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三日月

「台所は覗いちゃだめだよ」

「なんかあれね、鶴の恩返しみたいね」

「そう、だから絶対にいいというまでは開けてはいけません」

「もし覗いたらのどうなるのよ?」

「それは内緒」

「内緒なの?」

「うん、内緒」


 彼を表で待っていたわたしに「ゴメン、ゴキブリでもでたかな?」って笑いながら、声をかけてくれた。正直、問い詰められたら適当な言い訳が思いつかなかっただけに、彼の優しさがうれしくもあり、悲しくもあった。


「じゃあさぁ、覗かないから、その代わり、何か面白い話を聞かせてよ」

「面白い話?」

「うん、面白い話」

「むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」

「ふんふん」

「おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に……おっと、じゃがいもの皮むきどこだっけ」

「台所の引き出しの中にない?」

「おー、あった、これこれ、おばあさんが選択をしていると川上から大きな……」

「じゃがいも?」

「ちがうちがう、桃だよ、桃」

「手とか切らないでよ」

「大丈夫、桃は切っても指は切らないよ」


 それを幸せな時間といえばそうなのだろう。不倫とか、愛人とか、そういうのではなく、私たちは愛とか、セックスとかそんなんじゃなく、ただ、こうして会っているのが楽しくて、そして帰らなきゃいけない時間が来ると、ただただ寂しくて、仕方がなくなる。寂しいからまた会いたくなるし、それをこうして、一年近く繰り返してきただけ。


 つらいとか、悲しいとか、そういうことじゃなく、でもどこか後ろめたいのも事実。何よりも二人がそれを自覚して、お互いを気遣っている。もしも、もっと早くに出会っていたら……そんなことを思うことがあるけど、でもいつも答えは同じ。こうして出会わなければ、きっとお互いを見つけることはできなかった。こんなふうにしか、出会えなかったにちがいない。


「あー、なんかいい匂いがしてきた」

「あれ?もしかして匂いで料理わかっちゃう?」

「どうかな?もし間違っていたらシャクだから言わないもん」

「正解した方にはもれなく」

「もれなく?」

「おいしい料理がたべられます」

「えー、正解したい、正解したい」


 肉じゃがかカレーライスのどちらかで、たぶん肉じゃがだと思う。醤油の香りがしてくるかどうかで決まるけど……


「お!これはなかなか」

「えー、なになに、味見させて、味見」

「まだ、だめだよ」

 エプロン姿が妙に似合わない。彼は体が大きすぎる。でもその大きな背中はわたしを安心させる。男の人の背中はときに寂しそうに見えることもあるけど、彼の背中にはそういうくらい色はないように思う。


「ねぇ、まだぁ?お腹空いたよ~」

「もうできるよ。ちょっと待っててね。今茶碗とか用意するから」

「あっ……」

「え?どうしたの?」

「ああぁ……やっちゃった」

「え?何を」

「いや~、これ作るのに夢中になって、ご飯を炊くのをすっかり忘れちゃったよ」

「えー、でも、肉じゃがなら大丈夫じゃない?」

「あ、わかっちゃった?」

「わたしを誰だと思ってるの、肉じゃがの作り方を覚えて依頼、そのヴァリエーションでここまで食いつないできた女よ」

「す、すごいな。どこで感心していいのかがわからないところがすごいね」


 食卓に鍋一つ、それを囲む二人の間に甘く香る湯気が立つ。わたしが彼に始めて作ってあげたのは、肉じゃがだったかポトフだったか……思い出せないけど、その二つのうちのどちらかで、きっとそれは肉じゃがに違いがないのだと、今確信した。


「すごい!わたしよりも見た目が肉じゃが!」

 わたしはどんなふうに喜んだらいいのか、はしゃいだらいいのかわからなかった。うれしいことはうれしい。でも、なんでもそつなくこなす彼に少しだけジェラシーを感じてもいたし、何よりも彼の中に、わたしの部分、わたしが作って食べてもらった料理を覚えてくれたことに少しばかり動揺していた。


 このモヤモヤした感じは何なのだろう?すごくうれしいのに、後ろめたい気持ちがこみ上げてくる。このままじゃいけないと思えてくる。


 ホクホクのじゃがいもはちょうどいい火の通り加減で味も完璧にしみていた。おいしい。彼はきっとわたしなんかに出会わなくても、こんなふうに料理を作れたに違いない。


 彼も同じことを思っているのかな?


「こうして自分で料理を作って、おいしいって言って食べてくれるのって、結構うれしいものなんだね」

 そんなことをボソリと彼が言った。食べ終わった後、洗い物をわたしがするからと言っても、彼は最後までやるときかなかった。台所で食器を洗う彼の後姿。わたしはそのとき、初めて、彼の背中になんともいえない哀愁を感じたのを一生忘れない。男の人ってこういうふうに背中で泣くんだね。


 彼の心はここにはなかった。


 その日、わたしは明日は朝早くに用事があると嘘をついて、彼の部屋を早めに出た。わたしの部屋まで送ると彼は言ったけど、まだ早い時間だから大丈夫だと断ってしまった。わたしには自信がなかった。もし、彼がわたしの部屋まで送ってくれたら、きっとそのまま彼を引き止めてしまったに違いない。


 何かが変わろうとしている――そんな気がした。


「月が、なんだか寂しそう」

 夜空に三日月が浮いている。それは今にも消えてしまいそうなくらい細くて、石を投げつけたら壊れてしまいそうに見えた。もしそのとき、足元に小石が落ちていたのなら、きっとわたしは石を投げてしまったに違いなかった。仕方がないので夜空の三日月を指でなぞって、そしてその指で弾き飛ばしてみた。


 わたしには、三日月がくるくるとコインのように回って見えた。クルクルまわる三日月にふーっと息を吹きかけるとゆらゆらと回転を鈍らせて空からわたしの手のひらに落ちてきた。

「ごめんね。いま夜空に返してあげるから」

 眼を回している三日月を力いっぱい夜空に向かって投げ返した。三日月は冬の夜空に見事に突き刺さっている。なぜだか少し、わたしの胸にも何かが突き刺さったような痛みが走る。


「負けないんだから!」

 意味も無くわたしは意地をはって見せる。意味なんか必要ない。



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