第二話
妖気。
この世の遍く物体の、心象の余剰。機能の物性であり、そのものの在り方を現実へと引っ張り出す精神の体器官。意識の基に散り集まって流れ、身に纏えば力を強め、武器に佩けば威力を高める、万能の心意気。全ての妖気は特質を持ち、炎や、水や、風や、共通的に認識される現象を象って発露する。
この妖気を操ることができる人間を陰陽師と呼び、妖気でできた命を妖と呼ぶ。
第二話 空亡
「ふーん。偽名ってやつ?」
「はい。騙すような真似をしてすみません」
「俺もやりたいぜ、そういうの」
「あまりいい気分はしませんよ」
「そんなもんか。んで───」
校舎の翳から出て夏の傾いた日を浴び、数メートルほど距離を挟んで交わされていた、一乃と伏見の会話。しかし突如として、伏見の言葉は途切れた。彼は冷や水を浴びせられたかのように息を詰め、見え得ない、背後の何かに非難でもするかのように、流し目をする。
「いやいや。もうちょっとお話させてくれよ。折角の転校生だしさ。そら京都は近いけどよ」
「こちらとしても、穏便に済むならそれが一番助かります」
警戒しているのだろうか。恐らく、こちらの動きに対応するため、過剰に反応しているのだろう。敵意を解くため、両手を後ろに回す。右手左手、互いの袖がなく、指先が手首にじかに触れる。そういえば今着ているのは半袖のシャツだった。
「だよな。・・・・・・いや、まあ、それもそうだけど」
「・・・・・・そうだけど、何ですか?」
何に引っかかりを覚えているのか。彼の心象が読めない。そもそも、こう対面して迷うことがあるでしょうか? 言葉選びでも、相手の出方を伺うでもなく、出方の方針そのものを迷っているように見える。彼はそんなに滅裂なのか。
「だってほら。わざわざ潜入してきて丸一日かけて近づいて来なくたって、いきなり後ろっから頭ぶん殴ってきたっていいわけじゃん。そうしなかったってことはさ。話し合いの余地はあるってことじゃねーの」
「はい、その通りです。こちらとしても、事を荒げるつもりは───」
伏見は、まるで彼女の言葉に動かされる様子がなかった。徐々に、ちらほらと、手持ち無沙汰にあちらこちらを見渡すようになり、一乃へ対するものとは思えない口調にも熱が入っていく。
「いや、それはそれで良いんだよ。俺素人なんだっつの。なんでもいいからお前以外の話聞けるんなら割と収穫なんだよ」
「・・・・・・えぇと、伏見くん。私、待っていますので、考えが纏まったら教えていただけますか?」
まさか妖に精神をどうにかされた? いくら何でも怪奇さが目に余る。寄生型や支配型の妖に・・・・・・いや、それにしては、妖気が無いまま・・・・・・これらは対象の妖気に自身の妖気を打ち込むため、反応が分離していてすぐに───
どことなく不気味な胡乱さを一乃に味わわせていた伏見だが、宙を彷徨っていた彼の瞳が、おもむろに一乃を捉えた。
「・・・・・・ああ、ごめんごめん。今はアンタと話してなかったわ・・・・・・ホラ、だからヤなんだよお前と話すの。絶対怪しまれるって言ったじゃん」
