第76章 政治のお誘い
第76章 政治のお誘い
六日町メガロポリスにある南越急行本社の最高経営責任者室には、連日のようにあらゆる立場の人々が訪れていた。年商数千億円を誇る大企業の経営者から、経営再生を願う地場産業の当事者、地域医療や福祉を支えるNPO団体の代表者まで、篠原賢人の卓越した洞察力と経営手腕、そして南越急行コンツェルンの持つ圧倒的な資金力と解決力を頼りにしてやってくる者の足は絶えることがなかった。
しかし、その日訪れた訪問者は、これまで対応してきたビジネス関係者や地域団体の長とは全く質の異なる存在であった。
「篠原CEO、お初にお目にかかります。与党・国民主体党新形県連代表を務めております、辻でございます」
応接セットのソファーに腰を下ろした男は、仕立ての良いスーツを身に纏い、眼光に特有の政治家らしい狡知と野心を滲ませていた。出されたジャスミン茶に軽く手を付けた辻は、自信に満ちた笑みを浮かべながら、手元の鞄から重々しい上質紙の書類を取り出し、テーブルの中央に静かに置いた。
「本日は、我が国民主体党の新形県連、ひいては党本部を代表いたしまして、篠原CEOに極めて重大なご要請に上がりました。……ズバリ申し上げましょう。次期衆議院議員総選挙において、新形選挙区から我が党の公認・推薦候補として立候補していただきたいのです」
辻の言葉に、部屋の隅で控えていた社長秘書が一瞬呼吸を呑んだが、篠原の表情は一切動かなかった。
辻は篠原の反応を確かめるように身を乗り出し、言葉に熱を込めて畳みかけた。
「篠原CEO、あなたの名は今や新形のみならず、日本全国、そして世界中に轟いております。廃線寸前だった第三セクター鉄道を買い買い、金融と産業の力でわずか数年にして時価総額数十兆円の巨大コンツェルンへと育て上げられた。さらに、新新形国際空港の建設やビーイング社の買収、モノレール網の整備に至るまで、あなたが成し遂げて来られた仕事は、もはや一民間の経営者の枠を遥かに超え、国家事業そのものです。国民も新形県民も、あなたが政界へ進出し、この国の経済と地方創生を直接指揮してくれることを熱望しております」
篠原は静かにジャスミン茶を一口含み、辻の顔をじっと見つめ返した。辻の狙いはあまりにも明白であった。圧倒的な資金力と知名度、そして何より圧倒的な地域住民からの絶大な支持を集める南越急行グループのトップを自党の看板に据えることで、盤石な票田と莫大な政治献金のパイプを手中におさめたいという永田町の思惑である。
だが、辻の要請はそれだけにとどまらなかった。
「そして……篠原CEO、話はあなた一人にとどまりません。南越急行の誇る最強の経営陣——最高財務責任者の大石専務、そして現場統括の古賀副社長のお二人にも、ぜひ比例代表、あるいは近隣の選挙区から我が党の推薦で一緒に出馬していただきたいのです。三人揃って国会へ登院していただければ、我が党としても即座に閣僚のポストをご用意する覚覚悟でございます」
「大石と古賀にも、ですか」
篠原は静かな声で短く問い返した。
「左様でございます! 財務の鬼である大石専務には財務大臣や金融担当大臣として国家の財政を再建していただき、現場のカリスマである古賀副社長には国土交通大臣として全国の地方インフラの再構築を指揮していただく。そして篠原CEOには、しかるべきタイミングで経済産業大臣、果ては内閣総理大臣として日本の舵取りを行っていただく……。これこそが、我が国民主体党が描く、新形から日本を変えるグランドデザインなのです!」
辻は興奮気味に身を乗り出し、自らの描く完璧な政治シナリオを力説した。
しかし、篠原の頭の中では、すでに冷徹なリスクシミュレーションが瞬時に組み立てられていた。
南越急行コンツェルンは、鉄道、金融、建設、製造、医療、エネルギー、航空、事故から商社に至るまで、極めて広大な「民間自前の独立生態系」を築き上げている。会社が特定の政党、それも与党と過度に密着し、役員が政界へ出馬してしまえば、これまで保ち続けてきた「政治的中立性」が一瞬で瓦解する。野党や批判勢力からの格好の標的となり、「政権与党と結託した巨大利権企業」という色眼鏡で見られることは避けられない。さらに、一度政治の泥沼に足を踏み入れれば、本来最優先すべき「地域住民への還元」や「現場の迅速な意思決定」が政治的思惑や党利党略によって阻害されるリスクが極めて高かった。
