取り引き
◇
学園長室を退出したエマは、学舎に戻るための長い廊下で、突然、その歩みを止めた。
「……?」
「ロアくんごめん……私のせいだ……」
エマはこれ以上にない後悔の念を滲ませて呟き、両手で顔を覆う。
ロアはそんなエマを慈しむように見つめた後、ソッと頭を撫で、穏やかな声色で励ました。
「エマのせいじゃない。僕は大丈夫だから」
「でも……ロアくんにだって夢とか、目標とか、ヴェルモンドでやりたいこととかあったでしょう?」
「……」
「それを全部、私が台無しに……」
「聞いて、エマ」
「……?」
「退学になってエマのそばにいられないのは嫌だけど……でも僕、君に出会えたことが何よりの収穫だから。何一つ、後悔してない」
「ロアくん……」
「それにね、エマ。僕は……」
熱い眼差しでまっすぐに見つめ、まるで求愛でもするかのようにエマの頬に優しく触れるロア。
長い前髪の隙間からわずかに見える彼の瞳は、やはり今日も、魔性の魅力を秘めた緋色に揺らめいており、気を抜けば呑み込まれてしまいそうなほど美しい。
「僕はヴェルモンドを退学になっても、君のことを……」
――と。妙に真剣な声色で、ロアが何か大事なことを告げようとしたその時、それまでの甘い雰囲気をぶち壊すように、冷ややかな声が二人を遮った。
「まだ『退学』になるって決まったわけじゃねーけど」
「……!?」
「……!」
視界が揺れ、あれよあれよとロアのそばから引き剥がされる。
背後から腕を引かれたようだ。ぽすんと厚い胸板で受け止められ、ハッとしたように見上げると、そこにはやや不機嫌そうな顔つきのレイ・グレイスが、目の前のロアを睨みつけるように立っていた。
「レイ……グレイス……」
「レ、レイ・グレイス!」
急に現実に引き戻されたような気持ちになり、慌てて気を引き締めるエマ。
エマは希望を齎すような、彼の重要な発言を聞き逃さなかった。その姿勢のまま、前のめり気味に問いただす。
「ちょ、ちょっと待って……どういうこと? ロアくん、退学にならない方法あるの?」
「あるけど」
「……!」
「……」
いともあっけらかんと答えるレイに、エマは目を輝かせる。
「さ、さすが首席学生サマね! なに? どうやるの? 教えてよレイ・グレイス! ロアくんが退学にならないなら、私、なんでもするから」
背に腹は変えられない。縋るように食いつくエマとは正反対に、なにやら嫌な空気を察した様子のロアが顔を顰めている。
「エマ、ダメ。ソイツの提案なんか……」
ロアはレイからエマを引き剥がそうと手を伸ばしたが、レイはやはり、彼から遠ざけるようにエマの体をさらに自分側へと引き寄せた。
「二万スコア」
「……へ?」
「……!」
「二万スコアもありゃ、減点解除して諸々の事務手続き踏んで、正攻法で退学処分の解除ができる」
「できるの!?」
「できる。ヒルダ教授も言ってただろ。『正当な異議申し立てや、考慮すべき事情がある場合には、正式な手続きを経て、本日中に申し出ろ』って」
「そういえば。確かに言ってたね……」
「カレッジ側は温情をかけてやりたくても、規則がある以上それはできない。だからヒルダは、わざと匂わせるような文言を付け加えて、自分らでなんとかしろって暗喩したんだよ」
「……!」
「まあ……そうは言ったって、普通の学生なら『二万』なんてよっぽどなスコア、一年かかっても稼げるかわからねえレベルの額だけどな」
エマは頷く。レイの言いたいことはなんとなくわかった。
ようは退学を取り消したがっているエマ、あるいはロア本人が、本日中になんらかの手立てで二万スコアさえ獲得できれば、減点の帳消しに加え、スコア消費による異議申し立てを申請することができるのだろう。
いや、しかし――。
(に、二万も……?)
