんたは」
コーヒーを流し込む。インスタントコーヒーはまさに人類最大の発明品だ。
テレビをつけて天気予報と今日の占いをチェック。
「可もなく不可もなく……かぁ」
もしかしたら運命の出会いとか、積極的に攻めろとか、変化が現れるような占いがあれば、もしかしたら、また会えるかもと淡い期待をしていた自分に気づき、少し不機嫌になる。
「バッカみたい」
なにも変わらない朝……少しくらい変わってくれればいいのに。化粧も服装もばっちり。鏡の前には昨日とまったく同じ自分がいた。その前も、その前も、そしてこれからも?
「ふー、いきますか!」
別にふさいでなんかいない。わたしは何も変わっていないのだから、何を期待することがある。ただちょっと、素敵だなと思う人が現れて、そしていなくなっただけじゃない。こんな気持ちにゆれてしまうのは、あいつのせいなのか?
「あいつ、今頃どうしてるかなぁ」
携帯電話のアドレスを眺める。あいつと電話をしたのは……あれは確かパソコンがうまく動かないとかで、あいつからかけてきたんだっけ
「まったく、ユーザーサポートじゃないんだからね」
「ゴメン、ゴメン、他に頼れる人いなくて……」
電話口の向こうで、あいつが髪をかきむしりながら、それはそれは立派にはにかんでいる姿が目に浮かんだ。そして『他に頼れる人がいない』という言葉が、わたしの心を揺さぶった。
「もう!こんなことで夜中に電話かけてこないでよね」
ちがう。そうじゃない。わたしは夜中でも明け方でもいいから、かけて欲しいと思っている。だけど、それって何?わたしは何を期待しているの?何を望んでいるの?
「あー、そうか、あれ以来か……」
そうだった『あれ以来』電話で話していないし、『あれ以来』なんだ……眠れない夜を過ごしたのは。
玄関を開けると外はひんやりとした空気に包まれていた。昨日と同じだけど、この空気は昨日ここにあった空気じゃない。
パン!パン!
わたしは両手でほほを叩き、いつもの気合を入れた。高校時代陸上をやっていたわたしは、スタート前にいつもこうして集中してた。いつからか朝家を出るときは必ずこうやってほほを叩いている。家から駅まで10分。わたしの足取りはいつものようにしっかりと、軽やにいつものリズムを刻んでいる。スイッチが入ったわたしの頭の中は、今日のクライアントとの打ち合わせのことですでに頭がいっぱいになっていた。
『眠れぬ夜』
作詞・作曲:小田和正 歌:オフコース