何より、篠原自身にも、大石にも、古賀にも、政治家になるつもりなど微塵もなかった。
『断る』——結論は最初から出ていた。
しかし、問題はその「断り方」であった。
相手は政権を握る絶対的な与党・国民主体党の新形県連代表である。無碍に突っぱねたり、与党の政治姿勢を批判するような野暮な断り方をすれば、「南越急行は与党に敵対的な姿勢を示した」と受け取られかねない。国交省や財務省、総務省といった各官庁を通じた法的な嫌がらせや行政指導、許認可の遅延など、政権与党が裏で張り巡らせることができる「政治的圧力」のリスクは無視できなかった。
「地域のために」と戦ってきた会社が、政治のくだらない面子潰しによって足を引っ張られることだけは、何としても避けなければならない。
篠原は深々と息を吐くと、穏やかで柔和な笑みを浮かべ、辻に向き直った。
「辻代表、我がグループの役員三人に対して、そこまで過分なご評価と期待を寄せていただき、大変光栄に思います。国家の未来と新形県民の幸せを思われる国民主体党様の高い志には、深く敬意を表する次第です」
辻の表情がパッと明るくなった。手応えを感じたように身を乗り出す。
「おお! では、ご快諾いただけますか!」
「……ですが」と篠原はすかさず言葉を挟み、一呼吸置いた。「これほど重大な国家と地域の未来に関わるご提案です。私個人の一存で即答することは、党に対しても、また我がグループの数十万人の社員や地域住民に対しても不誠実となってしまいます。大石、古賀とも熟慮を重ね、慎重に協議を重ねたいと考えます」
辻は少し肩をすかされたような顔をしたが、篠原の理路整然とした態度に反論の隙を見出せなかった。
「……なるほど。確かに篠原CEOのおっしゃる通り、電撃的な出馬発表に向けて社内の調整も必要でしょう。では、いつ頃ご回答をいただけますでしょうか?」
「一週間後、8日後の同じ時刻に、私どもの明確な回答をお伝えいたします。それまでは一切の情報を伏せ、秘匿としていただくようお願い申し上げます」
「承知いたしました! 良いご回答を心より楽しみにしておりますぞ!」
辻は満足げな笑みを浮かべ、書類を鞄に仕舞うと、足取りも軽やかに最高経営責任者室を後にした。
辻が去った部屋に、静寂が戻った。篠原は静かにジャスミン茶を飲み干すと、手帳を取り出し、翌朝の社内ミーティングの予定を書き込んだ。
翌朝、六日町本社の役員密室会議室。
重々しい扉が閉じられると、篠原の前に最高財務責任者の大石専務と、現場統括の古賀副社長が着席した。篠原は昨日の辻代表からの立候補要請の全容を、一切の脚色なく二人に説明した。
話を聞き終えた瞬間、古賀副社長が豪快に腕を組み、不快そうに顔を歪めた。
「おいおいおい、冗談じゃねえぞ! 永田町の政治家どもが、俺たちを看板にして集票マシンにしようって腹か! 政治家なんて柄じゃねえし、毎日スーツ着て永田町でペコペコお辞儀なんてできるかよ! 現場の保線員や新形のドライバーたちと一緒に汗かいてる方が百倍マシだ! 篠原さん、俺は100%辞退だぜ!」
古賀が即座に怒号を上げると、隣の大石専務も静かに眼鏡の位置を直し、電卓をパタンと閉じた。
「古賀さんの意見に全面的に同意します。政治家に転身するなど、我がコンツェルンの財務戦略にとっても、私個人にとっても何のメリットもありません。政治家になれば資産公開や毎年の政治資金収支報告で無駄なコストが発生し、何より南越フィナンシャル・グループの冷徹かつ迅速な投資判断が、政治的な思惑で歪められるリスクが高すぎる。私も絶対に辞退いたします」
二人の迷いのない即答を聞き、篠原は穏やかに頷いた。
「二人とも、ありがとう。私と全く同じ考えだ。我々が立つべき場所は永田町の議席ではなく、この新形の現場と、会社を支える社員や地域住民のすぐ隣だ。……だが、問題はどう断るかだ」
大石が鋭い光を眼鏡の奥に宿した。
「そこです。国民主体党は現在、政権の中枢にいる与党。ただ単に『政治に興味がない』『忙しい』と断れば、辻代表のプライドを傷つけ、『南越急行は我が党を軽視している』『野党寄りなのではないか』と政治的な報復の口実を与えてしまう。角を立てず、相手に『なるほど、それなら出馬を諦めざるを得ない』と納得させ、なおかつ与党との良好な関係を維持したまま完全に辞退する……至難の業ですが、完璧な理由を構築する必要があります」
