鏡よ、鏡
◆
目が覚めたら、知らない天井だった。
正確には天井自体は見覚えがある。どこからどうみても自分の部屋の天井だ。右上の角にある染みも蛍光灯のカバーの黄ばみも同じ。でも違うのだ。分かるだろうか?この微妙な違和感が……。空気が違う。光の質が違う。カーテンの隙間から差す朝日の角度は同じなのに、何かが決定的にずれている──そんな気がする。
おかしいな、昨日は別に呑み会なんてなかったし……。
とにかく整理しよう。
俺の名前は宮園颯太、二十歳。中堅私大の経済学部二年生。昨日は堂島と学食でカレーを食い、ゼミの発表資料を仕上げて、深夜二時に寝た。
うん、おかしいところは何もないはずだ。でも、何かが引っかかる。
まあ余りだらだらやってたら遅刻してしまうから、さっさと準備をしよう。
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俺は洗面所で顔を洗った。鏡に映る自分の顔みてうんざりする。一重の細い目、つぶれたように低い鼻、左右非対称の頬骨と後退しかけたおでこ。子供のころから鏡が嫌いだった。映るたびに遺伝子の出来の悪さを突きつけてくる。
けれど驚くなよ、俺には恋人がいるんだ。桐島凛子。丸い大きな目と小さな口、すっと通った鼻筋、卵型の輪郭。同じ学部の男が振り返るくらいには可愛い女の子だ。なんでこんな顔面に恵まれた女の子が俺みたいな不細工と付き合っているのか、三か月経った今でも分からない。付き合い始めた夜に聞いたら、凛子は首を傾げて笑った。
「颯太はね、とっても優しいから」
言ってる事がさっぱり分からなかった。優しさで不細工がチャラになるとは思えなかい。でも凛子は本気だったように思える。
◆
リビングに降りると母さんがトーストを焼いていた。いつもの花柄のエプロン、いつもの後ろ姿。
「おはよう、颯太」
「おはよ」
テレビをつけた。朝の情報番組。天気予報を読み上げる女性キャスターの顔を見て、手が止まった。
不細工だった。忖度なく言って、不細工だった。顎が張り、目が小さく、鼻が横に広い。テレビ局のキャスターにしては造作が崩れている──いや、「にしては」ではなく、純粋に不細工な顔だった。だが堂々とカメラの正面に座り、朗らかな声で気象情報を伝えている。顔面接って言葉があるけれど、キャスターの人って美人が選ばれるんじゃなかったっけ?
チャンネルを変えた。民放のワイドショー。若い女性アイドルグループの特集。五人組。画面に映った五人の顔を見て、俺はトーストを飲み込み損ねた。
全員がブスだった。
いや、全員ではない。四人がブスで、端に一人だけ顔の整った子がいる。大きな目に通った鼻筋。俺の基準では彼女がいちばん可愛い。だがそのメンバーは端のポジションに押し込められ、カメラにもほとんど抜かれない。センターに立っているのは小柄で目が離れて鼻が丸い、お世辞にも可愛いとは言えない子で、ファンの声援テロップが圧倒的にこの子に集中している。
スタジオのMCが言った。「いやあ、センターの○○ちゃんは本当に美人ですよねえ」。
美人。あの顔が美人。
CMに入った。化粧品の広告。小さな目と横に広がった鼻を持つ女優が「自分だけの美しさを」と囁いている。メンズ美容液のCM。「整いすぎた顔、損してませんか?」というコピー。整った顔の男性モデルが不安そうに鏡を覗き込んでいる。
整った顔が「損」。不細工な顔が「美人」。
母さんに聞いた。
「母さん、さっきのアイドル見た?」
「ああ、あの子たち? センターの子すっごい美人よねえ」
「美人……?」
「美人でしょ。顎のラインとか鼻の形とか、ああいう顔になりたかったわ若い頃。端にいた子はちょっと可哀想ね。あの顔じゃアイドル続けるの大変でしょう」
端にいた子。五人の中で唯一顔が整っていた子。大きな目と通った鼻筋のあの子を、母さんは「可哀想」と言っている。「あの顔じゃ大変」と。
鳥肌が立った。
◆
電車の中でスマートフォンを取り出した。
SNSを開く。ファッション誌の公式アカウント。表紙のモデルは鉤鼻の男性。曲がった大きな鼻を正面から撮っている。キャプションに「今季最注目のスーパーモデル」。コメント欄は「かっこよすぎる」「この鼻やばい」「セクシー」。
美容系インフルエンサーの投稿。「整って見えるのが悩みの方へ──非対称メイク術」。コメント欄。「私も顔の左右差がなくてブスに見えてたけど、このメイクで不均一に見せたら褒められた!」。
左右差がなくてブス。整って見えることが悩み。
ニュースアプリ。エンタメ欄。「整形"美人化"で大炎上のタレントA、事務所が謝罪」。記事を開いた。もともと顎が張って目が小さい、俺の基準では不細工な顔だったタレントが、整形で二重幅を広げて鼻を高くした。コメント欄が地獄だった。
「なんで自分からブスになりに行くの?」
「整形前のほうが百倍美人だったのに」
「金かけてわざわざ不細工になるとか意味分からん」
整形で綺麗になることが「ブスになる」と呼ばれている。整形前の不細工な顔が「美人」。
社会学者のインタビュー記事もあった。「"美顔"とは何か──対称性という醜さについて」。左右対称で均整の取れた顔が美の基準とされた時代があったが、現代ではそうした顔は「無個性」「工業製品的」「醜い」と明確に否定されていること。
記事の日付は二か月前だ。ずっと前からこの世界ではこれが常識なのだ。
美醜が反転している……?
