第152章 マンハッタンの残響と三人のためのシンフォニー
第152章 マンハッタンの残響と三人のためのシンフォニー
春。
ニューヨーク・マンハッタン。
国連総会で『グローバル・ベーシック・インフラ享受権条約』『国際現場労働尊厳憲章』『国際金融投機規制協定』という三つの歴史的国際法規を全会一致で採択させ、世界中の法秩序に不滅の足跡を刻んだ南越急行ホールディングスの三巨頭——最高経営責任者(CEO)篠原賢人、南越重工業社長兼グループ副社長の古賀、そして最高財務責任者(CFO)の大石専務。
国連での数日間にわたる張り詰めた激務を終え、マンハッタン五番街にあるグループ最高級ホテル『グランド・ラビット・ニューヨーク』のプレジデンシャル・スイートで、三人は静かに寛いでいた。
テーブルの上には、南越ビバレッジ特選一級品の温かいジャスミン茶と、南越アグリの米『新形黄金』を使った特製のお茶菓子。
窓の外を見下ろせば、夕暮れの茜色に染まるマンハッタンの摩天楼と、かつて第128章の『プロジェクト・ビッグ・アップル・ラビット』によって南越急行が全面再建したニューヨーク地下鉄の駅へと、吸い込まれていく市民たちの平和な笑顔が広がっていた。
「ふう……終わったな、篠原、大石。世界中の法律の親玉を相手に大立ち回りして、さすがの俺もちょいと肩が凝ったぜ」
古賀副社長が豪快に腕を回して首を鳴らした。
「お疲れ様、古賀。君の現場を想う熱い魂が、世界中の大使たちの心を動かしたんだよ」篠原が穏やかに微笑む。
ポーカーフェイスの大石専務も、手元のタブレットを置き、静かにメガネのブリッジを押し上げた。
「……法規採択に伴う各国の批准手続き、ならびに国際機関との連携システムの構築はすべて順調。向こう数年間、我がグループの事業基盤は国際法規上も完全に不可侵の絶対防壁を得ました。……完璧な任務完了です」
三人が安堵の息を漏らしたその時、スイートの重厚な扉がノックされ、ホテルの総支配人が緊張した面持ちで一通の重厚な封筒を銀のトレイに乗せて運んできた。
「篠原CEO、古賀副社長、大石専務。……先ほど、国連でのご公務を終えられたお三方宛てに、特別なお使いの方が直接お届けになられました」
差し出されたのは、最高級の羊皮紙に、格式高い金箔のカリグラフィーで文字が刻まれた格調高い招待状であった。
差出人の名を見て、篠原がわずかに眉を上げた。
『ニューヨーク・フィルハーモニック(The New York Philharmonic) 音楽監督・常任指揮者ならびに全楽団員一同』
アメリカ最古の歴史を誇り、世界の頂点に君臨する名門オーケストラからの直接の親書であった。
篠原が静かに封を切り、文面を読み上げた。
『親愛なる篠原賢人様、古賀様、大石様。
貴殿らが成し遂げられたニューヨーク地下鉄の奇蹟の蘇生、戦時下や荒廃地における人道支援、そして先刻の国連における全人類の尊厳を守る法規採択に対し、我々ニューヨーク・フィルハーモニック全団員より、言葉では表せぬ最大の敬意と感謝を捧げます。
つきましては、本日宵の刻、音楽の殿堂カーネギーホールにおきまして、貴方様方をお迎えする特別公演を催したく存じます。どうか、ご多忙の折とは存じますが、我々の音楽をお受け取りいただけないでしょうか』
「ニューヨーク・フィル……! あの世界一のオーケストラが、俺たちをコンサートに招待したいってのか!?」
古賀が目を丸くして身を乗り出した。
大石専務も静かに文面を凝視した。
「……カーネギーホールでのニューヨーク・フィルの公演。通常であればチケットは発売と同時に数分で完売し、世界中のセレブリティがプラチナシートを奪い合う最高峰の舞台です。しかも、本日のカーネギーホールの公式スケジュールには該当する定期公演の記載がありません。……完全な特設シークレット公演ですね」
篠原賢人は温かいジャスミン茶を一口含み、二人を見つめて穏やかに微笑んだ。
「ニューヨークという街を愛し、守ってきた音楽家たちからの、心からの贈り物だ。……古賀、大石。一張羅に着替えて、彼らの想いを受け取りに行こうじゃないか」
午後七時。
マンハッタンの夜風が心地よく吹き抜ける第七番街と五十七丁目の交差点。
赤レンガとテラコッタの重厚な外観を持つ、世界中の音楽家にとっての聖地——『カーネギーホール(Carnegie Hall)』の正面玄関に、本産自動車が誇る最上級AIリムジン『ぶーぶーん・ロイヤル・リムジン』が静かに滑り込んできた。
車から降り立った三人の姿は、まさに圧巻であった。
篠原賢人CEOは、イタリアの最高峰サルトが仕立てた漆黒のタキシードに、深みのある濃紺(南越ブルー)のシルクボウタイを締め、優雅で気品あふれる立ち姿。
