青田買い上手と言われたわたしと、“買われた”彼
「エドゥアールさま、どうしてあの女とお別れにならないんですの?!」
事実上はじめて出席した夜会にて、慣れないお酒をすこし多く飲んで火照った頭を冷やそうと、バルコニーに出たら、階下から男女の話し声が聞こえてきた。
エドゥアール――ありふれているけれど知った名に、つい耳をそばだてる。
「死んだ祖母の遺言でね。受けた恩義を決して忘れるな、と。僕は恩知らずになるつもりはない。……そもそも、僕と彼女はビジネスパートナーであって、特別な関係というわけでもないが」
……まさかと思ったのに、もう一方の声はわたしの同伴者のものだった。
「それでしたら、わたくしと真剣なおつきあいをしてくださいませ! わたくしの父は帝都でも有数の画商です、エドゥアールさまの絵を、もっともっと高く売ることができますわ!」
「はぁ……わかってないなきみは。商売の話抜きで、純粋な男女の関係だというなら、僕は来る者を拒む気はない。僕の絵を高く売るだなんて話が絡んでくるから、お断りしている」
女性の熱っぽく甘ったるい声に対し、エドゥアールは平静で冷淡な物言いだった。バルコニーの上で立ち聞きしている、わたしの胸にもざくりと刺さるが。
ふいに口調を一転させ、女性が金切り声で叫んだ。
「あの女は、あなたの才能を搾取しているんですのよ!!」
エドゥアールは、いささかも揺るがずに応じる。
「搾取とは、一方的な収奪のことをいうんだ。僕の絵がサロンで入賞して、売れるようになったのは全部彼女のおかげ。これは互恵であって、きみが口を挟むべき事柄じゃない」
「互恵ですか? エドゥアールさま、あなたはもう充分に恩を返していますわよ。帝都の画壇に認められることを夢見て、地方からやってくる若き絵描きは無数にいます。駆け出しの2、3年を支えたていどで、その後の20年30年の栄光をタダ取りできるだなんて、虫が良すぎるんじゃありませんこと?」
……正論だわ。
エドゥアール、彼女のいうことは正しい。わたしはもう投資したぶんは回収し終えているから、あなたに恩を着せて縛っているつもりはないし、べつに言い寄ってくる女性を躱さなくてもいいのよ。
上から声をかけようかとすら思ったところで、エドゥアールがこれまでもより冷えた声を発した。
「きみが求めているのは、ひとりの男としての僕ではなく“高評価の若手画家”だろう? きみのいうとおり、絵筆一本で食うことを夢想している若造は、このペリムにいくらでもいる。自前で3年後のサロン入選画家を囲えばいい。“出来合い”で手っ取り早くすませようだなんて、それこそ虫が良いにもほどがあるんじゃないか?」
エドゥアールの切り返しかたは痛烈だった。
ちょっとした先物買いの成功で、帝都美術界若手の星エドゥアール=ソールフェの絵を独占するのは虫が良いというなら、自分でデビュー前から画家を育てずに、評価を確立したエドゥアールにコナをかけて絵の販売権を得ようというのも虫が良い。たしかにそれはそう。
「……無駄な義理立てでご自分の評価を高める機会を失ったことを、あとで悔いたって遅いですからね!!」
捨てゼリフにつづいて、ヒールが石畳を蹴りつける高い音が響いた。足音はそのまま遠ざかっていく。どこぞの画商のお嬢さまを怒らせてしまったようだ。
帝都有数というと、プランタン商会かブコワ美術だろうか。どちらにもお齢ごろの娘さんがいたような気がする。
今夜の集まりは、旧王朝時代からの美術界の大物パトロンであるクレルジェリー伯爵が主宰だ。帝都美術界の主だった面々は残らず参加しているだろう。あのご令嬢は、準大手の画商の息女である可能性もあった。それでも、うちよりはずっと格上だが。
……そう、いまをときめく画壇の超新星ソールフェの絵を独占販売しているのでなければ、本来わたしのような零細画商の娘は、クレルジェリー伯の催す集まりに出入りできない。