俺の知る世界では、整った顔が美しい。この世界では、整った顔が醜い。単純に、完全に、入れ替わっている──そうとしか思えない。
ラノベで読んだことがある。美醜逆転ものってやつだ。なろう系の異世界転生で、不細工な主人公が転生先では絶世の美男として扱われるやつ。サブジャンルとしてはラブコメだろうか?
笑いごとではなかった。
俺の顔。一重の細い目、潰れた鼻、非対称な頬骨。元の世界ではド底辺。でもこの世界の基準なら──俺はイケメンだ。
逆に凛子。丸い大きな目、通った鼻筋、卵型の輪郭。元の世界では文句なしに可愛い。
この世界では、凛子はブスという事になる。
◆
大学の学食で堂島圭介と合流した。切れ長の目に通った鼻筋。俺の基準ではそこそこのイケメン。
「よう颯太」
「よう。堂島、一つ聞いていい。俺の顔ってどうよ」
「何急に。かっこいいだろ普通に。鼻とか目元とか、男前じゃん。羨ましいよ正直」
羨ましい。俺の潰れた鼻と一重の細い目が、堂島に羨ましがられている。
「堂島は自分の顔嫌いなの?」
「嫌いだよ。不細工だし。鼻ばっか高くて目がでかくて、気持ち悪いだろ正直。合コン行っても最初から相手にされねえよ」
堂島が苦笑いした。切れ長の目と通った鼻筋を「気持ち悪い」と言っている。合コンで相手にされない。この世界では、あの顔はモテない顔なのだ。
「つか、凛子ちゃんのことなんだけどさ」
「何」
「あんまり言いたくないけど……凛子ちゃん、正直ブスだよな。丸顔で目がでかくて鼻がつんとしてて、ああいう顔ってさ。好みの問題かもしれないけど、世間的には結構キツいだろ」
堂島は気まずそうに言った。友人の恋人を「ブス」と呼ぶことへの申し訳なさが顔に出ている。でも本心だ。この世界の基準で、凛子は「ブス」なのだ。丸い大きな目も通った鼻筋も、この世界では醜い造形とされる。
でもそんな事知ったことか。
この世界ではブスだったとしても、俺にとっては世界一の美人なのだ。
「凛子は可愛いだろ」
「いや……趣味は人それぞれだけどさ。お前が好きなんならいいよ」
元の世界で俺が凛子に言われたことと鏡写しだった。「颯太はとっても優しいから」。顔じゃない部分で好きだと言われたあの瞬間。堂島も今、同じことを思っている。颯太はイケメンなのにブスの彼女と付き合ってる、よっぽど中身がいいんだろうな、と。
◆
二限の後、凛子に会った。
「宮園くん」
凛子が笑った。くしゃっと目元が潰れる柔らかい笑い方。変わらない。
だが凛子の目がふいに泳いだ。学食の奥にいる女子のグループ。リーダー格の女子がこちらを見て何か囁き、別の子が口元を手で隠して笑った。
嗤われている。凛子の顔が嗤われている。この世界では凛子の整った顔は不細工だから。
凛子の唇が強張った。
「どうした?」
「……別に。いつものこと」
いつものこと。凛子はずっとこうだったのだ。ブスとして生きてきた。嗤われてきた。俺が元の世界で味わってきたのと同じことを彼女も味わっている。
◆
夜、自分の部屋で考えた。
この世界の凛子は、物心ついた頃からブスとして扱われてきたはずだ。整った顔が醜いというこの世界の基準の中で、丸い大きな目も通った鼻筋も全てがマイナスとして。それは俺が元の世界で潰れた鼻と一重の目を抱えて生きてきたのと同じ苦しみだ。
凛子が俺を好きになった理由を思い出す。「颯太はとっても優しいから」。
元の世界では──不細工な俺を、顔じゃなくて中身を見て好きになってくれた。
この世界ではどうなのだろう。この世界の凛子は、イケメンの俺を好きだ。でもそれは顔のおかげなのか、それとも同じように「優しいから」なのか。
分からない。でも分かっていることがある。凛子はブスと笑われながら、それでも毎日大学に来て、俺に笑いかけてくれている。それがどれだけの強さか、俺は知っている。
◆
三日後、凛子と駅前のカフェにいた。
「今日、藤崎さんに言われた」
「藤崎?」
「同じ学部の。あのグループのリーダー」
