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エピローグ

「本当に、ここ、閉めちゃうんですか?」

「そうだね。残念な気もするけど、永遠に続けることもできないからね」

「後継者が育たないとかですか?」

「育たないんじゃないんだ。ワシはこの店を他の誰かに任せるなんてことは、これっぽっちも考えてはせんのだよ」

「さみしいなぁ」

「そうじゃな。さみしいけど、もう十分じゃよ」

「もう十分?」

「そう、たくさんの人に愛されていろんな物語を見せてもらったし、ときには一緒に喜んだり、悲しんだりもして、まるで人生そのものじゃったよ」

「コーヒーの味も香りもわからないよな小娘がいうのはおこがましいですが、わたし、ここのコーヒー本当に大好きでした」

「そうかい、みんなそういってくれる。この店はなくなるけど、きっとみんなの心の中にいろんな物語と一緒に残ってくれるんだと、ワシは信じておるよ」


 喫茶店『AntiquesMelidy』が店を閉めると聞いたのは数週間前のことだった。この店での思い出は、どれも素敵なものばかり。わたしは3年ほど前にこの街を出て、今の旦那さんと一緒になった。あの人とは、一度もこの店に来た事がなかった。ううん。そうじゃない。ここには常に先客がいたから――わたしの素敵な思い出。


「先輩、お久しぶりです」

「先輩はよしてよ。もう上司とか部下とかじゃないんだから」

「でも、わたしにとっては先輩は先輩です!」

「で、そっちはどうなの?うまくいってる?」

「そりゃあもう、ばっちりです!」

「なにがよ」

「今度の彼、すっごくやさしいんですよ。まぁ、でも先輩の旦那さんには負けちゃいますけど」

「おいおい、そういう御世辞はいろんなところが痒くなるからやめんかい!」

「ははは、でも本当に素敵な旦那さんですよね。私がなかなかいい人にめぐり合えないのは先輩のせいですからね!先輩の結婚式に出て、このままじゃいけないって、本気で思いました」

「あ、あのね。あんたの前の彼氏もなかなかのいい男だったと思うけどね」

「えー、あれはダメですよ」

「あれって、オイ!罰当たりなことを言うでない!サッチン」


 結婚して、会社を辞めて家庭に入った。結婚式には部長をはじめサッチン、アッコ、キヨミみんなが祝福してくれた。今でも3人にはときどきメールやSNSで連絡を取り合っている。『AntiquesMelidy』のことを聞いたのはサッチンからだった。今のサッチンの彼氏がたまたまわたしが一人暮らししていた街に住んでいて、彼氏の家に遊びにいったときにそのことを知ったのだという。


「私的には、どうかなぁと思ったんですけど、一応報告しておいたほうがいいかなぁと思いまして」

「ありがとう、サッチン。『AntiquesMelidy』のマスターには本当にお世話になったから、ちゃんと挨拶しておかないとね」

「前の彼のこと、思い出してセンチメンタルモード突入ですか?」

「あ、あのねぇ」

「はい、わかっております。このことは他言無用ということで」

「わ、わかればよろしい。えっ、何よ、まさかあんた口止め料になにかおごれと?」


 結局サッチンに今度スウィーツバイキングをご馳走することになった。いや、それはむしろわたしが食べたいだけなのかもしれないが……


「で、マスター、ここ閉めてどうされるんですか?」

「コーヒーの愉しみ方を知らない子が増えているでな、おいしいコーヒーの入れ方を本にでもまとめてみようかと思っての」

「本って……作家にでも?」

「まぁ、そんなたいそうなものじゃないさ。何も後継者というのは特定の誰かである必要はないと思っての。一人でも多くの人にコーヒーの愉しみ方を伝えるにはどうしたら良いかなと考えていたら、本でも書いたらどうかって、ある人に薦められたんじゃよ」

「あー、なんかそれ、素敵かも。わたし、絶対その本買います!買ったらサインしてくださいね」

「おー、これは幸先がいい。もう予約が2件も入った」

「え?私以外もう予約している人がいるんですか?」


 マスターはにこにこと笑いながら、カウンターの下から何か箱のようなものを取り出した。


「実は本を書くことを勧めてくれた人が、これをワシにプレゼントしてくれたんじゃよ」

 見ると箱の中にはケースに納められた黒の万年筆が入っていた。

「へぇ、いまどき万年筆の贈り物なんて珍しいですね。でも素敵」

 マスターは大事そうに万年筆を眺めながら、わたしに言った。

「これはね。あなたのよく知る人からのプレゼントなんじゃよ」

「えっ?よく知っている人とって、まさか」

「二日ほど前だったかの。ふらっと現れて、東京に来たついでにどうしてもここのコーヒーが飲みたいって」


 胸がドキドキする。それはまるであの時の感覚。初めて彼に会ったときの、少女が恋をするような、甘酸っぱい思い。きっと今、わたしの顔は赤くなっている。思わず下を向いてしまった。

「元気そうじゃったよ。それから、よろしく伝えてくれと言っておった。きっとあなたが現れるだろうからって」


「嘘、そんなこと、どうして」

「この店ではなにも不思議なことじゃない。ワシはもっと数奇なドラマをいくつも見てきた。もしかしたらこの店には物語をつむぎだす、不思議な力があるのかも知れん」


 マスターがそういうと、お店に懐かしい音楽が流れだした。

「あ、この曲、懐かしい」

「たとえば音楽もそうじゃよ。その人が聞きたいと思っている音楽が、自然とラジオから流れることがある。きっと今、あなたはこの歌のように、甘くせつない想い出に充たされているんじゃないかな?」

「そうかもしれません。そういうことって、あるんですね」

「うん。うん。そうじゃな。おいしいコーヒーには素敵な物語と音楽、そして素敵な人が集まる。だからワシはコーヒーが大好きなんじゃよ」


 わたしはその曲を最後まで聴いて店をあとにした。すっかり変わってしまったこの街。でもあの頃と変わらないコーヒーの香りと心のどこかに引っかかっている曲に耳に傾ければ、セピア色の想い出が街を覆い尽くし、10年前にタイムスリップできる。2009年の冬。そう、彼と別れてから10年。街の風景は移ろいで行くけど、素敵な音楽とコーヒーの香りは何も変わらない。


 『土曜日のタマネギ』は、わたしの中で、大切な、大切な想い出。想い出の扉のカギ。背伸びしていた頃のわたしを見ることができる魔法の鏡。


 わたしはひとり、暮れなずむ街の中を『土曜日のタマネギ』を口ずさみながら歩いた。


  さよなら、ニンジン、ポ テト

  宇宙の果てにお帰り

  胸に残り火ごと 残部捨ててきたと思ったのに


 駅に向かう交差点。

 信号待ちをしているとき、ふと誰かの視線を感じた。まさか、まさか彼?


  おなべの底にタマネギ ひとりしがみついてる

  イヤヨ、アキラメナイ!…たぶんこれがわたしね


 それは彼に良く似た背格好のぜんぜん別の人だった。


  WHY.WHY.WHY? 今夜わたし

  いらないオンナになりました

  ころがる床の上


 安心をしたのか、残念だったのか――或いは、その両方だったのかもしれない。わたしは懐かしさとこそばゆさをお土産に、家路についた。


  バカげた小指のバンソーコ 見せるつもりだった

  いっしょに笑ってくれないの?

  いつもの土曜日なのに



 背伸びしていたわたし、バイバイ




 おしまい


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