第120章 アドリア海の真珠と永遠の浮上
第120章 アドリア海の真珠と永遠の浮上
冬。イタリア北部に位置し、「アドリア海の真珠」と称えられる世界遺産の都市・ベネチア。
何世紀もの間、運河と迷路のような路地、そして洗練されたゴシックやバロック様式の建築群で世界中の人々を魅了してきたこの「水の都」は、いま歴史上最大の存亡の危機に直面していた。
「またアックア・アルタ(高潮)だ! サン・マルコ広場の水位が、海抜百八十センチを超えたぞ!」
冷たい冬の風が吹き荒れる中、警戒警報のサイレンが市内に響き渡った。
満潮と南風、そして地球温暖化に伴う急激な海面上昇が重なり、ベネチアの町は連日のように海水へ飲み込まれていた。世界的に有名なサン・マルコ大聖堂の床面には海水が浸入し、貴重なビザンチン様式のモザイクタイルやレンガが、海水の塩分によって激しく侵食・崩壊を起こしていた。
歴史的建造物や美術品の保全修復費用は天井知らずに跳ね上がり、自治体やイタリア政府の文化財保全予算は完全にパンク。何より、この街で暮らし続ける住民たちの生活は限界を迎えていた。
1階の居室や店舗は恒常的に冠水して使いものにならず、住民は日々、高波を防ぐ板を設置し、排水ポンプを回し、高架の木製歩道を歩く対策に追われていた。住みにくさに耐えかねた若者の市外流出が止まらず、歴史ある街は「住人が消えたテーマパーク」へと化しかけていたのである。
かつてイタリア国家プロジェクトとして、巨大な可動式防潮堤(モーゼ計画)が建設された。しかし、複雑な構造と高額な維持費、度重なる汚職、そして近年の想定を超える海面上昇のスピードに追いつかず、稼働率は低迷。高波のたびにシステムの動作不良を起こし、事実上機能不全に陥っていた。
ベネチア市長は、誰もいない冠水したサン・マルコ広場に立ち、悲痛な表情で海を見つめていた。
「このままでは、ベネチアは五十年以内に海の中へ消えてしまう……。イタリア政府の予算も、既存の技術も使い果たした。我が街を救える者は、もはや世界に一人しかいない」
市長が救いを求めたのは、かつてツバルやモルディブなどの島国を水没から救い、パナマ運河や地中海の導水管、さらにはベネチアと同じく水害に悩む世界中の地底インフラを完璧に完工させてきた、あの男であった。
六日町メガロポリスの本社高層タワー。最上階の最高経営責任者(CEO)室。
ベネチア市長から届いた「緊急インフラ・文化財救済要請」の親書を読み終えた篠原賢人は、静かにジャスミン茶(南越ビバレッジ特選一級品)のグラスを置いた。
「ベネチアの海面上昇と歴史的建造物の浸食問題……。事態は深刻ですね」
向かい側に立つ最高財務責任者(CFO)の大石専務が、電子タブレットのホログラム画面にベネチアの地質データと高潮シミュレーションを映し出した。
「見積もり事業費は、初期投資だけで三兆五千億円。既存のモーゼ計画(可動式防潮堤)の全面改修、街全体を地底から支える地盤沈下防止・浮上スキーム、そして海水侵食を受けた千件以上の文化財建造物のナノ脱塩補強工事が含まれます。イタリア政府やユネスコの財政は破綻しており、資金の全額回収には高度な構造化スキームが必要です」
そこへ、ドアが豪快に開いて南越重工業社長の古賀副社長が入ってきた。手には、ベネチアのサン・マルコ大聖堂が冠水している痛々しい写真が握られている。
「篠原! 見たかこのニュースを! あの美しいベネチアの街が、塩水でボロボロに侵食されてるんだぞ! 『モーゼ』だかなんだか知らんが、お役所の作った可動式堤防が動かなくて街が沈むなんて、同じインフラ屋として恥ずかしくて見てられねえ!」
古賀が熱っぽくデスクを叩いた。
「千年以上続いてきた人類の宝だ! 俺たちの技術で、ベネチアを海から完全に救い上げてやろうじゃないか!」
篠原賢人は静かに立ち上がり、ホログラムに浮かぶ美しいベネチアの街並みを見つめた。
「ああ、当然引き受ける。大石、古賀。我々が守ってきたのは、単なる鉄道や工場だけではない。人が生きる日常と、人類が積み重ねてきた歴史と文化の誇りだ。ベネチアを消させはしない」
篠原の即答により、プロジェクト・『ラグーン・ヴェネツィア・ラビット』が電撃的に発動した。
