第1話 現場回収員
湾岸新都の朝は、いつも潮の匂いから始まる。
人工島に築かれた高層ビル群の足元、コンクリートの広場の中央にぽっかりと開いた黒い円環。そこが湾岸第一ダンジョンの入口だ。発見から十二年。三十一階層まで到達確認済みの中規模迷宮。探索者たちの生活を支え、同時に命を奪ってきた場所。
来生雅也は、無言でその入口を見上げていた。
二十四歳。肩までの黒髪を後ろで束ね、黒い作業用ジャケットを羽織っている。胸元のワッペンには「探索者ギルド 現場回収班」とだけ記されている。
英雄でもなければ、最前線の探索者でもない。
表向きは、そうだ。
「雅也、今日は静かだな」
背後から声がした。
振り向くと、山波大樹が缶コーヒーを片手に立っている。二十三歳。かつてはAランクに手が届くと言われた実力者。今は雅也と同じく現場回収員として働いている。
「嵐の前触れかもしれない」
雅也は短く答える。
山波は苦笑した。
「縁起でもないこと言うなよ。今日は三十階までの定期巡回だけだろ?」
その言葉が終わるより早く、ギルド端末が震えた。
二人の視線が同時に落ちる。
緊急救難通知。
発信元――三十一階層。
パーティー名――緋天の行軍。
山波の顔色が変わる。
「嘘だろ……あいつらが?」
緋天の行軍。Aランクパーティー。湾岸第一でも上位の実力を持つ五人組だ。
雅也は通知を開いた。
映像は乱れている。暗い岩窟。砕けた槍。悲鳴。
そして、何か巨大な影。
通信は途切れた。
広場の空気が一瞬で重くなる。
山波が唇を噛む。
「俺が行く」
即座に言った。
だが雅也は首を横に振る。
「お前は北区ダンジョンの回収依頼が入ってる。そっちは崩落案件だ」
「でも三十一だぞ? 一人でどうする」
「回収だ」
その声は淡々としていた。
山波は何か言い返そうとしたが、やめた。雅也の目が、いつもより静かすぎたからだ。
「……死ぬなよ」
「死なない」
それだけ言って、雅也は歩き出す。
ダンジョンの縁に立ち、息を吐く。
冷たい空気が肺を満たす。
十二年前。世界各地に突然出現したダンジョン。魔物という未知の存在。探索者という新たな職業。
人類は順応した。
だが、順応の裏で、消えていったものも多い。
雅也は、その消えた側の世界を知っている。
黒い円環へと足を踏み入れる。
視界が歪み、空間が反転する。
次の瞬間、石壁に囲まれた第一階層に立っていた。
ダンジョン内部は、湿った土と鉄の匂いが混ざっている。淡い光苔が壁を照らす。
低層は安全域と呼ばれる。魔物も弱く、観光気分の探索者すらいる。
だが、三十一階層は違う。
そこは選ばれた者だけが踏み込む領域だ。
雅也は無駄な戦闘を避けながら、階段を下る。
十階層。
十五階層。
二十階層。
二十階層の広間で、明るい声が響いていた。
「はい、今日も安全第一でいきまーす!」
松浦かなだ。二十一歳。Cランク探索者であり、人気配信者。小型カメラが彼女の肩に浮いている。
雅也に気づき、かなは目を丸くした。
「え、回収班? こんな時間に?」
「救難だ」
短い返答。
かなの笑顔が消える。
「……三十一?」
雅也は頷く。
かなは一瞬だけ視線を逸らした。
「気をつけて。最近、変な噂あるよ。深層で、魔物の動きがおかしいって」
雅也は歩きながら答える。
「噂は上で聞く」
その背中を、かなはしばらく見送った。
胸の奥に、小さな違和感が残る。
あの男の歩き方は、回収員のそれではない。
もっと、戦場を知る者の歩き方だ。
二十一階層以降、空気が変わる。
湿度が下がり、乾いた風が吹く。
二十五階層で、魔物の死骸が散乱していた。
切断面が異様に滑らかだ。
緋天の行軍の戦闘痕にしては、違和感がある。
雅也は膝をつき、地面に触れる。
まだ温かい。
「間に合う」
小さく呟く。
三十階層。
重い沈黙。
階段の先、三十一階層。
そこから、低く響く咆哮が聞こえた。
人の声も混じっている。
雅也は目を閉じる。
脳裏に、遠い記憶が浮かぶ。
赤い空。
崩れた城壁。
仲間の叫び。
違う。
ここは日本だ。
もうあの世界ではない。
目を開く。
「仕事だ」
剣を抜く。
それは市販品にしか見えない、簡素な長剣。
だが握った瞬間、空気が変わる。
雅也は階段を下りた。
三十一階層。
巨大な岩窟。
中央で、緋天の行軍が包囲されている。
九条烈斗の槍が折れかけている。
天城紗夜は魔力切れ寸前。
速水奏真の双剣は血で滑っている。
真田和希が膝をつき、椎名香澄が震える指で弓を引いていた。
その周囲を囲むのは、甲殻を持つ巨獣群。
通常個体より一回り大きい。
数も多い。
烈斗が叫ぶ。
「撤退経路がない!」
その瞬間。
黒い影が、群れの背後に落ちた。
一閃。
甲殻が断たれる。
二閃。
首が落ちる。
三閃。
静寂。
緋天の五人が呆然と振り向く。
そこに立っていたのは、黒い作業服の男。
「現場回収班。来生雅也」
低く、静かな声。
烈斗が息を飲む。
「……回収員?」
雅也は巨獣の残骸を踏み越え、前に出る。
その瞳には、怒りも焦りもない。
ただ、冷静な計算だけが宿っていた。
「生存確認。重傷者二名。撤退する」
咆哮が再び響く。
奥から、さらに巨大な影が現れる。
岩窟が震える。
緋天の行軍の誰もが理解する。
これは想定外だ。
だが雅也は、わずかに目を細めただけだった。
「……面倒だな」
その声には、恐怖はなかった。
ただ、過去を思い出すような静けさだけがあった。
そして彼は、前に出た。
三十一階層の空気が、張り詰める。
帰還勇者は、まだ名を持たない。
だが戦場は、彼を知っている。




