ダンスはうまく踊れない
「あのー、糸くずがついてますよ」
近所のスーパーに買い物に来ていたわたしは、少しばかり高いキャベツとにらめっこをしていた。
「えっ?」
不意に後ろから声をかけられて、ビックリしたのもそうだけど、その男性が買い物カゴを床においてジェスチャーで糸くずの着いている場所を示してくれたことに、一瞬反応が遅れてしまった。
「失礼」
彼の大きな手がわたしのあたまについている茶色の糸をつまんでくれたときは、多分少女漫画の主人公が憧れの先輩に声をかけられてオドオドしているよううな様になっていたに違いない――思い出すだけでも顔が赤くなる。
「あー、あー、すいませ……あ、ありがとうございます」
誤ることではないのに、あまりにも――わたしったらかなり無防備な状態だったから――突然だったので、つい「すいません」と言いかけて慌てて言い直した。彼は糸くずをわたしに見せて、「どうぞ」というような目でわたしを見つめた。慌ててそれを受け取るわたし。
「キャベツ、高いですよね」
それはもう、わたしの体温を上げるのに十分な素敵な声で彼は言った。
「あー、そうですね。買うかどうか迷っちゃいますよね」
「しかし、迷ってもこれしかないから……」
そういって彼はキャベツひとたまを軽々と片手で掴み、キャベツをひっくり返して芯を眺めた。
「うん、これにしよう。それじゃ」
そういえば聴いた事がある。キャベツの選び方――芯が大きすぎるとダメなんだっけ……そうじゃない、糸くず!なんで糸くずなんか……
「あっ……あのときか」
夕方に打ち合わせに行ったクライアントはアパレル関係の会社だった。わたしはwebデザイナーで、そこで扱っている商品をいろいろと見せてもらったのだが、たぶん、そのときに体のどこかに着いたのか……なんにしても会社からここに着くまでの1時間弱の間、わたしは頭に糸くずをつけたまま、歩いていたことになる。なんという失態……
「あれ?糸くずは……どこ?」
わたしの手にはしっかりとその糸くずが握られていた。
「これって『運命の赤い糸』ってやつ?でも、わたしのは赤じゃなくて茶色なのね」
わたしは一歩踏み出して、少しばかり高いキャベツを買うことにした。
12月。スーパーには『年末セール』の文字が躍っている。どこかふさぎがちだったわたしの心は、少しだけ踊りだしたような気がした。ただそのダンスは少しばかりぎこちない。
わたし……
ダンスはうまく踊れない
部屋に着き、買ってきたものを冷蔵庫にしまう。
「あー、やだー、わたし、なにこんなにいっぱい買い込んでんのよー」
冷蔵庫の中は一杯になっていた。ひときは目立つのはキャベツひとたま。
「誰が食べるのよー」
わたしは男の人が食べる姿を見るのが好きだった。だから冷蔵庫の中にはすぐに炒めて食べられるような食材が入っていた。誰かとつきあっているときは……
「おい、どうした、あたらしい男でもできたか?」
冷蔵庫が不敵にわたしに問いかける。
「もうすぐオレもお払い箱か?」
バターン!
さっきまで浮かれていた自分が疎ましかった。
「なに考えてんだろうー、わたし」
いったいどんなひとなんだろう?
そう考えずにはいられなかった。その日寒がりのわたしが部屋の暖房を付け忘れていることに気付いたのは、シャワーから出たときだった。
『ダンスはうまく踊れない』
作詞・作曲:井上陽水 歌:高樹澪