今日も、招待状が届いたのはうちではなく、エドゥアール宛てで、彼が同伴者としてわたしを連れてきてくれたのだ。上流の夜会に出られるようなドレスがなかったから、貸衣装屋に飛び込まなければならなかったが。
時刻はまだ夜半。夜会はまだまだこれからが本番だ。エドゥアールには、きっとほかにもアタックしてくる女性がいるだろうと、ひとりで帰るつもりのわたしだったが、正面口ではなく背戸からクレルジェリー伯邸を辞そうとしたところで、うしろから声が飛んできた。
「お帰りですか、シモーヌお嬢さま」
「……エドゥアール、談話室や広間じゃなくて、どうしてそんなところにいたの?」
「お嬢さまこそ、なぜ裏口からこっそり帰ろうとなさるのですか?」
「わたしは、ちょっと飲みすぎちゃったから、羽目を外す前に失礼しようと思って。あなたの話を聞きたがる人は多いでしょう、まだ残っていたほうがいいわ」
金髪で碧の眼、鼻すじのとおった秀麗な顔に均整のとれた長身。画家というより、役者だと紹介したほうがすんなり納得されやすいエドゥアールは、肩をすくめながらかぶりを振った。
「僕もいいかげんに帰りたいと思っていたところです。こういう集まりで営業をする必要もない。むしろいま抱えている依頼だけで手いっぱいだ。自分の作品を描いているヒマがなくなってしまう。お嬢さまは、新しい仕事を引き受けさせられたりしませんでしたか?」
「……ごめん、ラザフォール侯爵から肖像画の依頼受けた。半年は先になるって念は押しておいたけど。クレルジェリー伯爵の手前、断れなくって……」
マネジメントを任されているのに、エドゥアールの意に沿わぬ仕事を増やしてしまった。
白状すると、彼はため息をつきつつもこういってくれる。
「それは、仕方ないでしょう。クレルジェリー伯の顔に泥を塗ったら、この国で画業はつづけられない。ラザフォール侯ですね、覚えておきます」
「ほんとごめん」
「いえ、シモーヌ嬢を通してしか仕事は受けないと、直接押しかけてくる依頼人を撥ねつけているのは僕のほうです。お嬢さまのせいではありません。さあ、帰りましょうか」
と、エドゥアールはわたしの腕を取って、きちんとエスコートしてくれながら伯爵邸をあとにした。
たとえ画才がなかろうとも、貴族や富商の集まりの中にいて一切の違和感がない風采のエドゥアールに対し、わたしはブルネットで平凡な顔とスタイルの地味女。まったく釣り合いが取れていないという自覚はあった。
年齢も、エドゥアールは17で都に出てきて19で鮮烈デビュー、以後展覧会であり品評会でもあるサロン・ド・ペリムで4年連続入選をはたして、画壇の折り紙つきとなったいまでも24歳の若さである。
いっぽう、わたしはもう三十路が見えているオールドミスだ。
そしてエドゥアールにとって、わたしは無名時代に援助してくれた恩人でこそあれ、それ以上の存在ではない。
さきほど言い寄ってきたご令嬢を撃退するときも、彼はわたしを「ビジネスパートナー」だと、はっきり言っていた。
エドゥアールは、先だってのできごとについておくびにも出す気配がない。偶然とはいえ立ち聞きしていたことを言いづらいので、こちらからも切り出せなかった。
お祖母さまの遺言だけを理由に、わたしを唯一の窓口として立てていることに、本当にエドゥアールは納得しているのか。もはや彼のさらなる飛躍の枷になっているのは、わたしのほうだというのに。
夜道を馬車で走るあいだ、とりとめのない会話で間をどうにか保たせる。つぎのサロンに出品する絵の題材は決まったかとか、エドゥアールからは、描きがいのない大臣だの成金やらの、当人や家族の肖像を粉飾するのはひと苦労だとか。
……早くすぎ去ってほしいような、もっと長くつづいてほしいような、どっちつかずの時間は終わり、馬車が停まって御者がドアを開けた。
降車したわたしへ、エドゥアールはにこりと声をかけてくる。
「それではお嬢さま、今日は晩くまでおつきあいいただき、ありがとうございました」