こちらを見て嗤っていた女子たち。
「面と向かって言われた。『桐島ってほんとブスだよね。よくその顔で毎日来れるね』って」
その顔で。よく来れるね。
「あと、小声で。『あの顔でイケメンの宮園と付き合えてるの謎すぎる』って」
凛子がアイスラテのストローを弄んだ。指先が微かに震えていた。
「気にすんなよ」
「気にするなって、颯太はいつもそう言うけど」
凛子が目を伏せた。
「颯太はいいよ。かっこいいから。何もしなくても周りから認めてもらえる。私は……私の顔はどうしようもないもん」
「凛子の顔は、俺は好きだよ」
「颯太は優しいからそう言ってくれるんでしょ。でも世間はそうじゃない。就活の面接で、この顔見て何て思われるか考えると怖い。スーツ着て髪整えても、顔がこれじゃ意味ない」
就活。顔で落とされる恐怖。俺が元の世界でまったく同じことを考えていた。
「ちょっと、何かしようかなって思ってて」
「何か?」
「スカーリング。顔に傷をつけて見た目を変える施術。クリニックでやれるんだけど」
「……傷つけるのか? 顔に?」
「怖いよ。めちゃくちゃ怖い。でも骨格は変えられないし。整形で目を小さくしたり鼻を低くしたりする手もあるけど、お金がないし。傷を入れるならクリニックで数万だし」
目を小さくする。鼻を低くする。この世界の整形は、造形を「崩す」方向に施術する。
「凛子の顔はそのままで十分だよ」
「颯太だけだよ、そう言ってくれるの」
◆
一週間後、凛子の左頬に細い傷跡があった。
「クリニックで入れてもらった。先生に合うラインを提案してもらって」
プロの仕事。凛子の頬に一本の線が走っている。
「藤崎にも見せたら、『おっ攻めてるじゃん。ちょっとはマシになったね』って」
俺はここで何と言うべきなのだろうか。傷を入れるなんて、と責めるべきではないことは分かっている。しかし、だからといって──。
でも、俺は結局言ってしまった。
「似合ってるよ」と。
「ありがと。ちょっとだけ……ちょっとだけ自信持てた」
凛子は嬉しそうに笑うが、俺はなんというか……キツかった。全てが。
◆
二本目。三本目。凛子の頬に傷が増えていった。母さんは傷をつけたりしない。堂島もやらない。「俺も不細工だけど、顔切るのは怖いわ」と言っていた。大多数の人間は怖くてできない。でも凛子はラインを越えてしまった。
三本目から凛子の笑い方が変わった。嬉しさではなく安堵。「マシになった」の安堵。俺が元の世界でマスクを着けたときと同じだった。
◆
三週間後の夜、電話。
「颯太、うちに来て」
凛子の頬に傷が九本あった。深いほうは腫れていた。
「藤崎に言われた。『傷入れてもベースがブスだから焼け石に水。もっと根本的にやんないと無理でしょ』って」
「もうやめろ」
「なんで? なんでそんな事言うの?」
凛子が泣きながら言う。
「私は綺麗になっちゃいけないの? ブスのままでいなきゃいけないの?」
「ブスじゃないよ」
「嘘。世界中が私をブスだって言ってる。颯太だけだよ、違うって言ってくれるの」
◆
四日目の朝。凛子のアパート。隣にいない。洗面所から水の音。
バスルームのドアを開けた。
凛子が洗面台の前に立っていた。
その顔を見た瞬間、呼吸を忘れた。
凛子の顔の左半分が溶けていた。
皮膚が灰白色に爛れ、頬骨から顎にかけて掌大に真皮が露出している。赤黒い肉の表面が蛍光灯の光を照り返し、組織液が筋になって顎を伝い、洗面台の陶器に赤い点を散らしていた。唇の左端が引き攣れて裂け、奥の歯茎がピンク色に覗いている。
左のまぶた。
凛子の丸くて大きな目──俺が好きだったあの目。その瞼の皮膚が縮れ上がり、もう瞼としての機能を失っていた。常に見開かれた左目の表面が乾いて充血し、瞬きのできない眼球がぬらぬらと光っている。
洗面台の上に茶色い小瓶が開いたまま置かれていた。ゴム手袋。綿棒の束。使用済みの綿棒が数本、先端を赤黒く染めて転がっている。刺激臭が立ち込めていた。
