プロローグ
「や、一乃ちゃん」
背後から呼びかけられ、少女は振り返った。
「あ! お久しぶりです、田中さん。今日は待機ですか?」
少女が装う、道着のような白い衣の袖と、赤い袴の裾が揺れる。
「ん? いやいや! 私はデスクワークがメインだからね。現場はキミら任せだよ」
対して男はスーツ姿であった。
「あ、そうなんですね。いつも情報管理ありがとうございます」
少女は綺麗に礼をした。
「あっはっは! そりゃどうも・・・・・・っと、そうじゃなくて。キミんところの頭領がお呼びだよ」
「・・・・・・え!? ちょっと、失礼します」
少女は慌てたようにスマートフォンを取り出す。
「連絡は何もありませんが・・・・・・」
「ありゃ、そうなの? 何だかよく分かんないけど、見かけたら呼んでくれって頼まれてねぇ」
広い、木造の通路に、二人の声が響く。
「分かりました、ありがとうございます」
「はーい、行ってらっしゃい」
早足で颯爽と去る少女を、大柄な男は笑顔で見送った。
プロローグ 灰神楽
八月二十三日。京都市内、某所。
薄暗い事務室。単なるオフィスとして用いようとすれば、人員と机で埋め尽くされていたであろう空間は、しかし、重厚ながらも穏やかな色合いの木製のデスクが一台と、柔らかく肉厚な背もたれと肘掛けのキャスターチェアが一脚。その脇の書架、上半分の書棚部分にはファイルと書物が隙間なく並んでおり、それらの背表紙と棚台の淵との僅かなスペースに、写真や証書と思しき紙が立て掛けられ、下半分の引き戸部分は閉ざされている、大きな書架。そして部屋の中央手前辺り、向かい合わせに置かれた、来客用の黒い革張りのソファ二つと、その間のガラス張りの天板のテーブル。その足元に敷いたカーペットによって区切られた、応接用の小空間。これらだけが配置された、贅沢なスペースを湛えていた。
青い空の景色を切り取る窓を背に、デスクに腰掛けていた小柄な人物は、身の丈と同じほどの髪を伸ばし、電灯の点いていない部屋の床にぼんやりとした影を落としていた。時折、影を僅かに揺らし、キーボードを叩く音が静かに響かせる。
硬いノック音が鳴った。
「失礼します、頭領」
簡素な事務室の戸を開けて、一人の少女が現れた。両手を体の側面に揃えて腰を折り、恭しく礼をすると、頭の後ろで束ねた黒髪がさらりと流れ落ちる。
「やぁ。済まない、急に呼び出して」
「お気遣いありがとうございます。如何致しましたでしょうか」
「うん。実は、緊急の案件が起きたのだがね。すぐに動ける人員が少ない。頼めるかい?」
「はい、そう言うことでしたら」
「ありがとう。それなら、前の件の報告書はすぐに寄越してくれ。途中でも言い。長引きそうな手続きはこっちで処理するよ」
「え? ・・・・・・そんなに急ぎですか?」
「あぁ。今すぐに何がどうこうなるわけじゃないのだが、ね。さて・・・・・・」
触りだけでも話そう。そう言って、小柄な人物は、デスクに置かれたノートPCをくるりと回し、画面を少女へと見せた。
「兵庫県西部で、妖気反応に関する通報があった。推定当該個体無し、記録データなし、確認例はこの一件のみ。発見者は占諜課の関係者で、階級としては四等査官なのだが・・・・・・」
「・・・・・・随分不明瞭ですね・・・・・・いえ、ここまで話が昇ってきているということは・・・・・・査官からの正式な調査要請か何かがあったということでしょうか」
「ふふ。その通り、占諜課所属の一等陰陽査官から後ろ盾とお墨付きがある」
「成程・・・・・・誤報の可能性は」
「彼曰く、『ただの杞憂だったら辞職してもいい』そうだ。低いと見ていいだろうね、この場合は。無いとも言い切れないが、ね」
一通り話し終えると、小柄な人物は、革製の柔らかく分厚いチェアに背を沈ませ、小さな指で長い髪を梳いた。
「そういうわけだ。君には、神戸まで渡って貰いたい」
「了解しました。期日をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「うん。三日後からだ」
「急ぎではないのですか?」
「あぁ。いや、これでも最速なんだが。届け出の関係でね」
「成程」
「拠点とするのは兵庫県立川北第三高等学校。君にはここに編入し、調査を行ってもらう」
「はい。高等学校ですね・・・・・・学校ですか!?」
「ふふっ」
想定外の指示に慌てふためく少女に、小柄な人物は、つい、とでも言わんばかりに笑いを零した。
「頭領!?」
「いやぁ済まない済まない。色々と見通しの利かない任務になりそうでね。どうせなら楽しんで欲しいんだ」
「そ、そうですか・・・・・・やはり、長引きますか?」
「何とも。恐らくはそうなるだろうがね」
そう言って、小柄な人物は、一通の封筒を少女に差し出した。
少女が封筒を開く。中には、十数枚の書類が入っていた。彼女の、架空の無難な経歴を証明する文書と、彼女には見覚えのない名前の高校、編入元とされる場所での成績を示す文書。
「ホテルは手配しておくから、明後日の夜に神戸まで。その間に詳細に目を通しておきなさい。現地の占諜課関係者と合流して、調査。可能なら対象と接触して報告を。その後は、危険性が高ければ一等査官を投入するから引継ぎ。そうでなければ一般職員を送って手続きさせるから帰還、という運びの予定だ」
「・・・・・・了解しました」
小柄な人物は満足して頷くと、再び前のめり、肘をついて指を組んだ。
「さて。くれぐれも無茶はしないでくれよ? 君の姉上に怒られてしまうからね」
「・・・・・・はい」
扉が閉じ、事務室は再び暗く凪いだ。