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梅雨空ラムネ

掲載日:2026/07/01

六月の雨は、世界の輪郭を少しだけ曖昧にする。

朝から降り続いていた細い雨が、校舎の窓を白く濁らせていた。グラウンドの端では野球部が練習を諦め、制服のままベンチに座っている。湿った風が廊下を抜けるたび、誰かの柔軟剤の匂いと雨の匂いが混ざって漂った。

その頃の僕は、何かを期待することに少し疲れていた。

高校二年の六月。

夏はまだ遠く、教室には微妙に乾ききらない空気が残っていた。

放課後、僕は商店街の外れにある古い駄菓子屋の軒先で雨宿りをしていた。店先のトタン屋根が、細かな雨粒を不規則に弾いている。店内からは古い冷蔵庫の低い駆動音が聞こえていた

そこで、紗季を見つけた。

ラムネ瓶を片手に、店先の丸椅子へ腰掛けていた彼女は、雨を眺めながらビー玉を鳴らしていた。

高校に入ってから、まともに話した記憶はなかった。クラスも違ったし、幼なじみだったことさえ、もう半分くらい昔の話になっていた。

紗季は僕を見ると、小さく目を細めた。


「久しぶり」


それだけ言って、また雨へ視線を戻した。

僕も何を返せばいいかわからず、曖昧に頷いた。沈黙は気まずいはずなのに、不思議と居心地は悪くなかった。

冷蔵庫から取り出したラムネ瓶は、表面に細かな水滴を浮かべていた。蓋を押し込むと、鈍い音と一緒にビー玉が落ちる。炭酸の泡が瓶の中で静かに弾けた。

紗季は窓の外を見たまま呟いた。


「夏って、来そうで来ない時が一番いいよね」


その意味を、僕はうまく理解できなかった。

ただ、雨の匂いとラムネの甘い香りだけが、やけに強く記憶に残った。

それから、放課後に紗季と会うことが増えた。

待ち合わせをするわけじゃない。だけど雨の日になると、なぜかあの駄菓子屋に行けば紗季がいた。

濡れた前髪。

少し大きめの制服。

炭酸が抜けかけたラムネ。

彼女は昔から、笑っているのにどこか遠い顔をする癖があった。

学校では相変わらず最低限しか話さなかった。教室で顔を合わせても、お互い軽く視線を向ける程度だった。けれど放課後になると、僕らは自然と同じ場所にいた。

雨宿りしたバス停。

閉館前の市民プール。

誰もいないゲームセンター。

夜のコンビニの青白い光。

どれも青春映画なら何かが起きそうな場所なのに、僕らには何も起こらなかった。

ただ隣を歩いて、時々ラムネを飲んで、湿った風の中で黙っていただけだった。

けれど、その曖昧な時間が僕は嫌いじゃなかった。

ある日の帰り道、紗季は商店街のシャッターを眺めながら立ち止まった。

夕暮れの光は分厚い雲に遮られて、街全体が青灰色に沈んでいる。


「この町、息苦しいんだよね…」


彼女はそう言って笑った。

冗談みたいな口調だったけれど、その声は少しだけ掠れていた。

僕は何も言えなかった。

言葉を探しているうちに、雨がまた降り始めてしまったからだ。

その日、僕らは高架下へ逃げ込んだ。

コンクリートに雨音が反響して、世界が薄暗く揺れている。紗季は濡れたシャツとスカートを鬱陶しそうに払いながら、ラムネ瓶を額へ押し当てていた。


「ちゃんと夏になれた人って、いるのかな?」

「…どういうこと?」


ビー玉が小さく鳴った。

僕はそれ以上の返事をしなかった。

返事をしてしまえば、その言葉の意味まで形になってしまう気がした。

僕らの間には、ずっとそういう空気があった。

言葉にしてしまった瞬間、壊れてしまいそうなもの。

六月が終わる頃、花火大会のポスターが街に貼られ始めた。

色褪せた商店街の壁に、不釣り合いなくらい鮮やかな花火の写真。

紗季はそれを見上げながら、「行こうか」とだけ言った。

約束、と呼ぶには曖昧すぎる言葉だった。

それでも僕は、その日を少しだけ楽しみにしていた。

七月に入っても、雨はなかなか止まなかった。

湿った教室。

扇風機のぬるい風。

窓ガラスを流れる雨粒。

夏は来そうで、ずっと来なかった。

花火大会の当日も、朝から空は重たく濁っていた。

午後になる頃には本降りになり、商店街のスピーカーから中止を知らせる音声が流れた。

僕はなぜか、それでも外へ出た。

もしかしたら紗季がいる気がしたのだ。

案の定、彼女は高架下にいた。

浴衣ではなく、いつもの制服姿だった。

湿ったコンクリートの匂い。

遠くで鳴る車のタイヤ音。

自販機の白い明かり。

紗季はラムネ瓶を揺らしながら、小さく笑った。


「ほら、やっぱり。今年もちゃんと夏になれなかった」


その横顔を見た瞬間、なぜだか妙に胸が苦しくなった。

今ここで何かを言わなければ、もう二度と間に合わない気がした。

けれど僕は、結局何も言えなかった。

好きだとか、行かないでほしいとか、そんな言葉はどれも僕らには似合わない気がした。

代わりに僕は、ぬるくなったラムネを一口飲んだ。

炭酸はもうほとんど抜けていた。

七月の終わり、紗季は学校に来なくなった。

理由を知る人はいなかった。

転校したらしい。

家の事情らしい。

持病が悪化したらしい。

噂だけが、湿気みたいに教室へ広がっていった。

僕は何も知らなかった。

連絡先も聞いていなかったことに、その時初めて気づいた。

聞こうと思えば、きっといつでも聞けたはずなのに。

夏休みに入り、梅雨明けした空は、驚くほど青かった。

あれだけ待っていた夏なのに、実際に来てしまうと何も感じなかった。

蝉の声だけが、遠くでやけに騒がしかった。

僕は一人で、あの駄菓子屋へ向かった。

店先の風鈴が、乾いた音を鳴らしている。

冷蔵庫からラムネを一本取り出す。

瓶はあの日と同じように冷たかった。

ビー玉を押し込む音が、小さく響く。

炭酸が喉を刺した。

けれど、その味はもう思い出せないくらい薄かった。

店を出て、僕はしばらく空を見上げていた。

どこまでも夏の色をした空だった。

僕らの夏は、結局始まらなかった。


きっとあの頃の気持ちは、

雨の匂いが移ったラムネみたいなものだった。

開けた瞬間だけ、確かに少しだけ、僕らだけの特別なものだったんだ。

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― 新着の感想 ―
雨の匂い、濡れた制服、瓶の中で鳴るビー玉が、言葉にできない二人の距離を鮮やかに伝えていました。夏が来たあとに初めて、連絡先さえ知らなかったと気づく悔いと、「雨の匂いが移ったラムネ」という余韻が切ないで…
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