「よし、三人で一週間かけて、ぐうの音も出ない『完璧な辞退のシナリオ』を作り上げよう」
こうして、南越急行の最高幹部三人による「対与党・波風を立てない辞退口実作成チーム」が始動した。
大石はすぐさま過去の政治資金規正法、公職選挙法、ならびに上場企業および第三セクター出身企業の役員が出馬した際の行政法上の解釈を精査した。古賀は現場の立場から「会社経営と公職の両立不可能性」を論理的に裏付けるデータを収集。篠原はそれらを一つの美しく、かつ反論不可能な最高のアピール文書へと昇華させていった。
一週間はあっという間に過ぎ去った。
約束の日の午後、国民主体党新形県連代表の辻が、再び期待に胸を膨らませて六日町本社の最高経営責任者室へとやってきた。辻の表情には「勝算あり」と言わんばかりの余裕が漂っていた。
応接セットには、篠原だけでなく、大石専務と古賀副社長の三人が揃って着席していた。
「辻代表、お約束通り、一週間熟慮を重ねた我々三人の最終回答をお伝えいたします」
篠原が静かに切り出すと、辻は身を乗り出した。「ええ! ぜひ吉報をお聞かせください!」
篠原は一呼吸置き、テーブルの上に一通の重々しい書簡を置いた。そこには「国民主体党新形県連様 ご要請に対するご回答並びに謹んでのご辞退について」と認可されていた。
辻の顔色が微かに変わった。「辞退……? 一体なぜですか、篠原CEO!?」
篠原は誠実極まる、しかし一切の隙もない穏やかな声で語り始めた。
「辻代表、まず最初にお伝えしたいのは、我が党様が我々三人のような一民間の事業者に目を留めてくださり、国家と新形のために出馬を要請してくださったその大高察と、深甚なるご期待に対し、心からの感謝と敬意を抱いているということです。その上で、我々が今回の出馬を断腸の思いで辞退せざるを得ない理由は、『我がグループが現在進めている国家級インフラ事業の完遂責任』と、『与党・国民主体党様が掲げられる公明正大な政治理念を、民間側から100%支えるという責務』にあります」
辻が眉をひそめた。「政治理念を、民間から支える……?」
大石専務がすかさずタブレットの画面を提示し、論理的な追撃を開始した。
「辻代表、ご存知の通り、我が南越急行グループは現在、総事業費3.2兆円に及ぶ『新新形国際空港』の建設、米国ビーイング社の買収に伴う『新形ギガファクトリー』の稼働、四泉市での『キオクシェア半導体工場支援』、および新形市全域における『天空銀河ライン・モノレール網再編』という、日本の産業基盤そのものを左右する数々の国家級巨大プロジェクトを、すべて『自前資金』と『民間経営責任』において主導しております」
大石は冷徹な数値を見せながら続けた。
「公職選挙法および関係法令の規定に基づけば、我々三人が国政選挙に立候補した場合、南越急行の最高経営権および決裁権をすべて停止、もしくは辞任しなければなりません。もし今、この数兆円規模の超巨大プロジェクトの最中に我々三人が経営の現場を離れれば、意思決定の停滞や資金調達の混乱が生じ、プロジェクトが数年単位で遅延する恐れがあります。それは新形県経済のみならず、日本国家全体の産業成長にとって計り知れない打撃となってしまいます」
辻は言葉に詰まった。「いや、しかし……それは優秀な後任に任せれば……」
そこで今度は古賀副社長が、力強い眼差しで熱っぽく語りかけた。
「辻代表、俺たちはな、与党・国民主体党さんが掲げている『地方の雇用を守り、強い産業を作る』っていう素晴らしい政治方針を、誰よりも現場で泥にまみれて実行してきた自負があるんだよ! もし俺たちが経営を放り出して政治家になっちまったら、今まで俺たちを信じてついてきてくれた数十万人の社員や、白根のじいちゃんばあちゃん、新形の現場の人間は誰が守るんだ? 政治の場に立つ先生方が『素晴らしい政策』を作り、俺たち民間の現場がそれを『圧倒的なスピードで実行する』。この両輪が揃ってこそ、新形も日本も良くなるんじゃないんですか!」
古賀の情熱的かつ説得力に満ちた言葉に、辻はぐうの音も出なくなった。
