梅雨空ラムネ
六月の雨は、世界の輪郭を少しだけ曖昧にする。
朝から降り続いていた細い雨が、校舎の窓を白く濁らせていた。グラウンドの端では野球部が練習を諦め、制服のままベンチに座っている。湿った風が廊下を抜けるたび、誰かの柔軟剤の匂いと雨の匂いが混ざって漂った。
その頃の僕は、何かを期待することに少し疲れていた。
高校二年の六月。
夏はまだ遠く、教室には微妙に乾ききらない空気が残っていた。
放課後、僕は商店街の外れにある古い駄菓子屋の軒先で雨宿りをしていた。店先のトタン屋根が、細かな雨粒を不規則に弾いている。店内からは古い冷蔵庫の低い駆動音が聞こえていた
そこで、紗季を見つけた。
ラムネ瓶を片手に、店先の丸椅子へ腰掛けていた彼女は、雨を眺めながらビー玉を鳴らしていた。
高校に入ってから、まともに話した記憶はなかった。クラスも違ったし、幼なじみだったことさえ、もう半分くらい昔の話になっていた。
紗季は僕を見ると、小さく目を細めた。
「久しぶり」
それだけ言って、また雨へ視線を戻した。
僕も何を返せばいいかわからず、曖昧に頷いた。沈黙は気まずいはずなのに、不思議と居心地は悪くなかった。
冷蔵庫から取り出したラムネ瓶は、表面に細かな水滴を浮かべていた。蓋を押し込むと、鈍い音と一緒にビー玉が落ちる。炭酸の泡が瓶の中で静かに弾けた。
紗季は窓の外を見たまま呟いた。
「夏って、来そうで来ない時が一番いいよね」
その意味を、僕はうまく理解できなかった。
ただ、雨の匂いとラムネの甘い香りだけが、やけに強く記憶に残った。
それから、放課後に紗季と会うことが増えた。
待ち合わせをするわけじゃない。だけど雨の日になると、なぜかあの駄菓子屋に行けば紗季がいた。
濡れた前髪。
少し大きめの制服。
炭酸が抜けかけたラムネ。
彼女は昔から、笑っているのにどこか遠い顔をする癖があった。
学校では相変わらず最低限しか話さなかった。教室で顔を合わせても、お互い軽く視線を向ける程度だった。けれど放課後になると、僕らは自然と同じ場所にいた。
雨宿りしたバス停。
閉館前の市民プール。
誰もいないゲームセンター。
夜のコンビニの青白い光。
どれも青春映画なら何かが起きそうな場所なのに、僕らには何も起こらなかった。
ただ隣を歩いて、時々ラムネを飲んで、湿った風の中で黙っていただけだった。
けれど、その曖昧な時間が僕は嫌いじゃなかった。
ある日の帰り道、紗季は商店街のシャッターを眺めながら立ち止まった。
夕暮れの光は分厚い雲に遮られて、街全体が青灰色に沈んでいる。
「この町、息苦しいんだよね…」
彼女はそう言って笑った。
冗談みたいな口調だったけれど、その声は少しだけ掠れていた。
僕は何も言えなかった。
言葉を探しているうちに、雨がまた降り始めてしまったからだ。
その日、僕らは高架下へ逃げ込んだ。
コンクリートに雨音が反響して、世界が薄暗く揺れている。紗季は濡れたシャツとスカートを鬱陶しそうに払いながら、ラムネ瓶を額へ押し当てていた。
「ちゃんと夏になれた人って、いるのかな?」
「…どういうこと?」
ビー玉が小さく鳴った。
僕はそれ以上の返事をしなかった。
返事をしてしまえば、その言葉の意味まで形になってしまう気がした。
僕らの間には、ずっとそういう空気があった。
言葉にしてしまった瞬間、壊れてしまいそうなもの。
六月が終わる頃、花火大会のポスターが街に貼られ始めた。
色褪せた商店街の壁に、不釣り合いなくらい鮮やかな花火の写真。
紗季はそれを見上げながら、「行こうか」とだけ言った。
約束、と呼ぶには曖昧すぎる言葉だった。
それでも僕は、その日を少しだけ楽しみにしていた。
七月に入っても、雨はなかなか止まなかった。
湿った教室。
扇風機のぬるい風。
窓ガラスを流れる雨粒。
夏は来そうで、ずっと来なかった。
花火大会の当日も、朝から空は重たく濁っていた。
午後になる頃には本降りになり、商店街のスピーカーから中止を知らせる音声が流れた。
僕はなぜか、それでも外へ出た。
もしかしたら紗季がいる気がしたのだ。
案の定、彼女は高架下にいた。
浴衣ではなく、いつもの制服姿だった。
湿ったコンクリートの匂い。
遠くで鳴る車のタイヤ音。
自販機の白い明かり。
紗季はラムネ瓶を揺らしながら、小さく笑った。
「ほら、やっぱり。今年もちゃんと夏になれなかった」
その横顔を見た瞬間、なぜだか妙に胸が苦しくなった。
今ここで何かを言わなければ、もう二度と間に合わない気がした。
けれど僕は、結局何も言えなかった。
好きだとか、行かないでほしいとか、そんな言葉はどれも僕らには似合わない気がした。
代わりに僕は、ぬるくなったラムネを一口飲んだ。
炭酸はもうほとんど抜けていた。
七月の終わり、紗季は学校に来なくなった。
理由を知る人はいなかった。
転校したらしい。
家の事情らしい。
持病が悪化したらしい。
噂だけが、湿気みたいに教室へ広がっていった。
僕は何も知らなかった。
連絡先も聞いていなかったことに、その時初めて気づいた。
聞こうと思えば、きっといつでも聞けたはずなのに。
夏休みに入り、梅雨明けした空は、驚くほど青かった。
あれだけ待っていた夏なのに、実際に来てしまうと何も感じなかった。
蝉の声だけが、遠くでやけに騒がしかった。
僕は一人で、あの駄菓子屋へ向かった。
店先の風鈴が、乾いた音を鳴らしている。
冷蔵庫からラムネを一本取り出す。
瓶はあの日と同じように冷たかった。
ビー玉を押し込む音が、小さく響く。
炭酸が喉を刺した。
けれど、その味はもう思い出せないくらい薄かった。
店を出て、僕はしばらく空を見上げていた。
どこまでも夏の色をした空だった。
僕らの夏は、結局始まらなかった。
きっとあの頃の気持ちは、
雨の匂いが移ったラムネみたいなものだった。
開けた瞬間だけ、確かに少しだけ、僕らだけの特別なものだったんだ。




