第5話 裂け目の向こう側
三十一階層再調査隊の編成が発表されたのは、遭難救出から三日後のことだった。
表向きの理由は、変異種出現の原因調査。
だが実際には、岩壁の裂け目の確認が主目的だった。
隊長はAランク探索者、元山波隊副隊長の篠崎。補佐に緋天の九条烈斗。回収班からは来生雅也が名指しで入れられた。
指名は和泉の判断だ。
ギルド地下ブリーフィングルーム。薄暗い室内で、三十一階層の簡易地図が投影される。
「裂け目の位置はここだ」
雅也が指し示す。
座標は正確だ。あの場で、彼は無意識に周囲の地形を記憶していた。
篠崎が腕を組む。
「冷気と魔力反応の異常。だがセンサーでは決定的な異界波長は検出されていない」
烈斗が低く言う。
「つまり、まだ確定じゃない」
「そうだ」
雅也は何も言わない。
確定していないのは、この世界側の基準だけだ。
あの裂け目の奥にあった気配は、間違いなく“門”の前兆だった。
説明が終わり、各自準備へ散る。
エントランスに出ると、松浦かなが待っていた。
今日は配信機材を持っていない。
「入るんだね」
「ああ」
かなは少し迷い、言葉を選ぶ。
「三十一階層の件、コメント欄は荒れてる。変異種の噂が広がってる」
雅也は歩みを止めない。
「噂は噂だ」
「でも、もし本当に異世界由来だったら?」
雅也の足が、ほんのわずかに止まる。
かなはその変化を見逃さない。
「……ごめん。変なこと言った」
雅也は首を振る。
「気にするな」
かなは小さく笑う。
「帰ってきたら、話聞かせて。オフで」
「無事ならな」
その言葉に、かなは何かを感じる。
無事なら。
まるで、帰還を当然とは思っていないような響きだった。
エレベーターが地下へと降下する。
三十一階層。
空気が重い。
前回よりも冷気が強い。
床に霜が薄く張りついている。
「魔力濃度、上昇傾向」
篠崎が端末を確認する。
雅也は無言で先頭に立つ。
裂け目のあった地点へ近づくにつれ、胸の奥がざわつく。
懐かしい感覚。
血が、記憶を呼び起こす。
やがて岩壁が見える。
亀裂は、確実に広がっていた。
幅は人一人が通れるほど。
内部は闇。
冷気が吹き出している。
「……これは」
烈斗が息を呑む。
篠崎が慎重にセンサーをかざす。
異常値。
だが分類不能。
そのとき。
裂け目の奥から、低い唸りが響く。
全員が武器を構える。
闇の中から現れたのは、四足歩行の魔物。
だが形状が歪んでいる。
体表が黒く硬化し、瞳は赤く発光。
通常個体より一回り大きい。
「変異種……!」
次の瞬間、さらに二体。
合計三体。
篠崎が指示を飛ばす。
「前衛二、右から抑えろ!」
烈斗が踏み出す。
だが魔物の動きは速い。
一体が壁を蹴り、天井へ跳躍。
死角から急襲。
雅也の体が、考えるより先に動く。
剣が閃く。
天井から落下する魔物の喉を正確に断つ。
鮮血が霜の床に散る。
二体目が烈斗へ突進。
烈斗は受け止めるが、力負けする。
爪が装甲を削る。
雅也が割って入る。
踏み込み。
一閃。
変異種の胴体が断ち切られる。
最後の一体が裂け目へ後退。
逃げるのではない。
呼んでいる。
裂け目の奥から、さらに濃い気配が流れ出す。
雅也の瞳が細まる。
「下がれ」
低い声。
篠崎が振り向く。
「何だ」
その瞬間、裂け目が軋む。
岩が崩れ、内部が露わになる。
闇の奥。
巨大な影。
人型に近いが、明らかに人ではない。
背に黒い翼の残骸。
片目が欠けている。
そして、その視線が雅也を捉える。
懐かしい殺気。
胸が締めつけられる。
「……追ってきたか」
雅也の呟きは、誰にも届かない。
影が咆哮する。
衝撃波。
篠崎が吹き飛ばされる。
烈斗が膝をつく。
他の隊員も動けない。
空間が歪む。
裂け目がさらに広がる。
このままでは門になる。
雅也は一歩前へ出る。
「来生!」
烈斗の叫び。
雅也は振り返らない。
剣を構える。
影が跳躍する。
その速度は人間の反応を超える。
だが雅也は、かつて同じ種と戦っていた。
踏み込み。
交差。
衝撃。
剣と爪がぶつかる。
火花。
地面が砕ける。
影の片腕が落ちる。
黒い血が蒸発する。
影は後退し、裂け目の縁に立つ。
赤い瞳が、明確な意思を宿す。
言葉にならない声が、頭に響く。
帰還せよ。
管理者の命。
雅也の奥歯が軋む。
「断る」
影が怒りに震える。
だが次の瞬間、裂け目が不安定に揺らぐ。
こちら側の空間が耐えきれない。
影は後退する。
消え際、はっきりと視線を残す。
狙いは、雅也。
裂け目が崩れ、岩が閉じる。
静寂。
冷気が薄れる。
雅也は剣を下ろす。
背後で、隊員たちが立ち上がる。
「……今のは何だ」
篠崎がかすれた声で問う。
雅也は振り向く。
「上位変異種です」
嘘ではない。
だが真実でもない。
烈斗が雅也を見る。
あの一瞬。
来生は恐れていなかった。
むしろ、知っていた。
地上へ帰還した後、和泉は即座に非公開会議を招集した。
三十一階層の映像。
裂け目の拡大。
巨大影の存在。
「国家案件だな」
和泉は静かに結論を出す。
「監査官を待つ。だがそれまで情報は外に出すな」
会議室を出た雅也は、夜の港湾へ向かう。
風が強い。
海面が揺れる。
背後に足音。
「来生さん」
振り返ると、美野里が立っていた。
蒼輪の回復術師。
手に包帯を持っている。
「怪我、してますよ」
雅也は初めて自分の腕の裂傷に気づく。
浅い。
だが血が滲んでいる。
美野里は無言で手当てをする。
指が震えている。
「怖かったです」
小さな声。
「今日は、戻ってこないかと思いました」
雅也は何も言えない。
美野里は顔を上げる。
「あなたは、どこに行こうとしているんですか」
問いは、裂け目より深い。
雅也は答えを持たない。
ただ一つ確かなのは。
あの影はまた来る。
そして次は、もっと大きな門を開く。
「……ここにいる」
ようやく絞り出した言葉。
美野里は少しだけ安心したように微笑む。
だがその笑みは、どこか不安を含んでいる。
遠く、ダンジョン入口の灯りが揺れる。
裂け目は閉じた。
だが向こう側は、確実にこちらを見ている。