古賀副社長は、南越重工業の職人魂を象徴するかのような、仕立ての極めて良い総手縫いのディナージャケットに身を包み、堂々たる威厳と温かみを漂わせている。
そして大石専務は、寸分の狂いもなくアイロンが当てられた白のイカ胸シャツに、完璧なカッティングの燕尾服を纏い、知性と冷徹な美しさを放っていた。
三人がカーネギーホールの重厚なエントランスをくぐると、そこには異様な光景が広がっていた。
普段であれば、イブニングドレスやタキシードを着飾った何千人もの観客でごった返し、シャンパングラスの触れ合う音とざわめきに包まれているはずのホワイエ(ロビー)に、観客の姿が一人も見当たらない。
ただ、ホールの総支配人と数名の案内係だけが、背筋を伸ばして三人を出迎えた。
「ようこそお越しくださいました、篠原様、古賀様、大石様。本日は、すべて皆様方のためだけに整えられております。どうぞ、メインホールへ」
案内されたのは、カーネギーホールの心臓部である『アイザック・スターン・オーディトリアム(メインホール)』であった。
案内係が、重厚な防音扉を静かに押し開く。
足を踏み入れた瞬間、三人は息を呑んだ。
五層のバルコニー席、金箔で彩られた華麗なアーチ、真紅のベルベットで覆われた客席——収容人数二千八百人を誇るその巨大で壮麗な大ホールに、客席の明かりは落とされ、人影は一つも存在しなかった。
二千八百のシートの中に、ポツンと、中央のベストポジション(一階平土間・最良音響席)にだけ、三脚の真紅のアームチェアが並べられている。
「……おい、大石。これ、どういうことだ?」古賀が思わず小声で囁いた。
大石専務がメガネの奥の目を見張り、息を呑んだ。
「……信じられません。カーネギーホールを完全封鎖……全館貸し切りです。今夜、この二千八百人収容の巨大な空間にいる観客は、篠原CEO、古賀副社長、そして私の……『三人だけ』です」
篠原賢人は、静まり返ったホールの空気を胸いっぱいに吸い込み、優しく微笑んだ。
「彼らは、自分たちのすべての音を、我々三人だけに届けようとしてくれているんだ。……座ろう」
三人は、静かに中央のアームチェアへと腰を下ろした。
三人が席に着いた瞬間、ステージの天井から、柔らかな温かいスポットライトがステージ全体を一気に照らし出した。
ステージ上には、黒の正装に身を包んだ、総勢百名を超える『ニューヨーク・フィルハーモニック』の世界的名手たちが、すでにそれぞれの楽器を手に整然と着席していた。
第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの弦楽器群。
ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバの輝かしい金管群。
フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットの澄み渡る木管群。
そして背後にそびえるティンパニや打楽器群。
世界最高峰の百数十本の楽器が放つ、ピンと張り詰めた圧倒的なオーラが、無人の客席に座る三人の肌をビリビリと震わせる。
コンサートマスターが静かに立ち上がり、オーボエが「ラ(A音)」の音を鳴らす。
ポォォォォン……。
静まり返った二千八百人分の空間に、極めて純度の高い一筋の音が響き渡り、弦楽器と管楽器が次々と音を合わせていく。その調弦の響きだけで、カーネギーホールの完璧な音響空間が、まるで巨大な生き物のように呼吸を始めた。
舞台袖から、世界的な巨匠である常任指揮者が静かに歩み出てきた。
指揮者は、無人の客席の中央に座る篠原、古賀、大石の三人にまっすぐ向き直ると、深く、長く、心からの敬意を込めて一礼した。
客席からは、篠原、古賀、大石の三人だけの、静かで温かい拍手が送られた。
指揮者は指揮台へ上がり、タクト(指揮棒)を構えた。
ステージが完全な無音の静寂に包まれる。
息を呑む音すらホール全体に響き渡りそうなほどの、極限の静寂。
そして——タクトが、夜空に軌跡を描くように、優雅に振り下ろされた。
最初にホールを満たしたのは、アントニン・ドヴォルザーク作曲、交響曲第9番『新世界より』の冒頭であった。
かつて19世紀末、アメリカの息吹と多様性に感動したドヴォルザークが、このニューヨークの地で書き上げ、まさにこのカーネギーホールでニューヨーク・フィルによって世界初演された、不滅の大傑作である。
ズゥゥゥン……と地底から湧き上がるような低音弦の響き。
続いて、静けさの中から、木管楽器がどこまでも切なく、温かいメロディを紡ぎ出す。
(これは……!!)
