第七章:名前のない正体
午前三時十一分。
港区・高級マンション街の裏手にある駐車場。
雨が静かに降り続け、アスファルトの上に濃い赤が広がっていた。
「……またです、神谷さん。」
若い刑事が傘を握りしめ、苦々しい顔でそう言った。
遺体は駐車場の隅にあった。
男性、三十代。
顔面に深い裂傷、首には鋭利な刃物による切断痕。
服は血で染まり、体の下に広がる血だまりは水たまりと混ざり、黒く濁っていた。
神谷弘志は無言で傍にしゃがみ込み、じっと死体を見つめる。
そして、血に濡れた左手に——一枚の白い羽根を確認した。
「血まみれだな……まるで“見せつけてる”みたいだ。」
「凶器は?」
「見つかっていません。犯人は手袋をしていた可能性が高いです。」
「防犯カメラは?」
「……ちょうどこの一角だけ、死角になっていました。」
「……そうか。」
弘志は、羽根の置き方を確認しながら、
それが“計算された演出”であることを確信した。
(何の感情もなく、ただ処理している。
今回も、完璧に証拠を消している……)
彼は手帳を取り出し、静かに記録する。
■ 第八事件:男性・三十代
■ 死因:刺殺(多箇所)
■ 証拠:皆無
■ 羽根:左手に自然に握られていた
午前五時四十五分。
警視庁捜査一課・オフィス。
弘志はデスクに戻り、事件ファイルを無言で読み返していた。
コーヒーの湯気がもう冷えきっている。
壁には被害者の写真が並び、
そのすべてが“白い羽根”で結ばれていた。
(なぜ、こんなにも完璧なんだ。
どうして一つもミスがない?)
彼は一度目を閉じ、椅子にもたれて体を伸ばした。
肩から力が抜け、深く息を吐く。
「……ふぅ……」
そのとき、近くのデスクから聞こえてきた声が、彼の静寂を破った。
「なあ、“幽霊の殺人者”、ネットでまた新しい呼び名がついてたぞ。」
「“堕ちた天使”だっけ?」
「それも聞いた。あと、“殺し屋ハト”とかも……ふっ……」
——ドン!
突然、弘志が机を拳で叩き立ち上がった。
二人の若い警官は驚いて振り向く。
「……これは、冗談じゃない。」
低く、鋭く、はっきりとした声だった。
「人が死んでるんだぞ。
何人も、冷たく、無惨に。
その命に、名前があって……家族がいて……」
沈黙。
警官たちは即座に立ち上がり、深く頭を下げる。
「すみません……神谷さん。」
「……確かに、軽率でした。」
弘志は何も言わずにコートを手に取り、歩き出した。
午前六時十五分。
街はまだ眠っていた。
雨は止む気配を見せず、灰色の空が広がっていた。
弘志は一人、傘も差さずに歩いていた。
その顔には、疲労と怒り、そして——焦燥が滲んでいた。
(……俺は、本当に……この男を捕まえられるのか?)
その問いだけが、心の中で繰り返されていた。