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彼の部屋

「どうしたの?」

「え?あ、あ~、ちょっと考え事、ちょっと仕事のほうがね、煮詰まっていて」

「ねー、知ってる?『煮詰まる』って悪い意味で使う言葉じゃないみたいよ」

「え?そうなの?」

「本当は料理の鍋が煮詰まってもう食べごろ、美味しくできましたって意味で、考えが固まったときに使う言葉なんだって」

「あー、なるほど、それがいつの間にか、考えがうまくまとまらないみたいな、そんな意味で使われるようになったんだ。すごいね。よく知ってるなぁ」


 わたしは舌をだしながらとびっきりの笑顔を作りながら答えた。

「ちがうの、これね、ついこの前会社の上司に注意されたのよ。わたしが『煮詰まった~』って頭抱えてたら『ほー、いい考えでもまとまったのか?』ってね。でも、わたしは確信するわ。部長もきっと最近誰かに言われたのよ」


 彼はどこか上の空で、わたしのとびきりも通用しないようだ。コーヒーを一口、口に運ぶと、ふと、思い出したように彼は話し始めた。

「なるほど、そういうことか。きっと、最初は『行き詰まる』と言っていたのに、『行き』が『煮る』に変わっちゃたんだね。煮詰めた味噌汁やコーヒーが不味いから、なんとなく煮詰めるという言葉も最近は、悪い意味で使われるようになったからかもしれないね。まあ、それに『行き詰る』は思いつめた感じが強い表現だから、みんななんとなく使いたくなかったのかもね」


「ちょっと、それってなんか含みのある言い方ね」

「あ、ははは、べ、別に深い意味はなく、浅い思い出の話さ」

「もう、どうせわたしは料理下手ですよ」

 わたしには、浅い思い出よりも深い意味の方が問題だった。わたしは行き詰っている。

「そんなことないさ、そうだ。ねぇ?今日は僕が料理を作ってあげる。しばらく逢えなかった埋め合わせに」

「なんか素直に喜べない話の流れだけど、いいわ、お手並み拝見といきましょうか。で、何を作るつもり?野菜炒め?焼きそば?」


 わたしは別に嫌味を言ったわけではない。彼はおよそ一人暮らしを始めてからその二つと、チャーハンで暮らしていたのだ。その腕前はたいしたものなのだが、彼曰く、それ以上のことを覚える必要性を今は感じていないのだそうだ。


「さて、今日はね、ちょっと違うものを作ろうと思ってるんだ。というわけで、この後、僕はその食材を買いに行くから、先に僕の部屋に行って待っててくれないかな?食材を見られると、何を作るかばれちゃうから」

「なになに、そのビックなサプライズでもあるような意気込みは、期待と不安が渦巻いちゃう」

「期待と不安ね、どちらかというと不安に比重を置いてもらったほうが、この場合は気が楽かな」

「えー、そりゃーもう、6対4か7対3くらいで、不安な気持ちで待たせていただきます」

「それでも十分、期待値が高いね。その期待にこたえられるよう、頑張ります」


 コーヒーを飲み終え、喫茶店『AntiquesMelidy』――わたしたちの言うとところの『アンメロ』を出ると彼からカギを預かり、二人は分かれた。わたしは一瞬、このカギをどうにかしようかと考えた。


「合鍵を内緒で作って、ある日突然、夜這いをかけたら強盗と間違えて投げ飛ばされちゃうかな」

 彼は学生時代、柔道をやっていたそうだ。彼の柔道着姿は、それはそれは凛々しかったに違いないという妄想は、ひそかなわたしの楽しみである。それにしても、どこか似合わない。柔道着がというのではなく、気合とか、根性とか――さっきの『頑張る』もそう。彼は自然体のままで、すべての力を汗一つかかずに出せるような、妙な清清しさがある。『妙な』と言うのは、わたしにとっては褒め言葉だ。わたしはわたしが可愛く、愛しいと思ったものに対して、時々そういう表現を使うのは、周囲に対する、わたしの精一杯のはにかみなのだ。


 彼の部屋の前、いつもとはちがう緊張感。実際一人でこの部屋に入るのは初めてだ。一人でいたことはあっても、入るときは彼がいつも扉を開けてくれた。一緒に部屋に入るか、彼が出迎えてくれるか。


「案外と不安になるものね」

 自分がカギを開けて一人で彼の部屋に入る。どうでもないようなことが、すごく特別に思えるって、こういうことなのかと思いながら、わたしはカギを差し込み、カギを開けた。ガチャっと言う音が、とても冷たく感じられた。いつもとは違う、まるで他人の家に勝手に入るような違和感……ちがう、そう、まだわたしたちは他人同士なんだから、それは当たり前のこと……でも本当にそう?


 一瞬ドアを開けるのをためらい、もう一度カギを掛けようかと思った。

「下で、待ってようかな」


プルルルル、プルルルル……


 電話だ。彼の部屋の電話。とっさにカギを開けて部屋に入る。パンプスを脱いで、部屋に上がり、電話の前まで――受話器に手がかかる寸前で、ふと、我に返る。


「彼なら、きっと、携帯にかけるわよね」

 わたしは携帯の着信履歴を確認し、誰からも電話がないことを確認した。


「この電話にでたら、どうなるかな」

 でも、わたしは、悪女にはなれなかった。留守電に切り替わる前に、電話が切れた。誰からなのか確認するすべはないけど、わたしにはわかった。彼は電話に出れるときは3コール以内に電話にでる。彼をよく知る人物からの電話であることは、なんとなくわかった。

「これって、女の直感ってやつね。きっと、よかったわ。わたしが女だってことが、またひとつ、証明された瞬間だわ」


 わたしは部屋を出た。彼が来るまで、外で待つことにした。



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