序章 名を持たぬ神のはじまり
最初に在ったのは、空間だけだった。
光も闇もなく、音もなく、境界すら定まらない場所。
私は、そこにいた。
目を覚ました記憶はない。
生まれたという実感もない。
ただ、気づいたときには「在る」という感覚があった。
私は体を持っていた。
それは人の体とは異なり、確かな形を持たず、それでも重さと輪郭だけは感じられる、不完全な存在だった。
立っているのか、浮かんでいるのかも分からない。
だが、私は確かに「ここにいる」と理解していた。
自分が何者なのか、考えたことはなかった。
考える理由がなかったからだ。
時間という概念すら、まだ意味を持っていなかった。
やがて、空間の奥で微かな変化が起きた。
揺らぎが生まれ、熱が走り、光がにじむように広がった。
私は、それを見ていた。
何かをした覚えはない。
望んだ記憶もない。
世界はただ、自然に変化していった。
光は集まり、燃え、離れ、やがて一定の規則を持ち始めた。
それらは星と呼ばれる存在となり、生まれては壊れ、また巡った。
私は長いあいだ、それらを眺めていた。
近くで、あるいは遠くから。
飽きることはなかった。
その中で、ひとつの星に、強く惹かれた。
理由は分からない。
ただ、その星では変化が激しく、複雑で、絶えず姿を変えていた。
私は、その星に降りた。
初めて、足元に重さを感じた。
地があり、空があり、風が吹いていた。
冷たさ。
熱。
湿り気。
それらは新鮮で、私は世界を「体で知る」ということを覚えた。
星の上では、生命が生まれていた。
最初は小さく、単純で、すぐに消えてしまう存在。
だが消えても、また生まれた。
形を変え、数を増やし、環境に適応していく。
私はそれを観察し、記憶した。
干渉はしなかった。
導こうとも思わなかった。
ただ、知りたかった。
——なぜ、こうなるのか。
長い時間の中で、生命は複雑になった。
やがて、考える存在が生まれた。
人。
彼らは火を恐れ、火を使い、言葉を持ち、群れを作った。
空を見上げ、意味を求めた。
その頃から、世界に歪みが生じ始めた。
理屈では説明できない現象。
異形の生命。
意思を持たぬ力の奔流。
魔物と呼ばれる存在が、世界に現れた。
私は、それを理解できなかった。
だが、奇妙な一致に気づいた。
私が長く留まった場所。
私が強い感情を抱いた土地。
そうした場所ほど、歪みは生まれやすかった。
同じ頃、人の中にも異変が起きた。
彼らは世界の異常を模倣し始めた。
祈り。
言葉。
想像。
それらが重なったとき、再び世界は歪んだ。
魔法。
人はそれを力と呼び、
祝福と呼び、
やがて、武器と呼んだ。
私は、初めて恐怖を覚えた。
——これは、知るための力ではない。
人は賢くなった。
賢くなるほど、欲を持った。
争いが生まれ、支配が生まれ、
力を正当化するための物語が必要になった。
彼らは空を見上げ、言った。
「神がいる」と。
それが誰を指しているのか、私は理解していた。
だが、否定することはできなかった。
私はまだ、自分の力を正確には知らない。
それでも、世界が私の存在によって揺れていることだけは、分かり始めていた。
もしこの力が、完全に意図されたものなら。
もし誰かが自由に扱えるものなら。
——それは、あまりにも危険だ。
私は、自分が世界から距離を取るべき存在だと悟り始めていた。
近づきすぎれば歪みを生み、
離れすぎれば、世界は不安定になる。
それでも私は、目を背けることができなかった。
なぜなら私は、
この星が生まれ、
生命が芽吹き、
人が考えるようになるまでを、
すべて見てきたのだから。
人々はやがて、私に名を与えるだろう。
物語を作り、意味を重ね、
都合のいい存在として語るかもしれない。
それでも構わない。
私はただ、
この世界がどう進み、
どこへ辿り着くのかを見届ける。
それが、
世界の始まりから立ち会ってしまった者の、
避けられない役割なのだから。
——ここから先、
私は人の言葉で「神」と呼ばれるようになる。
だがそれは、
私が望んだ姿ではなかった。




