言い出せなくて
「ねぇ、わたしたち、これからどうするの?」
たったそれだけのことなのに……でも、たったそれだけの事が、言い出せなかった。
言ってしまったらすべてが壊れてしまいそうだから、だから明日のことや来週のことなら話はできるけど、一年後、西暦2000年をどうんなところで迎えようとか、そういう話には、わたしもしなかったし、彼もしなかった。
まだ、いい。このままでいいの。
自分をごまかすことはいくらでもできると思った。でも初めて知った。他人をだますよりも、自分をだますほうが、はるかに忍耐が要ることだと。
ねぇ、今日、これからどうする?
わたしの口癖は「もう~」から「ネェ……」に変わってきたけど、彼もそのことには触れなかった。
でもそれは、突然訪れた。なんの前触れもなく。突然に……
「聞いて、ほしい事が、あるんだけど……いいかな?」
「イヤッ!」
と心の中で叫んだけど、わたしは沈黙によって彼にYESと答えた。答えるしかなかった。
「僕たちは名古屋で学生の頃に知り合って、それでね、彼女が先に短大を卒業して、社会人になったんだ。僕は大学3年、彼女は東京の会社に就職した。こういうパターンって普通はそこで別れ話になるのかもしれないけど、でも僕等は2年間の長距離恋愛を乗り越えて結婚したんだ」
彼は一つ一つの言葉を確かめながら、ゆっくりと静かに語り始めた。
「ボクは名古屋の会社に就職。彼女は東京の会社を辞めて名古屋で一緒に暮らした。ずっと一緒に居られると思った。だけど人間って不思議だよね。一つ屋根の下に暮らし始めたら、急にギクシャクし始めちゃって、ボクはこの通り不器用だから、そういうのを紛らわす事ができなくてね。ただでさえ残業が多かったのに、より一層仕事に没頭してね。同じ家に住んでいてもほとんど顔をあわせないような日々が続いたんだ」
彼は大きなため息を一つついてわたしを見つめた。彼にしては珍しく、自信なさ気で、まるで母親に自分がついていた嘘を告白する子供のようだった。
「で、どうしたの?」
「うん、で、こうなった」
「え?」
「うまくいえないんだけど、いや、いえないんじゃなくてよくわからないんだ。自分の事が」
「わかるよ」
「え?」
「わたしもそうだもん。わたしも自分のことがよくわからない。よくわからないから不安になるし、イライラもするわ」
「そうか、そうなんだ」
それは会話というよりも、懺悔に近い気がしたし、相手に何かを求めているのではなく、自分の心に向き合い、それを言葉に出しているような感覚。同じ場所にいながら、時間軸がすっかりズレてすれ違いを繰り返しながら、階段の踊り場で鉢合わせしたような。『急』でいて、『静か』で、約束された調和の取れないゆらぎのような感覚。
「ねぇ、前から聞こうと思っていたんだけど、コーヒーの入れ方を覚えたのって……」
「あれは誕生プレゼントだったんだ。結婚して最初の年の……でも使ったのはほんの数回だった。単身赴任が決まってこっちに来たとき、家から持ち出したものなんか衣類ぐらいしかなかったんだ。引っ越が片付いて落ち着いた頃に、荷物が届いてね。開けたらこいつが……正直、こたえたって言うか、別れのサインだと思ったんだ」
「それはきっとちがうと思うなぁ」
と、言いかけて、でも言い出せなかった。そんなこと、いえるはずがない。
今日は、長い夜になりそうだ。