どのような配分になっているのかはわからないが、相当な額のスコアだ。通常の学生が一年かかっても稼げるかどうかわからないそれを今日一日で稼ぐだなんて、あまりにも現実的ではない。
「二万……そんな膨大な額、今日一日でどうしろっていうのよ」
「んなもん簡単だろ」
「簡単なわけ……」
いともあっさり言ってくれるので、ムッとして口を尖らせたところ、グローブの嵌められた手で、その頬をムニ、と掴まれた。
「……!?」
そのまま、引き寄せられるようにレイ・グレイスと視線を合わせられる。
透き通るような薄紫色をした、ロアの瞳に負けないほど美しい瞳だ。
レイは戸惑うエマを静かに見つめた後、不敵な笑みを浮かべて言った。
「俺が、二万スコアでアンタを買いとってやる」
「……はい?」
「なっ」
聞き間違いではない。その現実を植え付けるよう、レイは続ける。
「減点帳消しに五千。帳消しに関わる諸々の手数料に五千。意義申し立て特例申請に一万。合計二万もありゃ自力で解除可能だろうけど、それができないってんなら、俺がエマを、その男から二万で買う。言っとくが、バディのヘッドハンティング料としては相場以上の額だ」
「……!」
「ふ、ふざけんな。僕はっ」
珍しく感情をあらわにしてレイにくってかかろうとしたロアだが、レイは冷徹に突き放す。
「なら大人しく退学になるしかねーな。俺は有り余るほどスコアはあっても、気に入らねえ男に無料で貸し出すほどお人好しでもない。それに……バディのアンタが退学になりゃ、必然的にこの女はフリーになる。そうすりゃ俺は、邪魔者のいないカレッジで時間かけてコイツを口説きオトすだけだが、アンタ、それでいいの?」
「……っっっ」
「ちょ、ちょっと待ってレイ、ロアくん。……ねえレイ。それって、私がロアくんとバディを解消して、貴方と組むってことよね?」
「ああ」
「ああ、って貴方……孤高のソロリストじゃなかったの!? って、いやそんなことより、私なんかと組んだら……」
「そりゃ俺はデメリットが増えるだろうな。でも、アンタにはメリットしかねえんだから、別にそれでいいだろ」
「それはそうだけど!」
「それに……俺にとっても、悪いことばかりじゃない」
「……!」
掴んでいた頬を離すと、レイはエマの左手をスッと掬い上げ、胸の高さまで持ち上げた。
二人の間に掲げられたその左手の中指には、ロアとエマのバディリングが刻まれている。
独特な形の紋様を冷ややかな目で見下ろした後、レイは視線をバディリングからエマに移し、力強い眼差しでエマを捉えたまま、宣戦布告するように言った。
「バディを組めば、アンタは俺から逃げられなくなる。卒業するまでの間……俺がたっぷり可愛がってやるから、せいぜいボロが出ねえよう気をつけるんだな」
強気な笑みには、いつもの冷淡らしさが感じられない。むしろ情熱的な誘惑に溢れていた。
エマはいつにない彼の積極的なアプローチに、動揺と困惑で胸を騒がせる。
(び、びっくりした……)
(な、なによ急に真顔になっちゃって)
(って、いや、落ち着けエマ。彼は私を、好きでバディにしようっていうわけじゃない。『いにしえの魔女』である私を、逃げられないよう外堀を固めているだけのこと)
(きっと他意はない。これは単なる『取り引き』なんだから、変に意識する必要なんてないわ)
浮ついた気持ちを一蹴するよう頭を振り、エマはその手を見つめてしばし思案する。
やがてキュッと唇を噛み締めてから顔を上げると、腹を括って口を開いた。
「わかった」
「エマ!」
意を決してそう告げれば、慌てるようにロアが声を張り上げる。
エマはレイの手をスッと外すと、真摯にロアに向き合うよう、自身の胸の内を誠実に曝け出した。
「ロアくん、ごめんね。私から組もうって言ったのに、こんな形でバディを解消することになるなんて不本意でしかないけど……でも、退学になったら元も子もない。今はレイの厚意に甘えるのが一番の得策だと思う」
「……」