篠原は仕上げとばかりに、静かに手紙を押し出し、辻の目を見つめてトドメの言葉を告げた。
「辻代表。我々三人が議席をいただくこと以上に、民間経営者として現場に留まり、巨額の税収を新形県と国に納め続け、雇用を創出し、国民主体党様が進められる成長戦略を『最大の民間パートナー』として現場から全面的に支え抜くことこそが、最も国益に叶う道であると確信いたしました。もし我々が政治の場に出れば、党の公正な政治姿勢に対して『民間企業との癒着ではないか』という無用な野党からの批判を招き、国民主体党様の高い見識に泥を塗ることにもなりかねません」
篠原は一呼吸置き、深く頭を下げた。
「我々の能力の浅さゆえ、期待にお応えできず誠に断腸の思いでございます。しかし、今後とも国民主体党様が推進される新形県の発展とインフラ整備に対し、一民間企業として最大限の協力とご支援をお約束いたします。どうか、我々のこの苦渋の決断と、現場への強い責任感をご理解いただけますよう、心よりお願い申し上げます」
大石と古賀も、篠原に続いて深々と頭を下げた。
辻代表は、ぽかんと口を開けたまま、完全に言葉を失っていた。
「出馬を断られた」という事実は動かしようがなかった。しかし、その理由は「自分たちを評価してくれた与党への深甚なる感謝」「国家級プロジェクトを完遂させる民間としての責任」「与党の政治理念を現場から100%支えるという強い忠誠心」、そして「与党が野党から不当に批判されるのを防ぐ配慮」という、どこをどう突いても完璧すぎる「美談」と「正論」で埋め尽くされていたのである。
これを拒否したり、怒りを示したりすれば、かえって「与党側が国家プロジェクトの邪魔をし、企業の善意を踏みにじった」ということになってしまう。完全に角を立てず、波風を一つも立てずに、相手の出馬要求を無効化する完璧なチェックメイトであった。
辻は額の汗をハンカチで拭うと、苦笑いを浮かべながら、深くため息をついた。
「……わかりました。篠原CEO、大石専務、古賀副社長……お三人のお考え、そして現場と国家に対する並々ならぬ強い責任感、痛いほど理解いたしました。……我が党の身勝手な誘いで、皆様の決意を揺るがそうとしたことを、むしろお詫びしなければなりませんな」
辻は自ら立ち上がり、篠原の手を強く握りしめた。
「政治家として議席にお迎えできないのは痛恨の極みですが……今後とも、我が国民主体党の、そして新形県の最も頼もしい『民間のパートナー』として、変わらぬご協力をお願いいたしますぞ!」
「もちろんでございます。辻代表、ご理解いただき、心より感謝申し上げます」
篠原は穏やかな笑みを浮かべ、深くお辞儀をした。
辻代表は、清々しさすら漂う表情で、最高経営責任者室を後にしていった。与党との間に一切のしこりを残さず、むしろ「最も信頼できる民間の同盟者」としての絆を強化させての完全防衛であった。
辻が去った部屋で、古賀副社長が豪快に椅子に背をもたれかけ、大笑いした。
「ガハハハハ! 篠原さん、大石! 見事なもんだったな! あいつ、最後は『誘って申し訳なかった』って謝って帰りやがったぞ!」
大石専務も手帳を仕舞いながら、眼鏡の奥で満足げに口元を緩めた。
「ふう、ヒヤヒヤしましたが、公職選挙法と国家プロジェクトの責任論を絡めたのは正解でしたね。これで与党からの政治的圧力を完全に封じ込め、今後も南越急行の絶対的な政治的中立性と経営の自由を守り抜くことができます」
篠原はいつものようにポケットからジャスミン茶を取り出し、静かに一口味わった。
「政治の力は尊いものですが、我々の主戦場はどこまでもこの新形の地であり、現場で働く社員や地域の人々の暮らしの中にある。誰に忖度することもなく、自分たちの信じたレールを敷き続けることこそが、南越急行の誇りだからね」
窓の外には、新形の澄み切った空の下、完成した新形スカイラインの10両編成モノレールが静かに走り、遠くの寺尾沖からはビーイングの新型機「B7107」が誇らしげに大空へと飛び立っていく光景が広がっていた。
いかなる政治の波風も、ハゲタカの陰謀も寄せ付けず、南越急行コンツェルンはこれからも地域と人々の幸せのためだけに、どこまでも自由で力強いレールを未来へと敷き続けていくのだった。




