第131章 アフリカの南端と極上の白波
第131章 アフリカの南端と極上の白波
ヨハネスブルグにおける前代未聞の都市再生および地底地下鉄貫通プロジェクト『ジョバーグ・メトロ・ループ』が完全なる軌道に乗り、世界最悪の犯罪都市と呼ばれた街が「アフリカで最も安全で美しいメガロポリス」へと劇的な変貌を遂げてから、わずか二週間後のことである。
南アフリカ共和国の空を、一機の洗練された小型プライベートジェットが南へ向かって滑らかに旋回していた。南越エアラインズの特注機『ラビット・ジェット・VIP』である。
機内の本革シートに、ポーカーフェイスのまま腰掛けていたのは、南越急行ホールディングス最高財務責任者(CFO)の大石専務であった。
手元のタブレットには、南アフリカ全土における数十兆円規模の不動産ポートフォリオや、地下鉄コンセッションの収益シミュレーションが映し出されている……かと思いきや、彼が食入るように注視していたのは、南アフリカ南端・ケープタウン沖の海流図と水温データ、そして世界中のマグロの回遊ルートを記録した極秘データベースであった。
「……南緯三四度、大西洋とインド洋がぶつかる暖流と寒流の交差点。南半球屈指の極寒の海で身が引き締まった、最高の『極南天然ミナミマグロ(インドマグロ)』……」
大石はポシェットから温かいジャスミン茶(南越ビバレッジ特選一級品)を取り出し、静かに一口含んだ。メガネの奥の目が、決算発表のときよりも鋭く、かつ妖しいまでの熱を帯びて光っている。
そう、「冷徹な財務の鬼」としてウォール街やヘッジファンドを恐怖に陥れてきた大石専務の真の顔——それは、南越急行グループ内でも誰もが認める、無類の「大の寿司好き」であった。
アデン湾でのジブチ・ギガファクトリー建設の際も、彼の寿司への情熱が世界中の海賊を撲滅し、二兆円規模の巨大な水産エコシステムを生み出したことは記憶に新しい。
今回、ヨハネスブルグの難事業を完璧な黒字で完工させた大石は、篠原賢人CEOと古賀副社長に「ケープタウン地区での新規水産・流通投資の現地視察」と称して、単身、国内線で南アフリカ南端の港町ケープタウンへと向かっていたのである。
「アフリカの最南端で出逢う、極上の白身と漆黒の脂……。今回は仕事ではありません。純粋なる『食』の探求です」
大石のポーカーフェイスの口元が、誰にも見られない機内でごく微かに緩んでいた。
南アフリカ・ケープタウン。テーブルマウンテンの威容が背景にそびえるこの美しい港町は、かつて大航海時代から東西海洋貿易の要衝として栄え、現在では世界有数の遠洋漁業の巨大基地として知られている。
特に大西洋の荒波と南極からの冷たい海流が交差するケープ沖は、世界中の寿司職人が喉から手が出るほど欲しがる、極上の天然ミナミマグロやバチマグロが揚がる伝説の漁場であった。
午後一時。ケープタウンの賑やかな「V&Aウォーク・フロント」から少し離れた、静かな造船所近くの路地裏。
古い赤レンガの建物の軒下に、控えめな和風の暖簾が揺れていた。暖簾に書かれた文字は『寿司 岬』。
大石は静かに暖簾をくぐり、引き戸を開けた。
店内は、樹齢数百年と思しき見事な一枚板の桧カウンターが据えられ、清潔な白木のかおりと、微かな酢の香りが漂っていた。カウンターの奥で包丁を研いでいたのは、白髪交じりの頑固そうな日本人店主、大将の吉村(60代)であった。
「いらっしゃい。……ほう、日本からのお客さんかい」
吉村大将は大石の仕立ての良いスーツと、ただ者ではない静かな佇まいを一目で見抜き、包丁の手を止めた。
「大将。本日の最高のマグロを、握りでいただきたい」
大石が低く静かな声で注文を出した。
しかし、吉村大将はすぐに木箱を開けようとはせず、腕を組んで大石をじっと見つめた。
「お客さん……アンタ、相当な『口(舌)』を持ってるな。目を見れば分かる。……だがね、今日うちのネタケースにあるマグロを出しても、アンタを満足させることはできねえ」
「なに……?」大石の眉が、ピクリと動いた。
吉村大将は窓の外の青い大西洋を指差した。