要請からわずか48時間後。
南越エアラインズの超音速大型旅客機『ビーイング B7237』が、ベネチアのマルコ・ポーロ空港へ着陸した。
着陸した篠原、古賀、大石、そして南越建設の井上社長らを迎えたのは、ベネチア市長とイタリア文化財省の幹部たちであった。
「篠原CEO……! 来てくださったか! ですが、本当に我が街を救えるのですか? アドリア海の高波と、地盤沈下、そして海水の塩分侵食は、もはや人間の技術の限界を超えていると言われていますが……」
「任せてもらおう」
古賀副社長が豪快に胸をたたいた。
「人間が作ったもので直せないものはない。俺たちの南越建設と南越重工が本気を出せば、ベネチアの海なんて庭の池みたいなもんだ!」
直ちに、南越海運の超大型作業船フリートと、南越建設の無人AI施工部隊がベネチアの潟へ集結した。
第一の改修対象は、不具合を連発していた可動式防潮堤「モーゼ」であった。
従来の油圧シリンダーと鋼鉄フラップは、海水の塩分と貝類の付着によって動作不良を起こしていた。南越重工業と南越車輌の技術陣は、これを全面撤去。代わりに導入されたのは、超高耐圧ナノセラミックと超電導マグネットドライブを搭載した完全無接触・超高速可動フラップ『ヴェネツィア・ラビット・ゲート』であった。
高潮の予兆を量子AIが検知すると、わずか3秒で水深30メートルの海底から超電導磁力によってフラップが静かに起立。高波を100%遮断し、汽水域の生態系を崩さない精密な水流制御を行う最新鋭の防壁へと生まれ変わった。
さらに、街全体の根本的な課題である「地盤沈下と海水湧出」に対し、南越建設の全自動AIシールドマシン『サハラ・ラビット』が投入された。
ベネチアの旧市街地の地底50メートルに、ナノゲル遮水壁を全自動で張り巡らせる地底巨大防護網『ラグーン・アクア・シールド』を突貫完工。これにより、満潮時に地中の砂利層から海水が噴き出す現象を完全遮断することに成功したのだ。
防潮堤と地底シールドが完成する一方で、千年以上かけて建物に染み込んだ「塩分侵食」の除去作業が開始された。
サン・マルコ大聖堂やドゥカーレ宮殿をはじめとする古建築の柱や壁面は、海水の塩分が結晶化して膨張し、内部からレンガや大理石を破壊していた。
ここで威力を発揮したのが、武沢製薬のバイオナノ技術と、サロナエアコンの気流・温度制御技術であった。
武沢製薬が開発した浸透性ナノゲル『バイオ・デサルト(脱塩)ゲル』を建物の壁面や床面に塗布。ゲルがレンガの奥深くまで浸透し、建造物を一切傷つけることなく、内部の有害な塩分だけを分子レベルで吸着・分解して抽出するのである。
さらに、サロナエアコンが開発した「超微細温風ドライ除湿システム」を併用し、建物全体の湿度と塩分濃度を永久に一定に保つ自動保全ネットワークが構築された。
「おお……! 崩れかけていたサン・マルコ大聖堂の壁面から塩分が抜け、大理石の美しい輝きが蘇っていく! これは奇跡だ!」
イタリアの修復技師や歴史学者たちが、復元された壁面に取りすがって涙を流した。
それだけではない。南越メディカル・ロボティクスと本産自動車が共同開発した、水陸両用の超小型自動運転モビリティ『ぶーぶーん・ヴェネツィア』と、住宅用小型昇降・防水アシストシステムが各家庭に無償提供された。
住民たちは1階の浸水に怯える必要がなくなり、重い荷物や車椅子の移動も、運河と路地をスムーズに行き来できるようになったのである。
「もう水切り板も、ポンプもいらない! 自分の家で、安心して暮らせるんだ!」
住民たちの歓声が、蘇ったベネチアの路地に響き渡った。
プロジェクトの完工からわずか三ヶ月。
ベネチアからアックア・アルタの被害は完全に消失し、サン・マルコ広場は乾いた美しい大理石の畳を世界に見せていた。
しかし、欧米の金融アナリストやハゲタカファンドたちは、ベネチアの成功を冷ややかな目で見つめていた。
「南越急行はベネチアを救ったが、三兆五千億円もの巨額投資をどうやって回収するつもりだ? 財政破綻したイタリア政府やベネチア市に、そんな金を払えるはずがない。南越急行の巨額焦げ付きになるぞ!」
ニューヨークやロンドンの市場で、南越急行のスキームを疑問視する声が上がったその時であった。
