サイフォン
「それにしても不思議よね」
「不思議?何が?」
「だって不思議じゃない。こんなコーヒーメーカー見たことないもん」
「あー、これね。まぁ、コーヒーメーカーっていうのとはちょっとちがうんだけど……」
「ふーん」
わたしは嘘をついている。コーヒーサイフォンのことは知っていた。わたしが不思議に思ったのは、ろくに料理もしない彼が、コーヒーの入れ方にこれだけのこだわりをもっていることだった。
「コーヒーサイフォンってなんか理科の実験みたいね」
「まぁ、なんというか、茶道みたいな?」
「え?茶道?」
「うん、茶道。たかがコーヒーだけど、されどコーヒーみたいな」
「ふーん。わたしなんかインスタントとドリップの区別もつかないけどなぁ」
「区別っていうか、味そのものが問題じゃないんだ」
「え?じゃぁー香りとか?」
「まぁ、厳密にはもちろん、味も香りも、口当たりも全然違うもんだけど、こうやってコーヒーを入れる、一つ一つの工程を楽しんでいるというか……うまくいえないけど」
「うまく言ってよ」
わたしはたまにとても意地悪なことを言う。そしてそんな時はきっと、本当に意地の悪い顔をしているに違いない。それを行っていたのはサッチンだったか、アッコだったか……
「そうだなぁ。ついつい一人暮らしだと、生活の面倒なことは省略しがちになるじゃない。『まぁ、自分だけだから』とか『誰も見てないからいいか』みたいな」
「あー、それわかるわかる。わたしも一人暮らし初めてすぐの頃とはいろんなことをショートカットするようになったかも」
「うん、そうなんだよ。だからこうして、コーヒー一杯を飲むのにある程度手間をかけることで、そうならないようにするって言うか、流されないようにするっていうか」
「へー、なんだか哲学的?」
「哲学的って言うよりかは、戒め?」
彼はわたしと話をしながらもサイフォンの準備を手早く進める。それはまるで15歳の少女が、憧れの化学の教師と話がしたくて、授業が始まる前に理科準備室に入り込んで忙しそうに次の授業の実験の準備をしている教師を眺めているような、そんな光景だった。
「アルコールランプって、なんか素敵ね」
「そうだね。ガスの炎は強いからね。ランプの炎はろうそくの炎ほど宗教的じゃないところがいいね」
「また、難しいこと言うんだからぁ……」
「そうかい?だってほら、ろうそくといったら、教会だったり、お寺だったり想像しない?」
「えー、普通は誕生ケーキとか、クリスマスケーキじゃない?」
「なんでも食べ物なんだね」
「もう!」
アルコールランプに温められた湯気が立ち上り、暖められたお湯がロートまで上がり、コーヒーの香りが寝ぼけた鼻を刺激して目を覚ませる。
「何度見ても飽きないよね」
「そうだね」
静かなときが流れる。二人の間を流れていく。同じ場所で、同じ時間を過ごしている。でも、どうしてこんなに不安になるの?どうしてあなたは遠くを見つめているの?
幸せな時間を過ごしながらも、わたしの頭の中には寂しげな音楽が流れていた。