「いまケープ沖の極寒の海で、一ヶ月以上に及ぶ死闘を繰り広げている一隻の伝説的な遠洋マグロ漁船がある。『ロイヤルバウンティー号』だ。船長は極南の海を知り尽くしたベテランでね。彼らが一本釣りで揚げた一〇〇キロ超のミナミマグロは、船上の急速冷凍技術も完璧で、身の締まり、脂肪の乗り、血合いの美しさ、どれをとっても『世界最高峰』と言っていい」
吉村大将はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「そのロイヤルバウンティー号が、時化を突いてこのケープタウンの港に入港するのが……ちょうど『3日後』なんだ。俺はその船の1番マグロの腹上(はらかみ・最も上質な大トロ部位)を丸ごと一本買い取る約束をしている」
吉村は大石の目をまっすぐ見つめた。
「もしアンタが、人生で一度出会えるかどうかの『本当のミナミマグロ』を食べたいなら……3日後の夜、もう一度ここに来てくれ。俺が持てるすべての技術をかけて、世界一の握りを握ってやるよ」
大石専務は静かにメガネのブリッジを押し上げた。
金融市場で数兆円のディールを動かす男が、目の前の頑固親父の提示した「3日後の約束」に、胸の奥が熱く高鳴るのを禁じ得なかった。
「……分かりました。3日後の夜、開店と同時に伺います」
大石は一切の迷いなく頷き、ジャスミン茶の代金を置いて店をあとにした。
「3日後」までの時間。いつもなら一秒単位でスケジュールを詰め込み、世界中の決算や株価を監視している「財務の鬼」大石専務にとって、それは人生で初めて経験するような、贅沢で静かな「空白の時間」であった。
せっかくケープタウンに留まることになった大石は、南越急行ホールディングスの設立以来、一度も取ったことのなかった「完全な個人休暇」を過ごすことを決意した。
【1日目:テーブルマウンテンとカーステンボッシュ植物園】
大石は、ケープタウンの象徴である標高1,086メートルの『テーブルマウンテン』へ向かった。
回転式の最新ロープウェイに乗り、山頂の平らな大台地へ降り立つと、そこには360度の大パノラマが広がっていた。眼下には大西洋とインド洋の深い青、そしてケープタウンの白い街並みが広がっている。
「……素晴らしい景色です。この地の海流が、あの極上のマグロを育むのか」
山頂の冷たく清らかな風を受けながら、大石はポシェットから南越ビバレッジ特選のジャスミン茶を取り出して口に含んだ。普段は数字の羅列しか映らない彼の脳裏に、ケープの雄大な自然の美しさが染み込んでいく。
午後には、世界遺産にも登録されている『カーステンボッシュ国家植物園』へ足を伸ばした。
東側の山麓に広がる広大な園内には、南アフリカ固有の植物群が咲き乱れている。大石は静かに木々の遊歩道を歩き、鳥のさえずりに耳を傾けながら、日頃の過酷な金融戦での疲労を、細胞レベルで癒していった。
【2日目:野生ペンギンの海岸と喜望峰】
2日目、大石はレンタカー(本産自動車の最上級AI電気自律車『ぶーぶーん・ラグジュアリー』)を自ら運転し、ケープ半島の南端を目指した。
途中に立ち寄ったのは、野生のアフリカペンギンが無数に生息することで有名な『ボルダーズ・ビーチ』であった。
花崗岩の巨石が転がる白い砂浜で、体長60センチほどの小さなペンギンたちが、波と戯れ、ペタペタと歩き回っている。大石はデッキの欄干に身を乗り出し、ペンギンたちの愛らしい姿をカメラ(新形テレビ20特製の超小型8Kカメラ)で静かに撮影した。
「……ほう。群れを乱さず、冷たい海へ勇敢に飛び込んでいく。まるで我がグループの社員たちのようだ」
ポーカーフェイスのまま、独り言を呟く大石。
そして夕刻、大石はついにユーラシア・アフリカ大陸の最南西端、歴史的な『喜望峰(Cape of Good Hope)』へと到達した。
断崖絶壁に荒波が打ち付け、白い泡(白波)が渦を巻いている。大西洋の冷たい風と、インド洋の温かい風が激しくぶつかり合うその場所で、大石は佇んでいた。
この荒れ狂う海の向こう、何百キロも離れた南極海近くの寒冷海域で、いま吉村大将の言っていた『ロイヤルバウンティー号』が、巨大なミナミマグロを抱えて嵐を乗り越え、この港へ向かって航行しているのだ。
「明日……最高の状態で逢いましょう」
大石は静かに水平線へ向かって頭を下げた。