彼の耳。イヤホンやインカムは確認できない。どう考えても他者と会話をしているとしか思えない言葉が出た。そうなると、最も可能性が高いのは術式を用いた通信。妖気の感知できないこの人物なら納得だ。そして、もう一つ。高嶋査官によれば、夏休み前までは素人であっただろう彼に、術式を教えた存在が居る。それが今の通信の相手か、あるいは───
「あーもう、分かった分かった。んじゃあいっそ全部バラしちまおうぜ。・・・・・・まあそう言うなって。俺に任せてみなって」
伏見燈夜と目が合った。彼の口元は緩くニヤついて、背筋をしっかりと伸ばし、両腕をだらりと垂らしている。足を肩幅に開き、左足を前に、右足をやや後ろに配して、重心をぴったりと真ん中に置き───
今の今まで、彼には欠片たりとも存在していなかった妖気が、無から溢れて濃密な存在感を醸し出し
た瞬間、思わず構え、左手で、何も佩いていない腰を掻いた。
「───っ」
濃くなった妖気と共に、彼の外見にも変化が表れた。ふわりと煙のような何かが彼の肩から膝までを取り巻き、鮮やかな白と紫が、燃え盛り入り混じる炎と煙のように靡いた。立ち昇る熱量はどうやら、ただの錯覚ではないようで、彼の周りの空気をゆらりと───
炎天を瓶に詰めて一気に噴き沸かしたような幻惑を突き破り、一直線の疾走で飛び込んできた伏見の姿を捉えるには、一乃の視界は一瞬遅かった。気づくと眼前にまで迫っていた伏見が、自らの首へと手を伸ばしている事実に意識を追いつけるなり、一乃は伏見の襟元を掴み返す。左手で襟元を掴んだそのまま、左足で地面を蹴って身体を右へ押し、伏見の身体を引き込み、ステップを踏むように足の位置を入れ替える。自然、一瞬前に居た位置に右足を差し出す形になり、そのまま、脹脛の側面を使って伏見の下段を薙いだ。しかし、足払いは空振りに終わり、反射的に掴んでいた、伏見の羽織の熱い襟の感触すら無いことまでを意識が辿り着いてようやく一乃は、自身が咄嗟に伏見と交錯した事実に気づいた。
速い───!! 空気の揺れと合わさって目で追えなかった!! しかし何だこれは・・・・・・まるで───
今の交錯より一歩退いた伏見燈夜の、妖気の本領であろう衣服。彼の身体を取り巻くそれは、白い羽織のような服だった。白い生地の、丈も裾も袖も長い羽織・・・・・・いいや。よく見ると、そう称しては正確ではない。長い、白地を基調としたそれは、着物だ。大きく垂れた袖と、襟に何もついていない長い裾。帯が留まっていないが、恐らく女性物の着物を───そこは重要ではない。今しがた彼に突然発生した妖気。それの濃密な部分は、そのまま、着物の部分と一致していた。これは───
「転骸!? 何故それを扱えるのですか!」
「それは俺も聞きたい」
転骸。己の妖気を結晶化させ、肉体を疑似的に拡張する技法。当者の妖気特質からなる術式と、高密度の妖気による強固な物性を有する、妖気を扱う者たちの高等技術の第一歩であり、主に───妖が得意とする術技。
再び、渦巻くような熱に紛れて、伏見燈夜が視界に潜る。まるで、これは陽炎だ。単に炎のような妖気特質というだけでない。熱量の対流を起こして光を歪める陽炎。
・・・・・・それが転骸の術式効果ですか!
