第2話 緋天の行軍
三十一階層の岩窟は、昼も夜もない。
乾いた風が、砂と血の匂いを巻き上げている。天井は高く、崩れかけた石柱が乱立し、足場は悪い。遠くで岩が落ちる音が響くたびに、空気が震えた。
その中央で、緋天の行軍は追い詰められていた。
九条烈斗は、折れかけた槍を握り直す。二十六歳。Aランク槍使い。冷静沈着を売りにしてきたが、今は額に汗が滲んでいる。
「速水、右を抑えろ!」
「わかってる!」
速水奏真が双剣を振るい、迫る甲殻獣の脚を断つ。だが切断面は浅い。外殻が異様に硬いのだ。
天城紗夜は膝をつきながら詠唱を続けている。
「闇よ、縛れ……!」
黒い鎖が地面を走る。しかし魔物は鎖を引きちぎり、咆哮する。
「魔力が足りない……!」
椎名香澄の矢は急所を射抜いているはずだった。だが、倒れない。通常個体より明らかに耐久力が高い。
真田和希が支援術式を重ねるが、疲労は隠せない。
「撤退するしか……」
「経路がない!」
烈斗の声がかき消される。
そのときだった。
群れの背後で、鈍い音が響いた。
甲殻獣の一体が、横から両断される。
血しぶきが岩壁に飛び散る。
「何が……」
次の瞬間、二体目が倒れた。
三体目。
動きは無駄がない。最短距離。最小動作。
烈斗は目を見開く。
黒い作業服の男が、群れの中心に立っていた。
「現場回収班。来生雅也」
場違いなほど落ち着いた声だった。
奏真が呟く。
「回収班……? 冗談だろ」
雅也は返答しない。すでに次の個体へ踏み込んでいる。
斬撃が走る。
甲殻の継ぎ目を正確に断つ。弱点を知っている動きだ。
だが、烈斗は違和感を覚える。
あの軌道は、事前に観察した動きではない。
知っている者の動きだ。
甲殻獣の群れが一斉に雅也へ向きを変える。
標的が移った。
「おい、無茶だ!」
烈斗が叫ぶ。
だが雅也は一歩も引かない。
一体が突進する。
雅也は半歩だけ体をずらし、刃を滑り込ませる。
硬い殻の内側から、鈍い破裂音。
巨体が崩れる。
紗夜が息を呑む。
「魔法じゃない……純粋な剣技?」
しかしそれだけでは説明がつかない。
動きが速すぎる。
視線が追いつかない。
甲殻獣の爪が雅也の肩を掠める。
布が裂ける。
だが血は出ない。
烈斗の胸がざわつく。
「何者だ……」
その問いに答える者はいない。
奥から、地鳴りが響いた。
岩窟の奥壁が崩れ、巨大な影が姿を現す。
通常個体の倍はある体躯。
背中に棘状の突起。赤黒い外殻。眼光が濁っている。
「変異種……!」
真田の声が震える。
三十一階層で確認されたことのない個体。
群れが一斉に後退する。
変異種が、雅也を見据えた。
空気が変わる。
緋天の五人は本能的に理解する。
あれは、自分たちでは倒せない。
変異種が咆哮する。
衝撃波が岩壁を震わせる。
紗夜が倒れ、香澄が尻餅をつく。
雅也だけが立っていた。
「重傷者は?」
振り向きもせずに言う。
烈斗が反射的に答える。
「和希と紗夜が限界だ」
「了解」
それだけ言って、雅也は前へ出る。
変異種が突進する。
岩が砕け、地面が割れる。
雅也は、正面から迎えた。
常識ではあり得ない。
烈斗は叫びかけたが、声が出ない。
激突の瞬間。
雅也の足元に、微かな紋様が浮かぶ。
一瞬だけ。
誰も気づかないほどの刹那。
剣が振り下ろされる。
甲殻が、音もなく裂けた。
変異種の巨体が傾く。
断面は、異様に滑らかだった。
沈黙。
やがて巨体が崩れ落ちる。
岩窟に響くのは、砂が落ちる音だけ。
緋天の五人は、動けない。
烈斗がようやく声を出す。
「……終わったのか?」
雅也は剣を払う。
血が床に落ちる。
「まだだ」
短い言葉。
遠くから、複数の足音が聞こえる。
群れの増援。
数は、十を超える。
奏真が歯を食いしばる。
「包囲される!」
雅也は一瞬、目を閉じた。
胸の奥に、懐かしい感覚が灯る。
あの世界で、何度も感じた圧力。
戦場の中心に立つ感覚。
目を開く。
空気が震えた。
圧が広がる。
魔物たちの動きが、止まる。
本能が拒絶する。
一歩、二歩と後退する。
烈斗の背筋に冷たい汗が流れる。
「……何をした」
雅也は答えない。
ただ低く言う。
「撤退する。今だ」
その声で、緋天の五人は我に返る。
真田と紗夜を担ぎ、階段へ向かう。
魔物は追ってこない。
いや、追えない。
雅也の周囲だけ、空気が異質だった。
階段の手前で、烈斗が振り返る。
「お前……何者だ」
雅也は岩窟の奥を見つめている。
裂け目。
崩れた壁の奥に、黒い亀裂が走っていた。
そこから、冷たい風が吹き出している。
人の世界のものではない匂い。
雅也の目が細まる。
「……厄介だな」
それだけ言って、彼は剣を納めた。
緋天の行軍は、理解していない。
今日の救助は終わっていない。
本当の異変は、あの裂け目の向こうにある。
そして雅也は、それを知っている。
かつて、同じ匂いを嗅いだことがあるからだ。