そして、運命の3日目の朝。
ケープタウンの東港ターミナルに、全身にしぶきと塩を浴びた一隻の漆黒の遠洋マグロ漁船『ロイヤルバウンティー号』が、力強いエンジン音を響かせて静かに入港した。
甲板からは、過酷な一ヶ月の航海を終えた男たちの力強い歓声が上がっている。
クレーンで船倉から吊り上げられたのは、南極海の冷水で極限まで身が引き締まった、胴回り一メートルを超える超巨大なミナミマグロであった。その魚体は暗闇の中で銀色と漆黒の美しい輝きを放ち、氷漬けにされた魚体からは生命の息吹すら感じられた。
港で待機していた吉村大将が、鋭い目つきでマグロの尾切り部分(品質チェック)を確認し、深く頷いて最高額でその「腹上」を買い取っていく姿を、大石は遠くの車内から静かに見届けていた。
同日、午後七時。
ケープタウンの街に夜帳が降り、冷たい海風が吹き抜ける頃。大石専務は約束通り『寿司 岬』の暖簾をくぐった。
店内には、今朝上がったばかりの極上ミナミマグロから漂う、甘く濃密な脂と芳醇な鉄分の香りが満ちていた。
「いらっしゃい、お客さん……約束通り来てくれたな」
吉村大将は、清潔な白衣に身を包み、鋭い眼光でカウンターの中央を指し示した。
大石が席に就くと、吉村大将は目の前に置かれた見事な黒御影石のつけ台を、サッと拭き上げた。
「今朝入港したロイヤルバウンティー号の1番マグロだ。仕込みは完璧だ。……言葉はいらねえ、食ってみてくれ」
吉村大将の手が素早く動き始めた。
人肌に温められたシャリ(新形県産コシヒカリの特選米)が、吉村の手の中で空気を孕んでふんわりと解け、その上に、見事なサシ(霜降り)が入った赤身と脂のグラデーションが美しいミナミマグロの『大トロ』が乗せられた。
刷毛でサッと一塗りされた煮切り醤油が、漆黒の御影石の上で艶やかに光る。
「第一貫……ミナミマグロ、腹上・大トロだ」
大石は静かに息を整え、指先でその一貫を持ち上げた。
シャリの温もりと、手のひらに伝わるマグロの脂の体温による溶け出し。
大石は静かにそれを口の中へ運んだ。
その瞬間——大石専務の脳内で、衝撃の「金融ビッグバン」が巻き起こった!
(ん……!? な、なんだこれは……!!)
口に含んだ瞬間、舌の上でミナミマグロの脂が、まるで春の淡雪のように一瞬でサラリと滑らかに溶けて広がった。
続いて押し寄せてくるのは、南極海の冷たい海流が育んだ、力強くも上品な赤身の深い旨味と酸味。そして、吉村大将が絶妙な塩梅で合わせた酢飯の香りと粒立ちが、マグロの脂と完璧に融合し、喉の奥へと甘やかな余韻を残して消えていったのである!
大石専務は、思わず目を閉じ、両手をカウンターの上で硬く握りしめた。
ポーカーフェイスで知られるあの「財務の鬼」の目から、一すじの熱い涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
「……素晴らしい。極上の脂肪分でありながら、一切のしつこさがない。寒流と暖流が交差するケープの海の荒々しさと、大将の繊細極まる仕込みの技が、口の中で完璧な調和を奏でている……!」
吉村大将は大石の涙を見て、満足そうにニヤリと笑った。
「分かってくれたか、お客さん。これが、命がけで荒海へ出た漁師たちと、俺たち職人が命を懸けて届ける『本物のマグロ』だ」
続いて吉村大将が出したのは、マグロの酸味と香りが際立つ『赤身の漬け』、そして脂の甘みと歯ごたえが絶品な『中トロの炙り』、さらには大トロと沢庵を絶妙に刻んだ『トロタク巻き』であった。
一貫食べるごとに、大石の胸の中には、言葉にならない深い感動と感謝が込み上げてきた。
至高のマグロ尽くしを堪能し、心お腹いっぱいになった大石専務は、温かいお茶を飲みながら、静かに吉村大将に向き直った。
「吉村大将。今日のこの一貫は、私の人生で食べたあらゆる料理の中で、間違いなく世界最高峰でした。……感謝します」
大石は深々と頭を下げた。
吉村大将は照れくさそうに頭を掻いた。
「へへっ、職人冥利に尽きるよ。……ところでのお客さん、アンタ、ただの観光客じゃねえだろ? その凄まじい眼光と、ただ者じゃない雰囲気……一体何者なんだい?」