古賀副社長の背筋に、猛烈な鳥肌が立った。
観客が三人しかいないからこそ、音の一粒ひと粒が、空気の壁に遮られることなく、直接身体の細胞へダイレクトに突き刺さってくる。
ニューヨーク・フィルの放つサウンドは、世界一と称される圧倒的な力強さと、ビロードのように滑らかな艶を帯びていた。
第一楽章の主部に入った瞬間、金管楽器とティンパニが爆発的な咆哮を上げた!
ドガァァァン!!
それはまるで、南越重工業のギガファクトリーでプラズマ炉が火を噴き、大地を揺るがせて巨大なシールドマシンが前進するような、圧倒的な「モノづくりのエネルギー」そのものであった。
古賀の脳裏に、かつて赤字ローカル線の冷え切った車庫で、油まみれになってボルトを締めていた若き日の記憶が、鮮烈に蘇った。
誰も見向きもしなかった小さな鉄道が、仲間たちと知恵を絞り、汗を流し、いつしか世界を動かす巨大なレールへと育っていったあの情熱が、オーケストラの怒涛のシンフォニーと完璧に重なり合っていく。
「すげえ……! なんだこの音は……! まるで、俺たちの命の鼓動そのものじゃないか……!」
古賀の節くれだった手が、膝の上でギュッと握りしめられた。
そして、音楽は第2楽章『ラルゴ(家路)』へと移り変わった。
静寂の中、イングリッシュホルンが、あのあまりにも有名な、夕暮れの哀愁に満ちた旋律を静かに歌い始める。
ポロロン……と寄り添う弦楽器のピチカート。
その音色を聴いた瞬間、最高経営責任者(CEO)篠原賢人の瞳が、静かに潤んだ。
彼の脳裏に浮かんだのは、六日町の白銀の雪景色、大野川の花火大会で見上げた子供たちの笑顔、そしてキーウの地下105メートルで「空が見える」と喜んでいたあの少女オリガちゃんの姿であった。
どれほど会社が大きくなろうと、どれほど宇宙の果てへ進出しようと、人間が最後に帰る場所は、愛する人が待つ温かい家であり、ふるさとの風景である。
ニューヨーク・フィルの団員たちは、一人ひとりが楽器に魂を込め、篠原たちが世界中で守り抜いてきた「人々の暮らしの温もり」への感謝を、一音一音に託して届けていた。
タクトを振る指揮者の目にも、熱い光が宿っていた。
かつて犯罪と老朽化で荒れ果てていたニューヨークの地下鉄を、南越急行が24時間運行を止めずに救い出し、市民に光を取り戻してくれたことへの、ニューヨーカーとしての魂の返礼が、そこにあった。
フィナーレの第4楽章。
弦楽器が激しいリズムを刻み、トランペットとホルンが運命を切り拓くかのような、勇壮無比なメインテーマを高らかに吹き鳴らす!
ジャン! ジャジャジャン! ジャジャジャン!!
