Prologue ——霧の街に響く足音——
午前4時、ロンドン旧市街。
霧はまるで生き物のように石畳の上を這い、街灯の明かりをぼやけさせていた。誰もいない広場に、革靴の音だけが静かに響く。
コートを着込んだひとりの老人が、足早に時計塔へ向かっていた。彼の名はハロルド・メイスン。定年を迎えてなお、街のランドマークであるこの塔の管理人として毎朝決まった時間に塔を見回っていた。
だが、その日は違っていた。
「……な、なんだと……?」
霧が晴れたその瞬間、彼の目に映ったのは――“何もない空間”だった。
確かにそこに建っていたはずの、100年の歴史を誇る時計塔が、影も形もなくなっていたのだ。
驚愕し、後ずさるハロルドの足元に、ふわりと舞い降りたものがあった。
黒いスペードのマークが描かれた、古風な一枚のカード。
♠ “Ladies and Gentlemen, welcome to my stage.” – Brillian Shatt ♠
誰が、なぜ、どうやって――そんな疑問を吹き飛ばすように、空が白み始めた。
そしてその朝から、ロンドンは不思議なショーの幕開けを迎える。
名前すら都市伝説のように扱われてきた“幻の奇術師”。その正体を知る者は誰もいない。ただ、彼女の行く先ではいつもこう言われる。
「不可能が、笑いながら起こる。」
黒髪をゆるく結ったその女性は、風のように静かに、そして劇的に現れる。
高いハット。燕尾服。真っ赤なルージュ。
それが、ブリリアン・シャットだ。
「皆さん、私は世界で唯一、“トリックのないマジック”を使う奇術師です」
そう言って、彼女はまばたきの隙に鳩を飛ばし、床に敷いた絨毯をめくると、観客席の少年の足元から出てきた。
騙された? いいえ、それがシャット劇場の始まり――。