「凛子」
「あ。起きた?」
凛子が振り返った。右半分だけで微笑もうとした。だが左の唇が引き攣れているから笑顔が歪む。口角が上がりきらず、歯茎が見えたまま止まった。
「見ないでね。まだ途中なの」
「途中って──」
「昨日の夜、颯太が寝てからやった。ネットに手順あったの。薄めれば安全って書いてあったけど、薄いとぜんぜん効かなくて。何回も塗り直した」
何回も。俺が隣で眠っている間に、凛子は一晩かけて自分の顔を溶かし続けた。ゴム手袋を嵌めた指先で綿棒に薬液を取り、頬に押し当てて、痛みに耐えて、新しい綿棒にまた薬液を取って、同じ場所にもう一度。
「やめてくれ。もうやめてくれ」
「右もやらないと。左だけだと中途半端だし……」
「凛子はブスじゃない!」
「ブスだよ。ずっとブスだった。颯太以外の全員がそう思ってる。でもこれで少しは──これで少しはマシになれるかもしれない」
凛子がゴム手袋を嵌めた指で新しい綿棒を取り、小瓶に浸した。右手が震えている。左の頬骨の下の真皮を剥き出しにして、歯茎が見える状態で、それでも綿棒を持ち直す。
右頬に押し当てた。
凛子がぎゅっと目をつぶった。右目だけが。左目はもう閉じられない。瞼のない左の眼球が、痛みで微かに揺れた。首筋の腱がうっすらと浮き出た。
三十秒。綿棒を外すと右頬が赤黒く変色していた。もう一回。もっと深く。
「瞼も。揃えたい」
「やめろ」
「この目がブスなんだよ。でかすぎる。気持ち悪い。ずっとそう言われてきた」
でかすぎる。気持ち悪い。凛子の大きな丸い目を、この世界の人間はずっとそう呼んできたのだ。
右の瞼に綿棒の先が触れた瞬間、凛子の体がびくんと跳ねた。瞼の皮膚は薄い。十秒。外れたとき右の瞼も縮れて、瞬きの機能を失っていた。
凛子の両目が見開かれたまま固定された。瞬きのできない二つの目から涙が止まらない。乾いた角膜が反射的に分泌する防御の涙が、爛れた頬を不規則に伝い、裂けた唇から顎へ流れ落ちていた。
凛子が鏡を見た。
鏡の中の顔は、もう桐島凛子ではなかった。丸い大きな目は瞼を失って常に見開かれ、乾いた白目が赤く充血している。両頬の肉が露出し、唇の端は裂けて奥歯の銀の詰め物まで見えている。卵型の輪郭だけが、元の面影を保っていた。
その顔で、凛子は笑おうとした。唇が裂けているから形にならない。頬の肉がぴくぴくと痙攣した。それでも凛子は笑おうとしていて、その意思だけが空回りしていた。
「ねえ、颯太」
「……」
「わたし、きれい?」
目の前にいるのは、二十歳の女の子の顔が溶けた跡だった。瞼のない目。裂けた唇。剥き出しの頬の肉。蛍光灯の白い光に照らされて、組織液と涙がてらてらと光っている。
きれいだと言ってほしいのだ。ずっとブスだと言われてきた子が、自分の顔を溶かしてまで変わろうとして、それで……それで……。
「……とても、きれいだよ」
声が震えた。
凛子が泣いた。瞼のない目から涙が際限なく流れ、爛れた頬の真皮の上を涙が撫でて、裂けた唇から顎へ滴った。
「ありがとう」
凛子の裂けた唇が、ありがとう、と動くのを見ていた。瞼のない両目から涙が止まらない。乾いた角膜を潤すための涙が、爛れた頬の真皮の上を伝い落ちていく。それでも凛子は笑おうとしている。損傷した頬の筋肉がぴくぴくと痙攣して、笑顔の形にならない。唇の裂け目から歯茎が覗くだけだ。でも充血した目の中に──確かに笑みがあった。
凛子が洗面台に手を伸ばした。茶色い小瓶を取ろうとしている。まだ続けるつもりだ。まだ足りないと思っている。
俺はその手より先に瓶を掴んだ。
「颯太?」
蓋は開いたままだった。茶色い液体の水面が瓶の中で揺れている。刺激臭が鼻の奥を刺した。
凛子が俺を好きになった理由を思い出していた。「颯太はとっても優しいから」。その言葉が頭の中でぐるぐると回っている。優しい。優しいだけだ。凛子が「きれい?」と聞いたとき、俺の声は震えた。
なぜ震えた?
