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第十章:鏡に映るもの


午前三時四十九分。

新宿区の古びたマンション。

階段下、蛍光灯のちらつきだけが静けさを破っていた。


「……神谷さん、今回は少し変わっています。」


若い刑事が小声で言った。


神谷弘志は現場テープをくぐり、暗い廊下を抜けて室内に入った。


そこには、血まみれの光景が広がっていた。


被害者は女性、二十代後半。

ナイフによる複数の刺創。

床には、真っ赤な血が流れ、壁にまで飛び散っていた。


そして——その壁に、不自然な“文字”があった。


「鏡よ。」


血で書かれた、その一言。


「被害者が残したダイイング・メッセージの可能性もありますが、

 指紋も手の形跡もないんです。」


「まるで、誰かに“描かせられた”ように見えるな……」


弘志はじっと文字を見つめた。


「“鏡”……」


「意味が全く分かりません。犯人のメッセージでしょうか。」


「あるいは、ただの撹乱。」


弘志はゆっくりと周囲を歩き、全体の構成を確認する。

遺体の配置、凶器の消失、そして——あの白い羽根。


今回も、羽根は“完璧な形”で手に収まっていた。


だが、それ以上の情報はなかった。

何一つ、新たな手がかりは残されていない。


午後六時。

警視庁第一会議室。


刑事たちは机に肘をつき、疲労と混乱を滲ませていた。


「『鏡よ』……何を意味してる?」


「犯人が自分自身を映してるのか?

 もしくは、被害者に関係ある暗号?」


誰も答えを持っていなかった。

言葉は宙に浮かび、やがて沈黙に消えていく。


神谷弘志は、ただ無言で手帳を閉じ、

椅子を引き、立ち上がった。


「今日はここまでにしよう。」


——夜。

——雨上がりの裏路地。


コツ、コツ、コツ……

濡れたコンクリートに、ゆっくりと響く足音。


黒いフード付きのロングコートを纏った男が、静かに歩いていた。


街灯の光が、後ろ姿をぼんやりと照らす。


誰もいない路地の奥、男は立ち止まり、ゆっくりと顔を上げた。


顔の半分が影に隠れていた。


——そして、右手をゆっくりと顔に当てたその瞬間。


フードの中から現れたその顔——

神谷弘志。


その口元に浮かんだのは、

刑事としてのものではない。


——冷たく歪んだ、静かな狂気の笑み。


「……鏡、か。」


「ふふ……いい名前を思いつくじゃないか。」


【つづく】

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