「こっちこそ、招待状もらってないのにクレルジェリー伯のお屋敷に入り込めてありがたかったわ。画壇の重鎮のみなさんとすこしコネも作れたし」
「それはよかった。あたらしい絵ができあがったら、納めにうかがいますね」
「わざわざこんなところまで送ってくれてありがとう、エドゥアール」
「当然のことですよ。おやすみなさいませ、シモーヌお嬢さま」
「おやすみ、エドゥアール」
わたしを自宅兼商会事務所前でおろして、エドゥアールの馬車は帝都の一等地方面へと戻っていった。
そう、いまとなってはエドゥアールのほうがずっと良い場所に住んでいて、自宅とアトリエもべつべつに持っている。
社交界へ出向くのに恥ずかしくない立派な馬車すら、傭いではなくお抱えだ。うちの商会にそんな余裕はない。
それなのに、わざわざ都のはずれまで車を回してくれた。
「エドゥアール……あなたにとって、わたしっていったいなんなの……?」
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早めに帰ってきたとはいえ、夜会は夜会。翌朝いつもよりやや遅く起き出して、なおも寝ぼけ眼でいるわたしへ、父が声をかけてきた。
「おはようシモーヌ。昨晩はどうだった?」
「父さんおはよう。美術界の大物がたくさんいてすごかったよ。ラザフォール侯爵からは肖像画の依頼をもらったわ」
「エドゥアールくんには足を向けて寝られんな」
父もそういうように、零細美術商であるうちが潰れずにすんでいるのは、すべてエドゥアールのおかげだ。
そもそも、わがメナンシュ商会は画商ではなかった。細工物や絵皿が守備範囲で、父が健康を損なう前は小さいなりに繁盛していた。
10年前の冬場に父は倒れ、一命こそとりとめたものの、目利きの要である微細な視力と手の感触を失ってしまい、それまでの商売をつづけられなくなってしまった。
蓄えを食いつぶしながら、美術品レベルではない日用使いの食器などを取り扱ってほそぼそ店を開けていたが、遠からず廃業しなければならないことは目に見えていた。
地方で公証人の免許を得た兄夫婦が母の世話を買って出てくれて、わたしと父にも都を引き払ったらどうかと提案してきたが、父は生まれ育ったペリムから離れたがらず(母は地方から都に出てきたクチだったのでこだわりがなかった)、身体の自由が利かない父をひとりにするのは不安だったので、わたしも残ることにした。
いざとなったら店舗と営業権を売ればいい、そうなれば父も都を離れる踏ん切りがつくだろうし――ジリ貧から目を背けて、開店休業状態のメナンシュ商会を惰性で維持していたそんなある日、公園で絵を描いていたエドゥアールを見かけたのだ。
最初は、空き部屋を貸せば下宿代が入ってこないかな、と思って声をかけたのだったけど、上流階級の御曹司みたいな雰囲気を漂わせていながら、エドゥアールは駆け出しの貧乏画家で、お金は全然持っていなかった。
でも、なんとなく良い絵を描いているような気がしたから、たまに身体が利かない父の代わりに力仕事をしてくれれば家賃はタダでいいと、かつては兄が使っていた部屋に住まわせることにしたのだった。
エドゥアールは自分の画才を試すために地元から飛び出してきたばかり(だから一張羅も薄汚れておらず、画家になるため都に出てきた地方名士の子弟に見えた)で、そのときは日々支払いの安宿に泊まっていたから、すんなりと移ってくることができた。
そして、2年で帝都の最新流行画を学んだエドゥアールはサロン・ド・ペリムにて特別新人賞を獲得し、それからは4年連続で正規入賞、どんどんと名声を高めていった。
わたしは、ほとんど……いや、完全に偶然で、エドゥアールという金の卵を生むガチョウを得たのである。
「……ねえ父さん、わたし、そろそろ結婚したほうがいいかな」
父へ話を振ってみると、
「エドゥアールくんとかい?」
だなんて、太平楽な声が返ってくる。
「まさか。エドゥアールとはそういう関係じゃないよ」
「じゃあ、だれとだい?」