理由は分かってる。だが、それを認めるくらいなら死んだほうがマシだ。
俺は瓶を持ち上げた。そして自分の顔に向ける。
「颯太、何して」
茶色い液体が瓶の口から溢れ、俺の顔に落ちた。
左頬から額にかけて。瓶の縁に沿って注がれた薬液が顔の表面を伝い、広がりながら流れ落ちていく。
灼熱。
綿棒で塗るのとは次元が違った。顔面の広範囲が同時に灼けた。皮膚が焼ける音は聞こえないが、音があるとしたらこれだと思えるような、じゅ、という感覚が顔全体に走った。一重の細い目の周囲、つぶれた鼻の表面、非対称な頬骨の上──二十年間ずっと嫌いだった不細工の各パーツを、酸が等しく灼いていく。
声が出た。叫んだのだと思う。激痛が視界を白く飛ばした。膝が折れかけた。洗面台の縁を掴んで堪えた。左手が滑った。涙なのか組織液なのか分からないものが顎から滴り落ちた。
もう片方も。
瓶を持ち直した。残りの液体を右掌に受け──ゴム手袋を嵌めていないことに気づいたが、もうどうでもよかった──掌で自分の右頬を覆うように押さえた。指の間からも酸が浸み、掌と頬の間で皮膚が溶けていく感触があった。
瞼にも掛かっていた。瓶を傾けたときに額から垂れた薬液が、両方のまぶたの上を通過していた。瞼の皮膚が収縮していく。視界が狭まる。目が開きっぱなしになる。凛子と同じだ。
鏡を見た。
顔面のほぼ全域が赤黒く変色していた。一重の細い目は瞼を失って見開かれ、涙と組織液が洪水のように溢れている。つぶれた鼻の表面が灰色に爛れ、鼻翼の皮膚が捲れて赤い肉が覗いている。左右非対称の頬骨の上を真皮が露出して、その上を薬液の残滓と組織液がてらてらと光りながら流れていた。唇の表面が罅割れて、下唇の粘膜は真っ赤にただれている。
もう人の顔には見えなかった。
「颯太!!」
凛子が叫んだ。瞼のない目を精一杯に見開いて──もともと閉じられないのだが──俺の顔を見ている。
「なんで、なんでそんなことするの! 痛かったでしょ!? いきなりやっちゃだめだよ! そんなに沢山……」
「凛子と、同じに、なりたかった」
声がまともに出なかった。唇が損傷して発音が怪しい。舌が薬液の苦味で痺れている。
「同じって──こんなの──」
凛子の声も震えていた。泣きながら俺のほうへ歩いてくる。
俺は手を伸ばし、薬液で灼けた右掌で凛子の背中に触れた。体が小さく震えている。俺は腕に力を込めて、彼女を抱きしめた。
凛子の額が俺の鎖骨に当たった。爛れた頬が俺のシャツに押しつけられて、組織液が滲んでいく。凛子の手が俺の背中に回った。薬液で灼けた俺の頬と、薬液で灼けた凛子の額が触れ合って、傷と傷の間で小さな痛みが行き来した。
凛子が顔を上げた。瞳の中に映る俺は控えめにいっても化け物だ。でも、でも凛子は綺麗だった。
俺たちはそのまま、唇を触れ合わせた。
キスをするだけの肉は溶けずに残っていたらしい。
(了)




