今日は厄日だな
◇
唖然とするエマとメルン。びしょ濡れだった姿が、あっという間に元の状態に戻ってしまった。
「す、すごい……!」
素直なメルンは賞賛の眼差しで男を見つめたが、彼は呆れるように肩をすくめて冷たく言い放つ。
「受験生は皆、これくらいできて当たり前のレベルだから。この程度で驚いてたんじゃ合否は目に見えてるな」
「……っ」
温情のかけらもないその言葉に、ひどく傷ついたようにシュンと俯くメルン。
極力余計な口は挟むまいと、物事を穏便に済ませようと思っていたエマだったが、さすがにこれには我慢できなかった。
ツカツカと前に出、その場を離れようとしていた男の外套をむんずと掴む。
「……!」
「ちょっと」
驚いたようにこちらを振り返る男。薄紫色の美しい瞳が、鋭くエマに向けられる。
「なに?」
「ぶつかって衣類を汚したことは謝るわ。でも、素直に謝っているメルンにわざわざ嫌味まで言う必要なんてないし、魔法で簡単に戻せるなら、意地悪な質問なんてせずにはじめからそうしてくれていればよかったじゃない」
「……」
「ちょ、え、エマっ!」
口を尖らせて男を睨むエマと、そんなエマを不機嫌そうな目で見下ろす銀髪の男。
男はあわあわとその場で狼狽えていたメルンを「邪魔」と脇へ追いやると、ずいと一歩前に歩み出て、窘めるようにエマの顔をまじまじと見つめた。
「ふうん……」
「な、なによ?」
「そいつの友達か何か?」
「ええ、そうだけど」
「名前は?」
「人に名前を聞くときは自分から名乗るのが礼儀じゃない?」
「……。ヴェルモンド・ウィザードカレッジ、S1クラス、レイ・グレイス」
怯まずに答えるエマに、カチンとしつつも爽やかな笑みを浮かべて答えるその男――改め、レイ・グレイス。
その名を聞いて、エマとメルンはギョッとするように固まった。
間違いない。今さら気づくが、彼の外套の胸元には王族の証であり、魔法省の魔法大臣を歴代、世襲制で務めている由緒正しき『グレイス家』の家紋が施されている。
レイの纏うオーラからしてなんとなく嫌な予感はしていたが、気のせいではなかった。エマにおいては、相当厄介な相手だ。
王族であることもさることながら、魔法省はこの世界の魔法や魔女に関するあらゆる権力を握っている機関。万が一、彼を通じてそのトップである魔法大臣ドン・グレイスに自分が魔女であることがバレようものなら、穏やかな庶民生活は終わったも同然。物申す間もなく捕えられ、即座になんらかの措置を受けることになるだろう。
「で、アンタの名前は?」
あまり自分の名前を印象付けたくはなかったが、下手に嘘がバレても余計に面倒だ。エマは引き攣りながらも無理やり微笑んで返す。
「……エマ」
「ファミリーネームは?」
「ないわ」
「ない?」
「ええ。孤児院出身なの」
「へえ」
その一言で、何かを察したように言及を止めるレイ。
「もういいでしょう? 私もメルンも急いでるの。次に会うことがあればその時に借りは返すから。失礼するわ」
――もう二度と会うつもりはないけど。
暗にそう心に秘めながら、これ以上の詮索はプライバシーの侵害だとでもいうように一方的に言い切って、お辞儀をひとつ、「行きましょ、メルン」と、エマはその場から離れようと身を翻した。
「グオオオォーーーッッ」
「きゃああっっ」
「!」
しかし、ふいに背後の馬車乗り場で騒がしい雄叫びが轟き、それに連なるよう通行人の悲鳴が口々に聞こえた。
動きを止め、振り返る一同。
そこには、先ほどエマたちが乗ってきたと思しき馬車のヒッポグリフが、血相を変えて暴れ回っている姿があった。
「ヒッポグリフの暴走だ!」
「他馬車とぶつかって魔法生物同士で乱闘を始めてる!」
「危ない、離れろっっ‼︎」
あたりにはそれなりのギャラリーがいるが、騒ぐ人間がいても、馬や魔法生物たちの暴走を止められるような魔法使いはいない様子。輪の中心はパニック状態で騒然としている。
「今日は厄日だな……」
やれやれとため息をつきながらも、レイはすぐさま外套の裾を翻し、颯爽と騒動の渦中へ飛び込んでいく。彼は再び懐から魔法杖を取り出したかと思えば、なにやら小声で呪文を詠唱した後、それを優雅に振り翳した。
「鎮まれ獣ども――束縛!」
「グギャァァァ!」
「ギャオッッ」
暴れていた三体のうち、二体が吹き飛ばされたように宙に浮かび、光の輪っかで拘束される。
周囲からおおっと歓声が上がり、安堵したのも束の間……呪文のターゲットから外れた残る一体のヒッポグリフが、腰を抜かしてその場にへたり込んでいた無抵抗の母子に襲い掛かろうとしていた。
「ど、どうしようエマ、あそこ!」
「!」
青ざめたように叫ぶメルンに促され、そのことにハッと気がつくエマ。
現在魔法発動中のレイでは、手が塞がっており対処ができない。
他に魔法使いらしき人物も見当たらない。
助けてあげたいが、街中で無闇な魔法の乱用は基本的に禁止されている。魔法省からの認可――魔法免許――があり、今回のような適正の範囲内であれば公然での使用も問題はないのだが、魔法学生でもないエマやメルンにその免許があるはずもなく、ただただ立ち竦むしかできない。
でも――。
「ひいっ! だっ、誰か――っ!」
逡巡している暇などなかった。
子を守る母の悲痛な叫び声を聞いて、エマの体は反射的に動いていた。
前に飛び出し、懐に隠し持っていたヴェルモンドの試験用魔法杖を取り出して、母子に向かって思いっきり振りかざす。
「 保護せよ!」
エマが叫んだのと、彼女の振り翳した杖先から母子目掛けて尋常ではない強い魔力が解き放たれていったのは、ほぼ同時だった。
「!!」
「……!?」
瞬時に母子の周りに漆黒の壁が張り巡らされ、二人に襲い掛かろうとしていたヒッポグリフは壁に激突し、跳ね返されて怯んでいる。
「捕えよ――束縛!」
その隙に追い打ちをかけるよう拘束魔法をかけ、身動きが取れなくなったヒッポグリフを、エマは冷静な眼差しでジッと見つめた。
この少しグレーがかった毛並みが特徴的なヒッポグリフは、先ほどエマたち三人を乗せた馬車のものだ。
――首輪のあたりに、なにやら僅かな傷がついている。
怪訝に思い、歩み寄るエマ。
拘束中のヒッポグリフに手を伸ばし、首元を辿ると……出てきたのは、ヴェルモンドウィザードカレッジの試験用魔法杖。
刻まれた受験番号も間違いない。
まぎれもなくそれは、探していた親友・メルンの受験票(試験用魔法杖)だったのだ。