「いないから訊いたんじゃない。だれか、いいひと紹介してくれるアテとかないの?」
父はゆっくりと手を動かし、鼻の頭をかいてから答える。
「むかしの伝手は、ないでもないが。急に見合い結婚志望なんて、どうしたんだシモーヌ」
「エドゥアールに無理をさせてるのは、うちのせいな気がして……。帝都イチの売れっ子なんだから、ほかの美術商に仲介を任せれば現状の2倍以上稼げるのに、いまだにうちを専属にしてくれてるのって、わたしや父さんに気を遣ってるからじゃないかな」
エドゥアールが義理堅くて優しいということは、これまでのつきあいでよくわかっている。でも、その好意にいつまでも甘えていたくはない。
昨晩のように、有力画商とかパトロンになりうる貴族のご令嬢から言い寄られるたびに、手ひどく袖にしていたのでは、いずれ敵が増えすぎてしまう。
芸術の世界というのは、実力は半分までだ。コネもないと一流にはなれない。といっても、一部で言われているような、縁故と賄賂がすべての腐敗した世界ではなかった。
帝国政府は美術品も輸出すべき国産工芸品として振興に力を入れているから、コネとバラ撒きだけで、道楽で絵や彫刻をやっているような、お偉いさんのボンボンが入選できるほど甘くはない。才能があるのは前提である。
裏を返せば、サロンに出品してくる作家たちは、全員残らず才能があるのだ。サロン・ド・ペリムの絵画部門審査員は、帝国美術局が半数を任命し、残り半数は画家たち自身による投票で選ばれている。
若手の一番星エドゥアールといえど、審査員のあいだで悪評が広まれば、作品の出来とはべつの要因で落選とされてしまいかねない。
わたしたちのせいで、エドゥアールがことあるごとにあたらしい敵を作ってしまう事態は、避けたかった。
「おまえが結婚することで、本当にエドゥアールくんは安心してほかの画商と契約を結ぶようになるのかね?」
父は、わたしの結婚で状況が改善するのか懐疑的なようだ。
「すくなくとも、うちの商会を立て直すか潔く畳むかははっきりするでしょ。どんなひとがわたしの結婚相手になるかしだいだけど」
「そうだな。一度この件について、エドゥアールくんとじっくり話をしてきなさい」
「なんで……? エドゥアールは関係ないわ。話したらよけい心配させるだけじゃない」
負い目を持ってもらいたくないからまず結婚を決めたいのに、どうして先に話してしまわなければならないのか。
「おまえの母さんは、若いころわしにはっきりと言ったよ。『ペリムの街に自分の店を持っている男と結婚するために、田舎から出てきたんだ』とね」
「……母さんらしいわね。でも、それとエドゥアールに断りを入れてからじゃないとわたしが結婚しちゃいけない理由って、関係ある?」
「わしが娘を結婚させたいといえば、どこへ出しても恥ずかしくない立派な若者を紹介してくれる人くらいいるさ。まずは、エドゥアールくんが本当に義理と同情心でおまえに絵の販売窓口を任せてくれているのかどうか、確認するべきだ」
「その必要はないの。本人がはっきりと言ったわ。お祖母さまの遺言に従って、恩義を返すためにやってることだって。わたしとは、ビジネスパートナーの関係にすぎないって」
声が裏返ってしまった。なんでだろう、涙があふれてきた。
父は視力が弱っているので、わたしの涙は見えていないかもしれない。でも、耳は遠くなっていないはず。それなのに、昨夜のエドゥアールを思い起こさせるような平静な声だった。
「本人から直接聞いたのかね?」
「そうじゃ……ないけど。たまたま耳に入ってきたの、昨日の夜会で。エドゥアールがよそのお嬢さんから熱心にアピールされてたんだけど、わたしへの義理立てを理由に断ってた」
「確認してきなさい。エドゥアールくんが義務感だけで、わしとおまえの食い扶持を確保させるために仕事を流してくれているのなら、すぐやめさせるように。その場合、おまえの結婚相手はすぐに見つけてやろう、手に職を持った堅実な男をな。わしはジャンの世話になる」