それは、あらゆる困難、不条理な特許トロール、悪徳ハゲタカファンド、そして国家間のエゴを打ち砕き、どこまでも真っ直ぐに未来へ伸び続ける「南越急行の不滅のレール」そのものの躍動であった。
百名を超える名手たちの全エネルギーが一つに融合し、カーネギーホールの音響空間が極限まで飽和する。
ドンッ!!
最後の一撃がホールに炸裂し、音が静かに天蓋へと吸い込まれ、数十秒間におよぶ完全な静寂が訪れた。
……静寂。
やがて、客席の中央から、篠原、古賀、大石の三人が同時に立ち上がり、ホールが割れんばかりの力強い拍手を送った。
パチパチパチパチパチパチ……!!
たった三人の拍手が、無人の大ホールの空間に美しく反響し、ステージの楽団員たちを包み込んだ。
指揮者が振り返り、満面の笑みで三人に深く頭を下げた。楽団員たちも一斉に立ち上がり、足を踏み鳴らし、弓を掲げて三人に敬意を表した。
すると、指揮者がマイクを手に取り、静かに客席へ語りかけた。
「篠原様、古賀様、大石様。……今夜、我々の感謝の演奏をお聴きいただき、心より御礼申し上げます。皆様がこの街に、そして世界に届けてくださった希望の光に、我々からもう一曲だけ、特別なアンコールを捧げさせてください」
指揮者が再びタクトを構えた。
始まったのは、ジョージ・ガーシュウィン作曲、『ラプソディ・イン・ブルー』であった。
冒頭、クラリネットが滑らかなグリッサンドで、夜空へ駆け上がるような青いメロディを奏でる。
ピアノの煌びやかなカデンツァ、ジャズの躍動感、そしてマンハッタンの活気と多様性を象徴する壮大なアンサンブル。
そのあまりにも自由で、生命の喜びに満ちあふれた音楽を聴いていた時であった。
ポーカーフェイスで知られる「財務の鬼」大石専務の頬を、大粒の涙がとめどなく溢れ出し、顎を伝ってタキシードの胸元へとこぼれ落ちた。
大石は、胸に手を当て、震える息を吸い込んだ。
(……ああ。数字ではない。利潤でもない。我々が守り、繋いできたものは……この、人間が生きていることの歓喜そのものだったのだ……)
寿司を口にして涙を流す時と同じ、いや、それ以上に純粋な「命の美しさ」への感動が、大石の全身を貫いていた。
大石はハンカチを取り出すことも忘れ、ただただ涙を流しながら、ステージの音楽を全身で受け止め続けたのである。
コンサートが終わり、夜十時。
カーネギーホールの重厚な扉を出た三人は、マンハッタンの澄み切った春の夜空を見上げた。
通りの向こうからは、南越急行が再建した地下鉄『セカンド・アベニュー線』の駅へ向かう人々の足音と、ジャズクラブから漏れ聞こえるサックスの音が、心地よい街のざわめきとなって響いていた。
古賀副社長が、まだ火照った顔を夜風に晒しながら、豪快に笑った。
「……参ったな。一生分の贅沢をしちまったぜ。あんな凄いもんを三人だけで聴かせてくれるなんてよ……。モノづくり屋として、最高の刺激をもらったな」
大石専務も、目元を拭い、静かにメガネのブリッジを押し上げた。
「……はい。数字や契約書では測ることのできない、人間の魂の最高傑作でした。我がグループが投じてきたすべてのインフラ事業は……あの音楽のように、人々の心を震わせるためのものだったのだと、深く再認識いたしました」
篠原賢人CEOは、温かい眼差しで二人の相棒を見つめ、優しく微笑んだ。
「大石、古賀。オーケストラと同じだね」
篠原の静かな言葉に、二人が深く耳を傾ける。
「一人ひとりの職人、エンジニア、運転士、そして支えてくれる仲間たち。誰一人欠けても、世界を救うシンフォニーは奏でられない。我々南越急行グループが走らせるレールは、全人類の希望の音色を乗せて走る『不滅のオーケストラ』だ」
渡辺前社長が遺した不滅の言葉——「会社は人より長く生き続けるべきもの。稼いだ金は未来を信じる魂だ」。
マンハッタンの夜空の彼方、星々の海へ向かって、南越急行の走らせる無限のレールは、美しい音楽の余韻とともに、どこまでも、どこまでも力強く、輝かしく伸び続けていくのだった。




