第3話 撤退戦
階段へ向かう通路は、細く、曲がりくねっている。
三十一階層は広大だが、上層へ続く階段は一か所しか確認されていない。そこを押さえられれば、逃げ場はない。
緋天の行軍は負傷者を抱え、足を引きずるように進んでいた。
真田和希は顔面蒼白だ。支援術式の過剰使用で魔力枯渇寸前。天城紗夜は意識が朦朧としている。
「烈斗……悪い……」
紗夜の声がかすれる。
「喋るな。温存しろ」
烈斗は自分に言い聞かせるように答えた。
背後を振り返る。
黒い作業服の男が最後尾を歩いている。
来生雅也。
彼の足取りは乱れていない。肩口の布は裂けているが、傷は見えない。
奏真が小声で言う。
「なあ……あれ、本当に回収班か?」
「知らん」
烈斗は短く返す。
だが疑念は消えない。
三十一階層の変異種を単独で仕留めるなど、Sランクでも容易ではない。
通路の奥から、再び足音が響く。
甲殻が石を削る音。
群れが追ってきている。
「数は?」
香澄が震える声で問う。
雅也が一瞬だけ耳を澄ませる。
「八。速い」
烈斗が歯を食いしばる。
「ここで迎え撃つしかない」
「無理だ」
雅也が即座に否定する。
その声音に、迷いはない。
「二十階層まで下がれば、魔物の密度が落ちる。そこまで走る」
「走れる状態じゃない」
「なら作る」
短い言葉。
雅也は振り返り、剣を抜く。
迫ってきた一体を、正面から迎えた。
爪が振り下ろされる。
雅也は刃を立て、力を受け流す。
衝撃が岩壁を砕く。
奏真が目を見張る。
「今の、真正面から受けたぞ……」
雅也は体勢を崩さない。
刃を滑らせ、外殻の継ぎ目に叩き込む。
鈍い音。
巨体が沈む。
続けざまに二体目が襲いかかる。
その動きは連携している。
まるで知性があるかのようだ。
雅也の眉がわずかに寄る。
「……やはりか」
裂け目の影響。
魔物の行動が変質している。
烈斗が叫ぶ。
「雅也、後ろ!」
死角から三体目。
だが雅也は振り向かない。
半身をずらし、刃を横薙ぎに払う。
外殻が割れ、魔物が崩れる。
通路は血と破片で滑りやすくなっている。
真田の足がもつれる。
雅也は素早く支え、前へ押し出す。
「進め」
その声には苛立ちも焦りもない。
ただ、確信がある。
この程度では、終わらないと。
背後で、重い振動が響いた。
通路の奥から、さらに巨大な影。
先ほどの変異種よりは小さいが、通常個体より明らかに強い。
烈斗の喉が鳴る。
「また変異か……」
雅也は目を細める。
胸の奥で、何かがざわつく。
裂け目から吹き出していた風と同じ気配。
異界の気配。
かつて戦った存在に似ている。
魔物が咆哮する。
衝撃波が走り、香澄が壁に叩きつけられる。
「ぐっ……!」
烈斗が駆け寄ろうとするが、魔物が立ちはだかる。
雅也が前に出る。
一瞬だけ、空気が歪んだ。
足元に淡い紋様が浮かびかける。
だが、彼はそれを抑え込む。
まだ使わない。
ここで力を露見させるわけにはいかない。
魔物が突進する。
雅也は真正面から踏み込む。
刃と爪が交錯する。
衝撃が通路を震わせる。
烈斗は息を呑む。
速さが違う。
目で追えない。
剣が、甲殻の中心を正確に貫いた。
内側から破裂するように、外殻が割れる。
巨体が崩れる。
通路に静寂が戻る。
残る個体は後退していく。
恐れている。
烈斗は確信する。
これは偶然ではない。
雅也は、魔物に恐れられている。
「行くぞ」
剣を納める。
緋天の五人は再び動き出す。
二十九階層。
二十八階層。
魔物の密度が徐々に下がる。
二十五階層に辿り着いたとき、紗夜が意識を失った。
雅也は背負う。
「……悪い」
烈斗が呟く。
雅也は首を振らない。
ただ歩く。
二十階層。
広間に、松浦かなの姿があった。
配信は切っているらしい。
緊張した面持ちで通路を見つめていた。
血塗れの緋天と雅也を見て、息を呑む。
「本当に、三十一で何か起きてるんだね」
雅也は足を止めない。
「今日は配信をやめろ」
珍しく強い口調だった。
かなは一瞬だけ怯む。
「……わかった」
何かを感じ取ったのだろう。
軽い言葉は出てこなかった。
やがて地上へ続く階段が見える。
陽光が差し込む。
烈斗の膝が震える。
「助かった……のか?」
雅也は振り返らない。
背後の闇を見つめている。
三十一階層の奥。
あの裂け目。
あれは自然発生ではない。
意図を感じる。
誰かが、こちらを覗いているような。
胸の奥に、古い記憶が疼く。
赤い空。
黒い裂け目。
世界を跨ぐ門。
「……まだ終わっていない」
小さく呟く。
誰にも聞こえない声。
地上へ出ると、ギルド職員たちが駆け寄る。
担架が運ばれ、緋天の行軍は搬送されていく。
烈斗が立ち止まり、雅也を見る。
「借りは返す」
雅也は視線を逸らす。
「借りじゃない。仕事だ」
それだけ言って、踵を返す。
だが彼の背中を、烈斗は見逃さなかった。
あれは、ただの回収員ではない。
戦場を知りすぎている背中だ。
湾岸新都の空は、穏やかに晴れている。
だがダンジョンの奥で、何かが動き始めている。
雅也はそれを知っている。
そして、まだ誰にも言えない。