ジャンというのは、わがメナンシュ家の長男であり、わたしの兄だ。目利きの才能がさっぱりなくて、家業は継げないなと早々に見切りをつけ勉強し、公証人の職を得た。すでに地方で母と同居していることは、前に述べたとおりである。
状況しだいでは生まれ育った都を離れる――父にとてつもなく重たいことを言わせてしまったと、いまさらわたしは気がついた。
「父さん……」
「おまえのしあわせより大事なものはないよ。ボロボロになっているが、この店舗はさいわいわしの持ち物だ。売れば持参金は充分に出してやれる」
「ありがとう。……エドゥアールのところ、行ってくるね」
「ああ、行っておいで」
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辻馬車を捕まえて、帝都の中心部へ向け走る。この時間は自宅ではなくアトリエのほうにいるだろうと当たりをつけたとおり、ドアをノックするとエドゥアール当人が出てきた。
「ようこそ、シモーヌお嬢さま。めずらしいですね、お嬢さまのほうからきてくださるなんて」
「急に押しかけてごめんなさい。作業の邪魔なら、またあとにするけど」
「まだ大したことはしてませんから。本格的に描くのは午後からです」
「なら、いまのうちのほうがいいのね」
「大事なお話でしょうか?」
「ちょっとね」
エドゥアールに招じ入れられ、アトリエの中へ。制作途中らしいキャンバスがあった。
まだ大雑把なかたちにしかなっていないが、青い水面、あるいは空を背景に、目の醒めるような美女が裸身をあらわにしている絵のようだ。
「きれい……」
思わずつぶやいてしまう。神話の一場面をモチーフに借りて、裸婦像を描くというのは基本的な技法だ。
これほど実在感の強い裸婦像となると、モデルがいるだろう。若手に限らず、画家というのは恋人兼モデルの美女といっしょに暮らしていることが多い。モデルたちのうちのひとりを妻にしながら、ほかとも愛人関係をつづけるお騒がせ画家もめずらしくはない。
「つぎのサロンに出品するつもりです」
いつのまにやらお茶のカップが載ったお盆を持って、エドゥアールがわたしのすぐとなりに立っていた。
「完成する前からわかるわ、かならず入選するって。……お手伝いさん、いないの?」
「絵描き仲間にもよく言われるんですよ、掃除婦くらい傭えって。でも、どうにも他人がいると集中できなくって」
「じゃあ、モデルさんは?」
「この絵の? いえ、いません」
「ウソでしょう!?」
想像だけで、こんな、すぐそこに立っているかのような美女像が描けるとか、それは天才をとおりこしている。画聖か、画神か。
「想定している女性はいますが、そのかたはモデルではないので……そのひとがここに立っていたら、もし服を脱いだら、こんな感じかなって、思い浮かべながらです」
エドゥアールの説明に、なんとなく納得できた。ひそかに想いを寄せている女性への思慕の念がこの絵を描かせているなら、この出来もありえるかもしれない。
どんなひとだろう……。
描きかけの絵が見えるところにテーブルを出してもらって、ひとまずお茶をごちそうになった。
「……わたしが淹れるより美味しいわ」
「お嬢さまのご自宅へ送らせていただいているものと、同じ茶葉ですよ」
「じゃあ完全に腕の差ね」
エージェントが二流なのでその画才ほど稼げてはいないが、エドゥアールはお金に困っていない。作業に集中できないからメイドは傭えないというなら仕方ないが、これほどお茶淹れが上達してしまうまでに自分でなんでもこなしているというのは、少々もったいない気がする。その時間を描くことに使えれば、もうすこし仕事の効率が上がるだろうに。
アトリエの中きれいだし。掃除も自ら手抜かりなくやっているのだろう。
「ところでお嬢さま、ご用件とは?」
「あ、そうだ。今朝がたに、父と話したことなんだけどね」
「はい」
「わたし、結婚しようかなって」
がちゃん!
