夜の香りがする
「私の名は聞かないのか?」
問われて、思わず隣を見る。
初日からずっと、ひとり夕食に遅れてくるこの穏やかイケメンと、並んで座ることが日課になってしまった。穏やか騎士さまは食事をする。わたしは献立を考える。たまに話をする。
騎士さまは穏やかさでだいぶイケメン力を中和していたので、あまり緊張せず話せるようになった。
けれど、その場にいないのに何があったか知っていることを隠さないのは、たまにどきりとする。どう反応すればいいかわからないわたしを見て楽しんでいる気もする。
「名を聞いてよろしいのですか?」
「うーん」
悩むならなんでそんなこと言ったの? ノリ?
「………イス……」
椅子? さすがに本名じゃないだろうし、本名だとしても、椅子様とか呼ぶの不敬すぎる。
「ノルチェフ嬢は、どんな名で呼ぶのがいいと思う?」
さすがに、心の中で穏やかイケメンと呼んでいることがバレたらまずい。
いくら脳みそをひっかきまわしても、いい案なんて出てこない。諦めて素直に答えることにした。この人は、そんなことで怒らない気がする。
「努力の君……とお呼びしてもいいでしょうか」
「努力?」
騎士さまはどこか自嘲する笑みを浮かべ、珍しく頬杖をついた。
「たしかに、私は努力するしかできない」
「ええ、素晴らしい才能です」
騎士さまが驚いてわたしを見るものだから、わたしも驚いて騎士さまを見てしまった。
「なにかひとつ好きな才能を選んでよいと言われれば、わたくしは努力の才を選びます」
「どうして? 選べるなら、もっといいものがいくらでもある」
「どんな才能を持っていても、それは努力の上に成り立っているものです。そもそも、人間は生まれたときからずっと努力と工夫をしているではありませんか」
騎士さまが黙ったままなので、勝手に続きを話すことにした。
「上には上がいると知っても、信頼している人に裏切られたとしても、自分の身以外なにもなくなっても、自分が努力して得たものは消えません。……なにが向いているか、この道で合っているか……わからずとも努力し続ける強さが、ほしい」
前世では立ち直るのに時間がかかった。これでいいか迷いながらすることに集中できず、かなりの時間を無駄にした。
今世ではできることをしてきたつもりだけど、常に頭の中に「わたしはこの程度だ」という思いがあった。愛する人に裏切られる、その程度の人間。
「騎士さまも、素晴らしい努力だと褒められることもあったのではありませんか?」
騎士さまはどこか気まずそうな空気で黙り込んだ。お世辞だと思っていたのかもしれない。
長い沈黙のあと、騎士さまはふうっと息を吐き、ゆるやかに微笑んだ。どこか気が抜けた、もしかすると初めて見る、素の顔。
「ノルチェフ嬢も、素晴らしい努力を惜しまなかったんだね」
瞬間、胸にこみあげてきた気持ちに、なんだか泣きたくなった。
たった一言が、体の、魂のすみずみまで浸透して、この先何度も思い出すことになると確信する永遠の一瞬。似た言葉は何度もかけられてきたのに、騎士さまの言葉がこれほど染み入るのは、この人が言葉の重みを知っているからだ。
自分の言葉が人を動かすことを知っている。その重要さを理解したうえで、本心をわたしに見せてくれている。
「僭越ながら慰めてさしあげようとしましたのに、逆に慰められるなんて、わたくしもまだまだですわね」
「これでも、ノルチェフ嬢より経験豊富だからね」
「あら、わたくしのほうが経験していることもありますよ」
「たとえば?」
ーー愛した男に、婚前からの貯金をすべて使い込まれ、借金を押しつけられてほかの女と出ていかれるとか。
にっこり微笑むと、騎士さまはそれ以上聞いてくることはなかった。
「私の名前、ロアなんてどうかな?」
「かしこまりました」
「呼んでみてくれないか」
「ロアさま」
ロアさまは笑った。
初めて見たロアさまの歯は、すごく白かった。
「ロアさま、明日から夜食を用意するつもりですが、パンとお米と麺、どれがいいですか?」
「パン」
「かしこまりました」
「照り焼きチキンを挟んでほしい」
「お目が高い。照り焼きチキンとマヨネーズを挟んだものは、我が家で大人気でございます」
「楽しみだなぁ」
ロアさまが笑う。
ロアさまがイケメンすぎなくて、やわらかい言葉しか使わないことで、どれだけ働きやすかったか。
きっと本人は知らないままだ。それでいいと思った。その程度の関係がいい。
やっぱりまだ、異性に深入りするのはこわいから。