大石はポーカーフェイスの口元に、かすかな微笑を浮かべ、内ポケットから一枚の名刺を取り出して手渡した。
名刺に刻まれた文字——『南越急行ホールディングス株式会社 代表取締役専務兼CFO 大石』。
名刺を見た吉村大将は、目を丸くして手擦りを震わせた。
「な……南越急行!? あの、ヨハネスブルグの地下鉄を作って街を劇的に救った、あの世界一の南越急行の大幹部なのか!?」
「はい」大石は静かに頷いた。「そして……大将。この至高のミナミマグロと、ロイヤルバウンティー号の漁師たちの技、そしてあなたの仕込みの技術。これを一部の富裕層だけのものにしておくのは、世界の食文化にとって損失です」
大石専務の頭の中で、すでに完璧な金融・流通スキームが組み上がっていた。
「我が南越急行グループの『南越・佐渡武蔵』および、南越エアラインズの超音速冷送貨物便『ラビット・カーゴ』を駆使し、ロイヤルバウンティー号をはじめとするケープタウンの超優良漁船と長期優先買い取り契約を締結します」
大石はタブレットを操作し、即座に大将へ画面を提示した。
「漁師たちには市場価格の1.5倍の安定収入を永久保証し、船上の急速冷凍機器を南越重工の最新ナノセル凍結機へ全面無償換装。そして、大将……あなたには『南越・佐渡武蔵 アフリカ・ケープタウン最高味覚特別顧問』として、若手職人の育成とクオリティ管理を監修していただきたい。もちろん、この店はそのままあなたの城として存続させます」
吉村大将は、開いた口が塞がらなくなった。
ただ美味しいマグロを食べに来たはずの男が、たった数分で漁師たちの生活を永久補強し、世界中の食卓へこの極上の味を届ける巨大サプライチェーンを構築してしまったのである。
「あ……アンタって人は……! どこまで規格外なんだ……!」
吉村大将は呆れ果て、そして感涙を流しながら大石と固い握手を交わした。
翌朝。ケープタウン国際空港の滑走路。
南越エアラインズの『ラビット・ジェット・VIP』のタラップを登る直前、大石専務は振り返り、朝日に輝くテーブルマウンテンと、遠く青く広がる大西洋を見つめた。
風は冷たく、そしてどこまでも清らかであった。
ポシェットから取り出したジャスミン茶を一口含んだ大石の胸には、3日間の旅で得た静かな活力と、至高のマグロの感動が満ち溢れていた。
機内に入ると、すでに六日町の本社CEO室と暗号化通信が接続されていた。
ホログラム画面には、篠原賢人CEOと、豪快に笑う古賀副社長の姿が映し出された。
『よお大石! ケープタウンの「現地視察」はどうだった? 旨いマグロは食えたか?』
古賀が画面の向こうで悪戯っぽくウインクした。
篠原CEOも穏やかに微笑んでいる。
『大石、お疲れ様。君がリフレッシュできたなら何よりだ。……して、新しい水産投資の成果は?』
大石専務はメガネのブリッジを静かに押し上げ、ポーカーフェイスのままタブレットの確定データを提示した。
「……篠原CEO、古賀副社長。ケープタウン沖の極南ミナミマグロ排他的買い取り権の獲得、および『南越・佐渡武蔵』への超速冷送ルートの構築を完了いたしました。本事業によるグループへの年間想定利益は『一千二百億円』。投資額は初年度で完全に回収完了です」
『ガハハハ!』古賀副社長が爆笑した。『見たか篠原! 寿司を食べに行っただけで1200億円稼いで帰りやがったぞ! さすが財務の鬼だ!』
篠原賢人も楽しそうに目を細めた。
『素晴らしいよ、大石。君のその情熱が、また世界中の漁師たちと人々の食卓を幸せにしたんだな』
「はい。今回は純粋なる……食の探求の結果です」
ポーカーフェイスの大石専務の口元に、晴れやかで美しい笑みが浮かんだ。
『ラビット・ジェット・VIP』の強烈なジェットエンジンが音を立て、青空へ向かって力強く舞い上がっていく。
窓の下には、アフリカ大陸の南端、大西洋とインド洋が織りなす白い波(白波)と、力強い希望の海がどこまでも広がっていた。
世界中の人々の暮らし、治安、そして「ささやかな食の幸せ」を足元から完璧に支えながら、南越急行ホールディングスの走らせる無限のレールは、地球のすべての海と未来を繋ぎ合わせ、どこまでも、どこまでも力強く伸び続けていくのだった。