六日町の本社CEO室から、「財務の鬼」大石専務が仕掛けた圧巻の金融戦略が発表された。
大石は、南越フィナンシャル・グループ(NFG)を通じて、ベネチア市およびイタリア政府と共同で『ベネチア永久文化・観光ソブリン・ファンド』を立ち上げたのである。
「回収の仕組みは、すでに完璧に完成しています」
大石はポーカーフェイスのまま、世界に向けた記者会見で冷徹に提示した。
「我がグループは、ベネチア市内の主要運河のスマート水上交通運営権、および復元された歴史的建造物の超高画質8K・VRデジタルコンテンツ配給権を50年間独占取得します。さらに、水害の恐怖が消えたことで爆発的に回復した世界中からの観光客による『ベネチア入市税(サステナブル観光税)』の一部が、ファンドを通じて我が社へ自動還流されます」
大石はタブレットの数字を指で弾いた。
水害が完全に消えたベネチアには、世界中から富裕層や観光客が殺到。南越エアラインズの直行便、南越不動産が再生した高級水上ホテル、南越ビバレッジや『佐渡武蔵』が出店した高級レストランは大繁盛を記録した。
「これにより、三兆五千億円の元本および利息は、わずか五年で完璧に回収・マネタイズされます。我がグループに一ユーロの損失も存在しません」
大石の隙のない完璧なスキームに、欧米のハゲタカファンドやアナリストたちはぐうの音も出せなくなり、南越急行ホールディングスの時価総額はさらに跳ね上がったのである。
すべての工事と保全作業が完了した冬の夕暮れ。
乾いたサン・マルコ広場には、世界中から訪れた観光客と、笑顔を取り戻した地元の子供たちの歓声があふれていた。
新形テレビ20のベテラン記者・高橋とカメラマン・井上も、現地から全世界へ生中継を行っていた。井上の担ぐ最新鋭8Kカメラの側面には、あの破産寸前時代から変わらない「古びたガムテープ」の切れ端が、誇らしげに貼られている。
「こちら新形テレビ20です!」
高橋記者が感涙に声を詰まらせながらマイクを握る。
「海の中に沈みかけていた人類の宝・ベネチアが、南越急行グループの最新テクノロジーと温かい人道支援により、完璧な姿で蘇りました! いま、夕日に照らされたサン・マルコ大聖堂が、水害の傷跡を一コマも残さず、黄金色に輝いています!」
式典のクライマックス、ベネチア市長から篠原へ、市最高峰の『サン・マルコ栄誉金獅子賞』が授与された。
式典の後、カナル・グランデ(大運河)を見下ろすリアルト橋の上で、篠原賢人、古賀副社長、大石専務の三人が佇んでいた。
夕暮れのアドリア海から心地よい風が吹き抜け、水面には街の灯りがキラキラと反射している。
古賀副社長が豪快に笑いながら、リアルト橋の欄干を叩いた。
「見たか篠原! 街が濡れてねえ! お年寄りも子供たちも長靴を脱いで、笑顔で石畳を歩いてるぞ! やっぱり俺たちの作ったインフラは世界一だな!」
大石専務も珍しく口元を緩め、タブレットを収めた。
「篠原CEO。ベネチアの成功を受け、同じく高潮や地盤沈下に悩むアムステルダムやニューオーリンズ、バンコクなどの各都市から、総額十兆円規模の『都市防護・保全プロジェクト』の要請が殺到しています」
「そうか……忙しくなるな」
篠原賢人は温かいジャスミン茶(南越ビバレッジ特選一級品)を一口含み、暮れゆくベネチアの美しき街並みを見つめた。
運河には、南越車輌が作った静かな水上バス(ヴァポレット)が、市民や観光客を乗せて滑らかに滑っていた。
「大石、古賀。我々が守ってきたのは、ただの建物や線路ではない」
篠原の静かな言葉に、二人が深く耳を傾ける。
「人類が何百年もかけて築いてきた歴史と、そこで暮らす人々の毎日の当たり前の笑顔だ。どんなに海が上がろうと、どんなに過酷な試練が訪れようと、我々が手を伸ばせば、未来は必ず手に入る」
渡辺前社長が遺した不滅の言葉——「会社は人より長く生き続けるべきもの。稼いだ金は未来を信じる魂だ」。
水上の都に鐘の音が美しく響き渡る。
アドリア海の風を受けながら、南越急行ホールディングスの走らせる無限のレールは、世界の歴史と未来をしっかりと繋ぎ合わせ、どこまでも、どこまでも力強く伸び続けていくのだった。