「・・・・・・格好いいですね」
「・・・・・・そりゃどうも・・・・・・」
伏見燈夜の、妖気の特質が分かった。炎、あるいは熱。そう考えると納得できる。今しがた、咄嗟に組み合った時に掴んでいた、あるいは掴み損ねたであろう襟。その感触が熱かったのは、転骸の基となった妖気がそのまま熱だったから。恐らく、掴んだ部位を一時的に妖気に還元し、無くしたのだろう。その前後、彼の挙動を幻惑させたものは、そのまま熱の生み出す陽炎。人ひとりの姿を歪ませるような陽炎など、相当の温度でなければ不可能だが、転骸の術式によってそれが拡張されていたとすれば話は変わる。
再び伏見燈夜が動き出す。陽炎が勢いを強めて、ほんの少し重心が浮く。このまま激突し続けても負けるとは思えないが、何か隠し玉がないとは限らず、いやそも、荒事による事態の決着は望ましくない。かといってこのままイニシアチヴを握られ続けることもまたよろしくはない。
「はぁ・・・・・・」
一乃は、ため息を吐いた。組討ち合いのやりとりの狭間。瞬くほどの隙に感情を吐露し、心機を切り替える。
妖気を全力で活性化する。
一乃は、全身に意識を怒張させた。皮という皮が。肉という肉が。血という血、骨という骨、臓物という臓物が。目が。顎が。指先が。ざわめくように躍動し、僅かに軋むような負荷を身に伴って、一乃の妖気が満ちた。それは。土砂を切り崩す濁流の如く身体に溢れて波打ち、強大な生を剥き出しに相対す百獣の如く喝采を上げるその奔流は、正に、力そのものだった。
やや強権に出て、その後に態度を軟化して懐柔を図りたい。幸い、妖気の濃度はこちらが上。威かして、抑える。
その瞬間、伏見は陽炎に紛れ、前ではなく、後ろへと跳んだ。人一人分ほど高くなった、プール設備の敷地。その縁を囲うフェンスに飛び退き、両手を突っ張らせて太腿を掛け、器用に座る。
「あー・・・・・・ゴメン、ちょっとミスったかも」
「そうかも知れません。貴方とは話し合いがしたい」
「・・・・・・針の筵かよ」
勘が良い。妖気の活性に対して、反応を遅らせることも、無理に攻め事もせず、しっかりと逃れて見せた。その上で、私から目を離さず、ただの逃亡ではなく戦法として退避した。
「貴方は・・・・・・」
「うん?」
「貴方は何者ですか?」
問うと、伏見燈夜は幾らか考える素振りを見せた。フェンスに体重を掛ける両手のうち、右手を放して口元にやる。
「そうだな・・・・・・『空亡』っつう妖は知ってるか?」
「『空亡』・・・・・・? 空亡ではなく? 都市伝説上の架空の妖怪のはず・・・・・・」
「だってさ」
そう残して、伏見燈夜はフェンスの向こう側に背を落とした。左手でフェンスの上部を掴んだまま、両足を足裏で左手の脇を踏みつけるような位置に滑らせ、手を放すと同時に蹴った。ガシャンと音が鳴り、彼の身体が向こうへと跳んだことが分かる。
「ま、待って下さい!」
頭の上程の高さのフェンスへと飛びつき、乗り越えてプール場へと侵入する。プールには水が張られており、一息に抜けることはできないだろう。足が止まる。
異常な軌道だった。自らを宙へ放った彼は、身体を丸め、地面と平行に空中を移動していた。山なりに地面へと落ちて激突するような気配が一向に表れず、まるで重力の一切を無視したかのような、軽く薄い紙飛行機のような軌道を描いていた。
一度、プール場端まで下がり、助走をつける。
浮力を強めて重力を低減し、落下を鈍らせる術式はメジャーな部類だ。着物という形状も合致するため、使用していること自体は違和感がない。しかし、そういった類の術式を扱えるというのはやはり、素人には難しいだろう。彼と繋がっているであろう妖はかなり博識な者である可能性が高く、しかし、それが陰陽師と不用意な激突を敢行するでしょうか?