「カレッジにいればまた会えるし、クラスメイトとして相談に乗ることもできる。私はロアくんとも一緒に、無事にこのカレッジを卒業したいと思ってるから、だから……。彼の提案を受ける方向でもいいかな?」
穏やかな声色で諭すように言い、首を傾げて見せるエマ。
ロアは無言のまま俯き、しばし拳を強く握りしめて葛藤しているようだった。
「……」
やがて彼は諦めをつけるよう『はあ』と息を吐き出すと、顔を上げてから邪魔な前髪をかきあげる。彼のメガネの下に覗く緋色の瞳は、いつになく憤りで煮えたぎるように燃えていた。
「五万」
「……へ?」
「あ?」
「エマはそんなに安くない。五万……いや十万スコアなら〝今回は〟バディ解消に応じてもいい」
温情をかけてもらう立場だというのに、明らかに対抗心を剥き出しにしてその瞳をメラメラと燃やすロア。
一瞬きょとんと目を瞬いたが、相変わらず彼のマイペースさと頑固さに、エマは思わず苦笑をこぼしてしまった。
「ろ、ロアくん、さ、さすがにそれは……」
「てめえ。人がせっかく温情をかけてやってるっつーのに……」
「十万でも安いくらいだけど。首席学生でしょ? 払えないの?」
「……」
挑発めいた表情でレイを睨み上げるロアと、イラッとしながらもそれを冷笑しながら見下ろすレイ。
「十万でも二十万でもスコアなら腐るほどある。……だが、お前にやるスコアはねえんだよ」
「なんで」
「余計なスコアやったらいつまたお前にこの女を奪い返されるかわかんねーだろ。 ヴェルモンドはスコア至上主義だからな。スコアさえありゃなんだってできちまう」
「……」
「だから、なんと言われようがお前には最低限のスコアしか出さねえ。引き止める理由もねえし、嫌なら別に交渉決裂でもいいが?」
「…………」
レイが冷ややかな眼差しでロアを睨み下ろすと、二人の間にばちばちと火花が散った。
いったいこれはなんの張り合いなんだともはや失笑するしかないエマだったが、やがてロアは、気持ちに区切りをつけるように呟く。
「さすがは首席学生。その手には乗らない、か」
「あ?」
「わかった。君の提案通りに大人しく二万で手を打つ」
「……」
「ロアくん……」
なんとか納得してくれたようだ。ほっと胸を撫で下ろすエマだったが、ロアは「でも――」と続け、譲れない思いをぶつけるよう、レイとエマの二人に宣言する。
「退学取り消しの申請が通ったら、僕、これから本気出すから」
「……!」
「……」
「スコアを貯めたら……エマは返してもらう。覚悟しといてよ、レイ・グレイス」
まるで凶悪な魔王に立ち向かう勇者のようにそう言い放ち、ロアはぐるんと踵を返す。
そのままズンズンとその場を立ち去ろうとして……。戻ってきた。
「……」
「……?」
いまだ不満そうに口を尖らせながらも、しばしエマを惜しむように見つめたロアは、やがて別れの挨拶でもするように、エマの頬にそっと軽いキスをした。
「……!?」
「こう見えても僕、『超』執念深いんだ」
「ろ、ロアく……」
「必ず取り戻す。だから……良い子で待っててね」
「ちょ、おいコラてめえ」
憤るレイに、ふん、と嘲るような笑いを向け、ロアは今度こそドスドスと立ち去っていく。
(ロアくん……)
出会った頃より今まで、ただ頼りないだけだと思っていたロアの面影は、もはやどこにもない。明確な目的を見つけて魂を燃やしたように、しっかりとした足取りでロアは隣の学舎へと消えていった。
エマは神妙な面持ちで、彼のその後ろ姿を見届ける。
「あの野郎、いつかしばく……」
(と、とりあえず一件落着……?)
レイはこの上なく不満そうだったが、収まるべきところに収まったようにも思えるエマは、ようやくここでホッと胸を撫でおろし、苦笑をこぼす。
かくして――。
無事にスコア移動およびロアの異議申し立てはカレッジ内審査を通り、彼の退学は回避されることが決定。
しかしそれと同時にエマとロアのバディも解消となり、翌日からエマは、カレッジ内の首席学生であるレイ・グレイスとのバディ契約が成立。
その噂は瞬く間にカレッジ内に広まって、日陰生活を送るはずのエマは、不本意にもその名を派手に轟かせる事となってしまったのである。