床にカップが落ちて、砕け散った。中身は飲み干していたので熱いお茶がぶち撒けられる事態にはならなかったが。
カップが転げ落ちるほどテーブルを揺らしながら立ち上がったエドゥアールが、血相変えて叫ぶ。
「だれと!!!?」
「……いや、まだ具体的にはなにも。父が現役だったときの伝手で、いいひとをすぐに見つけてくれるとは言ってた」
「どういうことですか……」
「あなたの親切に、わたしたち父娘はこれまで頼りすぎてた――」
わたしは父と交わした会話を、かいつまんでエドゥアールに伝えた。
「――6年も前の無料下宿の恩なんて、あなたはとっくに返し終わっている。だから、もし義理だけでうちの商会に窓口を任せてくれているのなら、もうやめてもらいたいって父も言ってた。わたしとしてはね、あなたが今後も販売を任せてくれるなら、メナンシュ商会を正式な画商にして、ほかの若手画家の絵も取り扱って、顧客からきちんと代金を取れるようにしたいの。いまのままじゃ、わたしのせいでエドゥアール=ソールフェの絵が適正な価格で売れてない状態がつづいちゃう。それは嫌なのよ」
らしからぬ取り乱しようはほんの一瞬で、わたしの話を聞いているうちに、エドゥアールはいつもの沈着冷静さを取り戻していた。
「なるほど。シモーヌお嬢さまとウジェーヌさまのお考えはよくわかりました」
ウジェーヌとは、わたしの父の名である。
「ほんとうに、いままでごめんなさい。わたしは画壇のことなにも知らなかった。昨日クレルジェリー伯の夜会に連れて行ってもらって、ようやくわたしはエドゥアールの足を引っ張ってるだけなんだって気がついた」
椅子を蹴倒し、テーブルに手をついた体勢のままでわたしの話を聞いていたエドゥアールは、こちらのかたわらへ歩み寄ってきた。
かたひざをついていわく。
「それでは、こうしましょう。シモーヌ、僕と結婚しよう」
「……ほぇ?」
「まだウジェーヌさまは、具体的な結婚相手の人選には入っていなんでしょう?」
「そう、だけど」
「なら僕でいいはずだ」
「まって……急じゃない……?」
エドゥアールがわたしのことを「ビジネスパートナーにすぎない」「特別な関係じゃない」と言っていたのを聞いて、傷ついたのは事実である。
ただ、恋人っぽいことなにひとつしないうちに、いきなり「結婚しよう」と言われても。
「この絵のモデルはきみだ」
そういってエドゥアールがしめしたのは、制作途中の美しき裸婦像だった。
「え……ぜんぜん似てなくない? わたしこんな、美人じゃないし、お肌こんなにきれいじゃないし、プロポーションも……」
「じゃあ見せて。本物を」
「ちょ、いきなりなにを……」
しどろもどろになるわたしの両肩に手をおいて、エドゥアールは滔々と語りはじめた。
「僕はずっと、きみのことを愛していて、早くものにした、もとい結婚したいと思っていた。ただ……最初に特別新人賞をもらったときから、複数の画壇関係者からべつの意味で興味を持たれてしまって、僕はきみ以外眼中にないのだということが知られると、干されてしまう可能性が高かった。……僕には、絵を描く以外の才能がない。画壇での成功を捨ててきみとの愛を選ぶなんて、聞こえはいいけど無責任だ。だから、サロンで5年連続入選して、無選考特選者の資格を得るまで待っていたんだ。サロンでの選考免除さえ勝ち取れば、あとは画壇のお歴々をどれだけ怒らせても落選にはならない。もちろん、それで駄作量産が許されるようになるわけじゃないけど、すくなくとも政治的理由や私怨で締め出されることはなくなるから」
早口! 早口であんまりよく頭に入ってこないよエドゥアール!