歩幅を調節し、プール槽の縁から踏み出す。
彼の身体が、反対側の縁まで到達した。再びフェンスを蹴って加速し、校舎敷地の境界に植えられた木々・・・・・・その向こうの道路へと消えた。前腕を体の前に立て、膝を前方に出して繁みを抜け、道路に着地したところには、大きな陽炎の僅かな残滓が漂っていて、それだけだった。正面には一面の畑。右、畑の畦道に続いて行き、左、すぐ先に十字路と、その先には立ち並ぶ住居。人影はない。
「くっ」
十字路に走る。依然畑を突っ切る右の道はともかく、左は、学校の敷地と向かい合って家々が並び、幾つかの人影が歩いている。そも、妖気のない彼を追うには難しく、再び校舎に戻られていないとも限らない。
彼を見失った一乃は、諦め半分ながらも周囲を巡った。学校の外周から、校門付近の繁みや塀の裏。更には、校舎に戻って正門から教室を手当たり次第に覗き込み、それでも彼を見つけられず、彼女は項垂れた。
結局、見失った彼を発見することは適わなかった。元より、あの着物状の転骸を使わなければ妖気が感知不能なはずの彼を追うのは難しいだろう。更には、姿をくらませた方向と推定できる方面の先にあるのは、どうやら繁華街らしく、増してゆく人気の中から一人の人間を追うのは難しいと判断した。彼の家や学校を張り込んで狙うのは吝かではないが、先ず以て・・・・・・電話を掛ける。上司へ失態を報告するべきだった。
◇◆◇◆◇◆
「───成程。結構大変みたいだね」
「すみません。想定が甘かった私のミスです」
「そうだねぇ。でも、陰陽師にとって『想定外』なんて当たり前だからね。これを機に色々慣れてもらおうかな」
「はい・・・・・・」
「さて。それにしても・・・・・・取り憑いたわけでもなく、人と同調した妖か。厄介な」
「・・・・・・人と妖の同調? 妖側が相当希薄でなければ成立しないのでは・・・・・・?」
「うん。そこが不可解だが・・・・・・そうとしか考えられない。中身の妖の方の情報は何かないか?」
「先ほど申し上げた特徴以外には・・・・・・『空亡』なる名を口走っていましたが、そのくらいで・・・・・・」
・・・・・・。頭領の言葉が途切れた。始めは、電波が悪くなったかと思ったけれど、スマートフォンを耳から離して画面を見てみても、電波強度に変化は見られなかった。何か、悪いことを言っただろうか。暫しの間、言葉を待つ。
「───空亡・・・・・・?」
その返答の声色は、普段のものとまるで異なっていた。
「・・・・・・頭領?」
「いや、そんな筈は・・・・・・まだ、まだ生きていたと言うのか・・・・・・?」
「と、頭領・・・・・・? 何をご存知なのですか?」
「・・・・・・あ、あぁ、いや、すまない。古い話を知っているだけだ」
初めて垣間見る、頭領の、焦ったような声色。普段、その体躯や容姿に見合わない泰然にして老獪な相貌を見せている彼が、こうも余裕を失っている様子は見たことがない。
「空亡とは都市伝説上の架空の存在ではなかったのですか・・・・・・?」
「ああ・・・・・・千年も前の話だ。しかし・・・・・・消えたと聞いていたのだが・・・・・・いや。ともかく、ご苦労だった。すぐに一等以上の査官を救援に送る。お前は待機、救援が到着次第引き継ぎだ。それまで調査対象との接触は極力控えるように。・・・・・・いいね?」
「わ、分かりました」
「すまない、任務の危険度が跳ね上がった。これ以上の調査よりも、情報の伝達を優先してくれ。最悪の場合は君自身の生存と、可能な範囲での被害の低減を」
「了解しました」
「では、報告は以上でいいかな?」
「はい。失礼しました」
短いノイズ音と共に通話が終了し、スマートフォンをしまう。伏見燈夜との接触から三十分ほど、短絡的に彼を探して走り回ってしまった。彼が消えた体育館向こうの方面は住宅街を抜けて大通りに行き着き、とてもではないが人一人を探し出せるような場所ではなかった。妖気を辿れるならばまだしも、彼はそれをステルス化できるのだろう。
二車線の路面が右折レーンによって膨らまされた、大きな交差点を見渡す。夕刻前の時間帯であるからか車両の交通量こそ多いが、建物の敷地も、畑も、道も、どれも広く開けている上、高低がなく見晴らしが良い。この場所ならば、あれほど強大な妖気反応であれば数㎞離れていても感知できてもおかしくないだろうに・・・・・・なんて厄介な。
ともあれ、高崎査官にも連絡をしなければ。・・・・・・気が重い。
「はぁ・・・・・・」
帰ってホテルのシャワーを浴びよう。彼女がそう考えた時の事だった。
繁華街方面に濃い妖気が現れた。