第20話 曖昧な未来
三十二階層は、かろうじて持ちこたえていた。
浸食率は五十二パーセントで固定されたまま、増減を繰り返している。黒い結晶は活動を弱めたが、完全に沈黙したわけではない。赤い脈動は時折強まり、まるで再起の機会を待っているようだった。
拠点では、緊急対策会議が開かれている。
和泉康介は腕を組み、円卓を見渡した。
「国家は正式に三十二階層を特別管理区域に指定した。今後は常時部隊を駐留させる」
白石総一郎が補足する。
「研究班も増強されます。ただし……深層への強行突入は保留です」
理由は明白だ。
あの上位個体。
そして、その背後にある存在。
未知が多すぎる。
蒼輪の盟約と緋天の行軍は、拠点防衛の主力として再編成された。合同訓練が始まり、互いの弱点と長所を補い合う動きが生まれている。
九条烈斗は朝霧直哉に言う。
「今まで、競ってばかりだったな」
「それも悪くなかったさ」
朝霧は苦笑する。
「だが、今は同じ線に立ってる」
篠宮雫音と天城紗夜は術式の共同改良に取り組み、真田和希と久遠寺澄花は支援体系を再構築する。連携は以前より滑らかになっていた。
山波大樹は訓練場の隅で木剣を振るう。
一度は諦めた高み。
だが、あの日の衝撃が彼を目覚めさせた。
「まだ、届かない」
汗を拭いながら呟く。
そこへ雅也が歩み寄る。
「焦るな」
「焦るさ」
山波は笑う。
「でもな、もう逃げない」
その目には迷いがなかった。
配信者の松浦かなは、地上に戻っていた。
三十二階層での戦闘は断片的にしか映っていない。だが彼女の言葉は、多くの視聴者に影響を与えた。
「恐怖はある。でも、逃げるだけじゃ守れない」
その配信は拡散され、世論は揺れる。
ダンジョン封鎖を求める声。
徹底抗戦を支持する声。
そして、探索者への理解を示す声。
世間は静かに変わり始めていた。
一方、政治の場では別の火種が燻る。
弓永桜子は公の場で語る。
「ダンジョンは人類の脅威です。同時に、制御すべき資源でもあります」
穏やかな口調。
だが意志は強い。
対する三田由紀子は別の会合で言う。
「制御などという言葉は傲慢です。まずは撤退と安全確保を」
二人の主張は対立する。
理想と現実。
進むか、引くか。
だが互いに相手を否定しきれない。三十二階層の現状は、どちらの主張にも完全な正解を与えないからだ。
和泉は独り執務室で書類を閉じる。
窓の外は夕暮れ。
「……まだ足りないか」
若き日の自分を思い出す。
守れなかった部下。
深層で消えた仲間。
あの時、もっと力があれば。
その悔恨が今の判断を支えている。
三十二階層拠点。
夜。
巡回を終えた雅也は、外縁部の岩場に腰を下ろす。
赤い脈動が遠くで揺れる。
「呼んでるな」
誰に向けた言葉でもない。
美野里が隣に座る。
「深層ですか」
「ああ」
短い返答。
風が吹く。
結晶が微かに鳴る。
「怖くないですか」
彼女は真っ直ぐに尋ねる。
「怖い」
雅也は迷わず答える。
「でも、逃げる方がもっと怖い」
美野里は小さく笑う。
「同じです」
沈黙が落ちる。
だが重くはない。
互いの存在が、その間を埋める。
「もし」
彼女が口を開く。
「もし、もっと先へ行くなら」
雅也は視線を向ける。
「一緒に行きます」
その言葉は強くもなく、弱くもない。
ただ自然だった。
雅也はわずかに目を細める。
「後悔するかもしれない」
「それでも」
即答。
夜風が止む。
赤い脈動が一瞬だけ強まる。
まるで深層が聞いているかのように。
雅也は空を見上げる。
帰還勇者。
その名は誰も知らない。
知る必要もない。
今は、ただ一人の探索者だ。
だが敵は観測している。
管理外個体。
排除優先度最上位。
深層で黒衣は静かに告げる。
「次段階へ移行」
三十二階層の奥で、結晶の奥底が再び光る。
新たな構造が形成を始める。
地上では気付かれない。
まだ。
岩場に並ぶ二人。
手が触れそうで、触れない。
距離は近い。
だが越えない。
想いは通じている。
けれど、言葉にはしない。
曖昧なまま。
それでも、確かなものがある。
雅也は立ち上がる。
「戻ろう」
「はい」
並んで歩く。
背後で赤い光が瞬く。
境界は揺らいでいる。
戦いは終わっていない。
だが、折れてもいない。
勇者は名乗らず。
想いはまだ形にならず。
三十二階層は国家案件となり、蒼輪と緋天は共闘を続け、山波は再起を誓い、世論は揺れ、政治は動く。
全ては途中だ。
それでも歩みは止まらない。
曖昧な未来へ向かって。




