悪女
まずいなぁ……
最近はすっかり、それが口癖になってしまった。どうしてなのか、なぜなのか、わたしにはよくわかってる。わかってて、どうしようもできないから、口をついてその言葉が漏れてしまう。
まずいなぁ……
「自分で作って、まずい、まずいって、大丈夫かよあれ」
「何いってんのよ、もう、本当にあんたは女心ってものがわかんないんだから!」
「ふん!わかるわけないだろう!おれはただの冷蔵庫なんだから」
最近、お気に入りのコーヒーカップと冷蔵庫がことあるごとに喧嘩をしている。なぜだかうらやましく思えてきた。もし、いま、わたしが彼と喧嘩をしたら、わたし、自分の思いをそのままぶちまけちゃうかもしれない。でも、もしかしたら、そのほうが楽なのかも……楽なのかな?
「それって、ぜんぜん問題の解決になってないじゃん!」
自分自身にそう言い聞かせる。あれ、そういえばこの言葉、最近どっかで使ったような……そうだ、この前会社で部長に噛み付いたんだった。なんのことだったかも思い出せない。ただ、イライラして、それで部長に思いっきりぶちまけちゃったんだった。
「部長、ごめんなさい」
食べかけの食器にラップをかける。考え事をしてうっかり焦がしてしまったシャケが恨めしそうにこちらを睨んでいる。
「明日、おにぎりにして会社に持っていきますから。今日はご馳走様です」
食べかけのシャケののった皿と交換にビールを冷蔵庫から取り出す。最近、晩酌の頻度があがっている。夏はビールだ!ってそんな健康的な飲み方じゃない。ビールをちびちびとまずそうに飲む。とても人には見せられない。
「楽しくないお酒は健康に毒だぞ」
不機嫌なトースターは目をそらしながらつぶやく。
「あらあら、すっかりお肌の曲がり角、気とつけないと事故起こすわよ」
洗面所の鏡は日を追うごとに口が悪くなる。わたしもそれに応戦する。
「落書きするぞ」
息を吹きかけて鏡を曇らせ、へのへのもへじを書き込む。
「下手クソ……」
ベッドにもぐりこむもなかなか寝付けない。そうだった。寝付けないから晩酌が増えたんだった。CDボックスからランダムに1枚取り出す。暗闇でスイッチを手探りで押す。なんどかミスりながらもCDをセット。ヴォリュームを少し絞って……なんで中島みゆきかな
2曲目の『悪女』を有無も言わせずスキップする。
「悪女なんかじゃないもん。悪女なんかに……なれない」
最後の曲14曲目の『ファイト!』が流れることには、わたしはすっかり夢の中にいたのだと思う。『ひとり上手』と『慟哭』がかすかに耳に残っている気がした。
「『大吟醸』って日本酒よね、あれ?焼酎だったかしら?」
「日本酒だよ。お前さんがべろべろに酔っ払って前後不覚になったお酒」
トースターは相変わらず機嫌が悪く、今朝も少しパンを焦がしていた。マーガリンを冷蔵庫に戻すとき、昨日の食べ残しのシャケが目に入る。
「いっけな~い、忘れてたよ。ごめん、もう時間がない……南無三!」
バターン!
自分が情けないという気持ちが心の底からこみ上げてくる。
「しっかりしないと!ファイト!」
パーンッパーン!
いつものように頬を両手で叩き、自分に気合を入れる。でもすっかりガス欠を起こしているわたしの心は、身体にエンジンをかけることができずにいた。すっかり支度を済ませて玄関を出ようとしたわたしは不意に目眩がして、思いっきりよろけてしまった。どうしてだろう。涙が止まらない。あー、わたし、いつの間にかぼろぼろになっている。
嗚咽が止まるのを待って、会社に連絡した。完璧な鼻声で最高の演技で
「ずいまぜん、ぎょうは、がぜで、やずみまず」
その後ベッドに横たわり、CDをかけた。今度は『悪女』を飛ばさずに聴いた。