でもとりあえず、絵を描く以外に才能がない、なんてことはないと思うな。お茶淹れもお掃除も隙がないし、ものすごく器用だよあなたは。
「お祖母さまの『受けた恩義を決して忘れるな』という遺言は……?」
「どうしてそれを? 祖母はまだ元気にしてるよ。わきまえなく言い寄ってくる男女を躱すために、適当にでっち上げただけさ」
「あ……そうだったんだ……」
やっぱり、言い寄ってくるのは女性だけには限らなかったのね。
「昨日夜会に連れて行ったのは、クレルジェリー伯には『僕の本当の伴侶をお見せする』と約束してたからなんだ。シモーヌは、よその画廊のアコギな商売のことなんて、気にしなくてよかったのに」
「あなたの絵はもっと高く売れるのに、わたしの力不足で適正価格にできてなかったのは事実だし……」
「お金なんて、これからいくらでも稼げるさ。……さて、誤解もとけたことだし、絵を仕上げて5年連続入選を確実にしないとね」
エドゥアールはそういって、わたしの手を取り、腰をやさしく抱いて椅子から立たせる。
「え……なに……?」
「モデルになってよ。僕の本物の女神さま」
「いや、それは……まって、心の準備ができてない……」
無理だよお、本物は絵より全然しょぼいもん! ていうか、わたしの実物見て描いたりしたら、サロン落選しちゃうかもしれないじゃない!
服を脱がそうとするエドゥアールをどうにか躱して、その日は家へと逃げ帰った。
……キスはされたけど。積年の情念がこもった、ものすごい濃厚なくちづけだった。溶けそう。
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後日、エドのアトリエで、わたしは羞恥にふるえながらモデルを務めた。
現代の若き画聖の筆は、あきらかに美化600%くらいでわたしの裸身をキャンバス上に描き写していたけれど、不思議なことに、想像だけで描かれていたときより出来栄えは良くなっているように見えた。
日々の作業が終わるたびに、光がよく差し込むアトリエの中でたっぷり彼から愛されて……。正式な結婚前にちょっとまずくない? と思いながらも、痺れる甘美の味には抗えなかった。
……その年は万国博覧会が開催されたため、サロン・ド・ペリムはいつもと違う会場で、万博内のパビリオンのひとつとして開かれた。
出品されたエドゥアール=ソールフェ作『アリキアの巫女』は激賞を集め、最高金賞を獲得し、同時に5年連続入賞をはたしたエドは無選考特選者の栄光に輝いて、今後は無条件で出品作品がサロンに展示されることになった。
受賞の席で、エドはわたしとの結婚を発表した。画壇の若き旗手突然の宣言は驚かれはしたものの、帝都美術界の大パトロンであるクレルジェリー伯爵がまっさきに祝福し、授与式の会場内からあたたかな拍手をもらうことができた。
フライングでわたしはもう妊娠していたので、お腹が目立ってくる前に式を挙げる必要があって、ちょっとバタバタすることにはなった。
エドが懸念していたとおり、画壇の一部からは画風の方向性や技術的巧拙とはべつの理由で嫌われてしまったけれど、無選考特選者となったことで、描いた絵が広く世間から評価を受ける前に葬られてしまうという事態は回避できた。
数年後にはエド自身がサロン選考委員のひとりに選挙されるようになり、作品そのものの出来栄え以外の要因が選考に影響しないよう、画壇の改革も進めていくことになる。
わたしは絵の販売や肖像画制作の依頼窓口としてよりは、“他人”じゃない関係として、作業中のエドに軽食を作ったりお茶を淹れたり、アトリエの掃除なんかをすることで、彼が本業に専念できる時間を増やし、画家としてのエドゥアール=ソールフェに貢献できるようになった。
そしてもちろん、モデルとしても。
「ねえ……やっぱり美化しすぎじゃない?」
「僕の目にはきみがこう見えるのさ、シモーヌ」
おしまい